2020.9.20

TEXT 「貧」 痕跡から

前回a+u レヴューとして取り上げたテキストで、カントの『理論と実践』から引用した『理論と実践とのあいだには、両者を結びつけて一方から他方への移り行きを可能ならしめるような中間項を必要とする』という文章は、これもその前の回で取り上げたマンフォードの翻訳で知られる生田勉による『私は、マンフォードにくらべて神秘主義めいているが、美的なるものを成立させるのは、なにかそこに介在する触媒的なものの役割を考える』という発言と並置して、「中間項」と「触媒」という語を同じ平面で考察できる。

この二つの言葉を巡る両者の立場は異なる。カントは理論と実践の架け橋として、生田勉は美を成立せしめるためのスパイス的な働きとして捉えている。しかしどちらも表象に先立つ思考において、抱いたイメージが考えた通りに進むかどうかには、あいだに何かが必要だという考えだ。成果としての表象はその産出過程の途中で、その過程そのものがにじみ出てくるものが感じられる場合がある。それは何かといわれると説明が難しい場合がある。つまりカントや生田勉がいうところの「中間項」「触媒」にあたるものなのかどうかはわからない。しかしその「過程」における何かしら「ザッハリヒ」的ではない、むしろ理論を超えた「原初的」な感覚を抱くような体験というものをすることもある。また「ザッハリヒ」的なイメージをもち、しかもそれ単体として内包された意味を見いだすことがかなり難しいと思わせるような体験もある。〈アルテ・ポーヴェラ〉運動もこうした感覚に似ている。

前回テキストで取り上げた磯崎新の対談集『建築の政治学』(岩波書店刊)では、アルテ・ポーヴェラの中心人物であったジェルマーノ・チェントとの対談も掲載されている。アルテ・ポーヴェラは、訳すと「貧しい芸術」ということになるが、チェントはアルテ・ポーヴェラの「ポーヴェラ」、つまり「貧しさ」の意味について問われたときに、以下のように答えている。

『もちろん、政治的な意味合いで用いていた。(略)第二に、それは安価でプアーな素材を意味した。(略)まずは基本的な感受性それに通常(バナール)の感覚とかかわり合いのあることがわかるだろう。だけどこの通常という言葉はドイツでは権力を意味していた。つまり、バナールを分解すると硬貨を持つものという意味になり、結局権力者ということになる。貧乏で普通が、最後には権力者になる。この堂々めぐりも知っておかねばならない。だが何よりも、これは、空気、煙、風景、紙、といった誰でもみつけることのできる、それでいて深い背後の記号にささえられた素材だ』。

「通常」は「権力」、「カネをもつ者」に微分化され「権力者」へとたどる。つまり「普通」は結局「権力」への始まりともとれる解釈である。チェラントは「普通」と「貧しさ」を並置していることとともに、彼が「通常」をドイツ語の語源から派生させたことともあわせて、独特で興味深い思考過程のように思える。「普通」、「貧しさ」から「権力」へという、一見極端な思考過程のなかに入り込んでみると、人の思考のなかには、普通や貧しさに対する現状を受け入れがたいが受け入れざるを得ないといった共通の無意識が潜んでいるように思える。そしていわば抑圧された感覚を普段は糊塗し、権力に対しても特段反発せず、多少の不平を言う程度で日常を過ごす。それは一端立場が反転し、権力側に、あるいはカネ持ちになったとたんに「普通」、「貧しさ」を嫌悪するという豹変に、人々は多少は自覚していることもあるからだろうと思われる。いつも私が頭の中にある漱石の言葉を思い出す。以前テキストで取り上げたが、漱石の『こころ』の中で、「先生」が次のような言葉を発する。
『かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬をしりぞけたいと思うのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代わりに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立を己れとに満ちた現代に生まれた我々には、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう』。

跪いた「記憶」がその後人の頭の上に足をのせようとする。「記憶」が無意識に、自然なかたちで行動に移す。

また「ポーヴェラ」、すなわち「貧しさ」ということ単体で考えてみても、先述したチェラントの言葉による「安価でプアーな素材」というものと、物理的に「お金がない」という経済的な側面、カネの欠乏に直結することと、また「貧層だ」という必ずしもカネがないとは限らない状態に多少の違いはある。「貧しさ」の定義は簡単ではない。ではその反対に「豊かさ」はどうだろうか。これも「貧しさ」の分解された概念の反対語が羅列されるだけかもしれない。

磯崎によるこの本を読んだ30年前にはじめて、このアルテ・ポーヴェラという過去のイタリアにおける芸術運動を知って、もっと深く知りたいと思い関連する本を探したが、当時は見つけることができなかった。今から4年前に池野絢子氏による『アルテ・ポーヴェラ -戦後イタリアにおける芸術・生・政治』(慶応大学出版会刊)という、かなりまとまった専門的で論文調の著作が出て、はじめてその全体を知ることができた。この本のなかではチェラント以外のメンバーの発言も掲載されている。例えばミケランジェロ・ビストレットは『何故この言葉(「貧しい」)なのかは、チェラントに聞かなければいけないよ。僕はいつもこのことに関して困ってきた。個人的に言えば、それがどういう意味なのかはさっぱりわからない。僕たちに共通しているのは客観性であって、それは表象にも、個人的な表現にも、社会的テーマにもないものなんだよ』とあるとおり、「ポーヴェラ」とはメンバー全員におけるコンセンサスではないことがわかる。具体的な彼らの発表の場、つまり展覧会の例が挙げられているが、例えばルチアーノ・ファブロの「床 – トートロジー」(1967年)は、『新聞紙を床に広げただけの作品で、新聞紙が覆い隠している床が、床に他ならないという同語反復的な状況を示す。ここからわかるように「貧しい」とは当初、作品が何か別のものを指示しないことを意味していた』(『 』内は本文より抜粋)。口絵の写真を見るとその通りの、ただ新聞紙を広げて全体に大きな正方形になるように床に置いただけのものである。これをみて思い出すのがマルセル・デュシャンである。有名なレディ・メイドの「泉」が例として挙げられる。しかしこれは小便器を逆さにして、「泉」という名付けをし、「便器」としての用途とは異なる意味として「展示」していて、「便器」そのものであるにもかかわらず、「便器」ではない意味を、芸術の領域として、あるいは既存の芸術へのアイロニーとして「表現」している。しかし「床 – トートロジー」は覆っているものをめくっても、そこにあるのはただの「床」であり、「床」そのもの以外に意味はないことを示しているという点で、全く違う立場にあることがわかる。また本書では当時のアメリカにおけるポップアートにおける反発や資本主義へのアンチテーゼによる運動としても論じられている。他にもメンバーによる多くの作品が論評されている。例えばボエッティによる「双子」、「政治的平面球形図」、ウォルター・デ・マリアによる「1マイルのドローイング」など、どれも写真付きで、このモノクロの画像だけでも興味を引かれる。

またテクノロジーとの関連で発言しているメンバーの言葉も紹介されている。バリッリによる発言『「貧しさ」とは、今日与えられるあらゆるものを迎え入れる姿勢として了解されるものだ。それは、選り好みをして昇華へむかうことも、平凡な世界やテクノロジーの地平も、どう扱えばよいかがわかれば、天国かもしれない・・・』は、いわば資本主義の産物である、貧しさとはかけ離れたテクノロジーを、否定するどころか受け入れる態度である。また他にボニート・オリーヴァは貧しさと身体性の関係を、『作品の「貧しさ」は、歴史的な状況の条件づけを反映して、強いられた貧しさになる。つまりそれは、芸術家の意図的かつ漸進的な清貧化だ。芸術家は、徐々に世界を放棄しながら脱いでいき、ついには自らの身体の文法だけを利用するようになる』として、「清貧化」を芸術における「貧しさ」に結び付けている。他にもメンバーではない、例えばイタロ・カルヴィーノやルネ・マルグリッドなどの作品を題材に論評しているところもあり、論の展開が広域にわたっているところも興味深い。

この「貧しさ」という状態、概念を、このアルテ・ポーヴェラというある時代の芸術運動を手掛かりとして考えてもひとくくりにできないというこがわかる程度で、ましてや明確に定義できるものではないだろう。

村上春樹の初期の短編で『貧乏な叔母さんの話』というおもしろい作品がある。内容には触れないが、村上春樹自身がのちに自作を語った文章で、『僕としてはかなりの意欲作だったのだが、あまりにもテーマが大きすぎて、駆け出しの作家の手にあまる部分があった』とある通り、単に貧しい叔母という存在を書くというだけなら、「叔母」という女性の幾通りかの人生経験を描写すればいいのだろうが、身内という存在でもある「叔母」は甥や姪、兄弟の関係や人生、生活そのものであるということからも、経済的に困窮している身内の過去と現在を表現することの難しさを想像するだけでも予想できる。

この「貧しさ」を「豊かさ」と比較して身近に考えてみると、例えば建築の表現として「豊かな空間」などという言い方がよくされる。それはたしかに高価な素材でつくられたものを指すわけではなく、空間性においてよく練られ、素材の扱い、構成、視線、広さ、高さなど、外と内との関係なども含めよく考えられた空間を指すことが多い。こうした空間に出会った経験は少なからずある。また自分で設計した建物でもこのように実感したこともある。いずれも設計の過程で格闘した「痕」みたいなものを感じているためといえるのではないか。反対に「貧しい」というより「貧相な」、あるいは「チープな」という言い方をよくするが、こうした空間はたとえ高価な素材を使用していても多く存在する。むしろこちらの方が圧倒的に多いといった方が正しい。このような空間に対しては、設計過程での短絡さが露出し、「痕」がまったく表出していないと感じるものである。それは実際にその空間を体験しない、雑誌に掲載されているものにおいても感じることはある。私はこうした「痕」、「痕跡」というものをよく考える。なかなか表にあらわれにくいものであるが、アルテ・ポーヴェラについて考えるときも、この「痕跡」という言葉が浮かんでくる。実際この著作のなかで、「痕跡」について触れられている箇所がある。

現代芸術において外すことができない1969年スイスで開かれた「リブ・イン・ユア・ヘッド -態度がフォルムになるとき」と題された展覧会で監修を務めたハラルド・ゼーマンが、この展覧会に寄せた文章があって、以下に引用する。

『作品、概念、過程、状況、情報は「フォルム」である。この芸術的態度は、そのフォルムのなかに表れているのだ。前もって考えられた造形についての観念ではなく、芸術的プロセスの経験から発生したのが「フォルム」なのである。芸術的プロセスは、身振りの延長としてのマテリアルの選択と、作品のフォルムをも規定している。この身振りは、私的なものでも、内密なものでも、あるいは公的なものでも、外に開かれたものもあり得る。しかし常にプロセスが本質的なものに留まり、それは同時に「手書きの筆跡であり、文体」である。したがってこの芸術の意義とは、芸術家の全世代が、自然なプロセスにおいて「芸術と芸術家の自然」を「フォルム」にならしめるよう、着手することにあるのだ』。

「手書きの筆跡であり、文体」、すなわち「痕跡」は、プロセスそのものである。先述の空間性において考えると、「豊か」と感じるとすれば、おそらくそこには目に見えにくいプロセスによる「痕跡」を感じ取っているからであろう。アルテ・ポーヴェラが投げかけた「貧しさ」という概念は、反対の「豊かさ」の概念の広がりと同じ拡がりをもつ。それゆえ村上春樹を「手にあまる」と言わしめた「貧しさ」は、反対に豊かにその思考の拡散をもたらす。

2020.9.6

TEXT a+u レヴュー-2

バーナード・チュミは私が大学2年、80年代の中頃に、a+uで「ラ・ヴィレット公園」が掲載され、私を含めた多くの学生が大きな刺激を受けた。当時他にダニエル・リベスキンドやザハ・ハディドなどいわゆるペーパーアーキテクトによるドローイングや計画案が次々と同誌に発表されたこともあり、私たち当時の学生はそれまで参照してきた近代建築の巨匠たちから興味の対象が移行していった。彼らのテキストや論理よりもそれまでとは異質のデザインのインパクトに学生のみならず多くの人が影響を受け、その一方で彼らのテキストにはあまり大きな関心が向かなかったというのが現実ではないだろうか。つまり論理以上にその現前としての作品に集中し、どうしたらこのようなデザインができるものかと自分なりに考え、多くの学生は設計演習などでまねようとしたものだ。

前回のテキストで最初に触れたように、a+u7月号は「70年代の建築」全般についての特集だったが、8月号は磯崎新の70年代に絞った特集が組まれている。副題は「実務と理論」となっている通り、実作と主に実施設計図の青焼き図面が掲載されている。実務と言えば、設計業務全般を示すものと思われるが、ここでは理論と実践という関係に置き換えて考えてみたい。設計においてよくあることだが、基本計画と実作では大小にかかわらず違いが出ることはよくあることである。実作において基本計画で盛り込まれていた要素が欠落していたり、あるいは基本計画の原型をとどめていないもの、まったく違う案になっていたりすることもある。しかし基本計画が承認され、それがそのまま実作として実現しない、という状態においては、その大きな理由に工事中に工事費が膨らみすぎたか、あるいは着工前に予算オーバーで実施設計の変更という事態になるかであろうが、他に施工上無理な計画だったか、無理ではなくても費用がかかりすぎるという理由もある。顕著な例が数年前に問題になったザハ・ハディドによる国立競技場だろう。結局国立競技場も事実上コンペのやり直しという事態になった。しかし計画案としてまとめ上げる、あるいは承認される前に廃案になるか、設計者が諦めるか、ということが多い。つまり最初に発想した案が、計画を進めていく途中で、あるいは社内でプレゼンした段階で廃案にされることも多い。発案者はほとんど諦めてしまう。しかしそこでその実現可能性を説得し施工上も予算上も、さらには施主の理解をクリアできるよう仕事を進めることは、かなりの困難を極める。しかし多くの人を説得し、動かし、それをやり遂げる人が本当のデザイナーともいえる。上記の建築家はそれができた人たちである。身近にも稀だがそういった人は存在する。「アイディアはいいものだが、実際には無理ではないか」という状況は、その程度の差はあれ、どこでも起こりうる事態だ。この理論と実践ということを考えた時、私はカントの著書『啓蒙とは何か』(岩波文庫)に収められている『理論と実践』が思い浮かぶ。完全な題目は『理論では正しいかも知れないが、しかし実践には役に立たないという通説について』というもので、以下に本文から一部抜粋する。

『実践的規則を総括して、この総括そのものを理論と呼ぶのは、これらの規則がある程度の普遍性をもつ原理と見なされるような場合である。なおこの場合には、かかる規則の使用に必然的影響を及ぼすような多くの条件は無視されるのである。これに対して実践というのは、何によらずただ仕事をしさえすればよいというのではなくて、なんらかの目的を実現するための行為を指すが、しかしその場合にもこの行為は、目的実現の仕方に関してなんらかの一般的原理に従うのである』。

さらに『理論と実践とのあいだには、両者を結びつけて一方から他方への移り行きを可能ならしめるような中間項を必要とする』(カント著『啓蒙とは何か』岩波文庫 篠田英雄訳)。

訳者が後記で『「理論が全体として厳密に構成されていれば、それは的確に実践と一致する」というのがカントの主張である』と書いているように、実現不可能な状態に陥れるのは理論の厳密さの不足があるということが読み取れる。

磯崎新の、これは70年代ではないが、80年代の終わりに実施された「奈良市民ホール」のコンペで1位を獲得した実作を、私は今世紀の始めに体感した。なぜこの作品を持ち出したかというと、二つの思い入れがあるからだが、一つは私が学生時代に所属した研究室で参加したこのコンペの一員としての経験があることと、もう一つは実作を見学した時の驚きにある。建物全体のデザインの他、特殊なタイルの外壁材と、なにより大・小二つのホールのデザイン。特にガラスの小ホールには大きな驚きを抱いたとともに様々なことを考えされた。舞台と客席のあるホール、こうした用途で建物の外観や構成の単なる意匠ではなく、一番重要なホールそのもののデザイン、しかもそこに画期的なアイディアが盛り込まれたデザインに対して、様々な思いを抱く。音が反響しやすいガラスを構成要素として、しかも壁面に使用することに対する高いハードルが予想され、ほとんどの人は周囲からの「無理だ」という声に諦めてしまうのではないかと私など考えてしまう。それを現実のものにする過程で、確かな理論と言説が必要だし、誰でもできるわけではない。優れた建築家に限らず優れたデザイナーとはこういうことが出来る人なのだと改めて思い知らされた。

磯崎新は著作も多いので、テキストを通して理論を享受できる。もう30年くらい前に読んだ対談集『建築の政治学』を今改めて開いてみると、アイゼンマンとの対談『過激さは中心からの距離』で、自己の世代について論じあっている。

アイゼンマン:俺たちの世代の精神、イデオロギー的な精神は、モダニズムの後にあらわれた真の意味でのポスト・モダンの世代のものだ。様式上ではなく、真に概念としてなんだ。俺たちは、1945年以後の戦後に、世界の大部分が再建されねばならなかったという事実によって、過激にさせられてしまった。アメリカも日本と同じように完全に再建されねばならなかった。だが、その再建は、協調した過激主義とでもいうべきものだった。モダニズムには、社会的・政治的イデオロギーを排除するところがあったためだ。日本の全土をおおっているこの空虚なモダニズムをみてみたまえ。俺たちの世代はそれに与するには若すぎたし、68年の学生革命に加担するには年をとりすぎていた。(中略)だから、俺たちは、ある意味で、年寄りの過激派でもある。(中略)68年の過激派たちは、建築を破壊した、その世代の連中はなぜか消えちまっている。失われた世代だよ。自滅してしまった。

磯崎:彼らは、デザインの廃棄を叫んでいた。デザインをさけた。

アイゼンマン:「建築」に正面から立ち向かおうとしなかった。『建築の政治学』(岩波書店刊より)

この対談を読むと、以前のテキストで書いたジョン・ケージと武満徹の対談を思い出す。分野は異なるが、現代音楽における二人の立場は、「ジョン・ケージは音楽を構築しなかったのに対し、武満徹は音楽を構築した」ということに通じる。磯崎もアイゼンマンも、「建築」に正面から向き合った人物だからこそ今でもその影響の大きさが現在につながっている。

a+u8月号に戻ると、北九州市立中央図書館(1974年)において、実施設計図の平面詳細図、矩計図の青焼き図面ほか基本計画図としての透視図(外観と内観)が掲載されている。前回テキストでグンナー・バーカーツのGAギャラリーの冊子に接したのと同じように、大学図書館でこの図書館のたしか単体のGA特集か磯崎の作品集をいつも見ていたことを思い出す。ライトやカーンあるいはミース、コルビュジェなど近代建築の巨匠以降の建築で、入手しうる情報として「a+u」や「GA」など限られた建築雑誌による少ない写真を何度も見ながら、その「形態」をまねて設計製図の課題で自分なりの精一杯の「いい感じ」を展開させた、そういった学生時代を思いだすと、情報量とプレゼンの媒体の変化の大きさにも思いがいく。

前回のテキストとあわせて、7月号、8月号で取り上げられた現存する建築は今もなお我々を魅了する。それはなぜなのだろうか。前回ルイス・マンフォードの講演『芸術と技術』を取り上げたが、あらためて一部を抜粋する。

『芸術作品は、単に目をひくものか単に衝撃を与えるだけのものなら、ひとの注意を長くとどめておくことはできず、いわば魅惑的でなければならない。そして、派手になりすぎないやり方で、意味をもつものでなければならない。しかもその意味は、意味内容をはっきり言いあらわす数字や記号のように、あまりあからさまでかつ一定内容に限定しすぎてはならず、むしろ反対に少しばかりあいまいで、少しばかり謎めいて、観客や聴衆がどのような反応を示すか不確定な余地をのこしておかなければならない。観客や聴衆がその創造行為に共に与ることができるように』。

2020.8.23

TEXT a+u レヴュー -1

こういう企画にでも遭遇しなければ、すでに記憶の彼方にいってしまったものを再び引き戻すことは難しい。a+u7月号と8月号で続けて興味深い特集が組まれている。7月号は『70年代の建築(「最良の時代」でも「最悪の時代」でもない)』、続けて8月号は『磯崎新の1970年代―実務と理論』である。頁を繰ると私が学生時代だった80年代がゆっくりと蘇ってくる。それとともに当時私が大きな影響を受けた建築評論家の著作も同時に蘇る。それはルイス・マンフォードの『芸術と技術』という岩波新書から改版が出たばかりの本である。マンフォードはアメリカの建築評論家の他文明評論家、あるいは「ゼネラリスト」とも呼ばれていた存在で、私が在学中に90過ぎで亡くなっている。著作には『都市の文化』、『権力のペンタゴン』、『機械の神話』などがある。これらの著作は当時でも絶版になっていて、私は大学の図書館で借りて読んだ(これらの本は原書では手元にある)。この新書『芸術と技術』は1951年の大学での公開講演をまとめたもので、非常に読みやすい。そのためか最初に触れたマンフォードの著作として、ちょうど入門編のような感覚で、その後ここから他の著作につながっていった。建築を学び始めた当時の自分にとって最も大きな影響を受けた存在といっていい。本書から特に印象に残った一節を「建築における象徴と機能」の章の冒頭から引用する。

『この芸術(建築)においては美と効用、象徴的形姿と構造、意味と実用的機能を切り離すことは、形態を分析する際ですらほとんどできない。なぜなら建築は、たとえそれがどんなに不細工であろうと、また建てる者の言い分を語ろうともしないにせよ、ただそれが建っているということだけで、なにか言いあらわさざるをえないからである』(原文は口語体で生田勉による翻訳)。

建築物は『建てる者の言い分を語ろうとしない』ものであり、また設計者として『本当はこうしたかったのだが』という言い訳をすることが出来ない、現前としてそこにあるものの「責任の重さ」を、もう30年以上経てもなお今でも胸にとどめている。

もう少しマンフォードのこの本を続けると、『芸術と技術』というタイトルであることからも、「芸術」と「技術」、それぞれの定義が語られている。

『芸術とは、人間個性の十分な刻印をのこしている技術の一部であり、技術とは、機械による処理を促進するため人間個性の大部分がそこから排除されてしまった芸術の表出である』(同じく翻訳は口語体)。

本書の翻訳者である生田勉は建築家でもあり、マンフォードと親交のあつかった人であるが、この本のあとがきで、マンフォードの考えと相いれない部分を吐露している。

『マンフォードの論理の特徴は、できあがる美と、構造的・経済的・設備・衛生・電気など一連の諸機能とを、同列の機能とみなしている点にある。建築家として私の観点からは異論がある。美の機能と利便的機能とが同列であるならば、ひとつの名建築がパッとできてしまうことになるが、そういうわけにはいかない。名建築すなわち美を成立させるには、なにかあるものが要るわけで、これが何であるかわからない。私は、マンフォードにくらべて神秘主義めいているが、美的なるものを成立させるのは、なにかそこに介在する触媒的なものの役割を考える』。

このあとがきは1980年代中頃、彼が亡くなる2週間前のものだが、マンフォードへの敬愛と友情をよく表しているように感じる発言である。

上記の抜粋からもわかるように、評論において、難しい言葉は使っていない。50年代では難解ないわゆる哲学思想の言語が侵入していない時期であろうか。それは最初に挙げたa+u7月号の巻頭エッセイで書かれていることから推測できる。40年代にモホリ=ナギが、また50年代はトマス・マルドナードが記号論の指導、ゼミの開催などの動き、そして一方で60年代にジョセフ・リクワートが『記号論を合理主義的に解釈してはならず、むしろデザイナーにたいしては、自作のもつ感情への訴求力に目を向け・・・』と、いうことに対して60年代は多くのイタリア人評論家が記号論を武器にするようになったと書かれている(『 』内は本書から抜粋)。建築家ではアルド・ロッシの論文『都市の建築』による「普遍類型学の法則」、あるいはマンフレッド・タフーリによる評論『建築の理論と歴史』(邦題は「建築のテオリア」)、『建築とユートピア』(邦題は「建築神話の崩壊」)ではニューヨーク・ファイブの記号学とフォルマリズムを糾弾しているということも紹介されている。私は70年代の建築理論や建築思想をリアルタイムに体験していない。上記のようなロッシの思想やタフーリの著作、またこのエッセイに登場するレイナー・バンハムの著作などは当時建築を学ぶ80年代の学生にとってはすでに必読書、いわば教科書的な存在となっていたこともあり、当時は建築におけるいわばディコンストラクションが登場した時代ということもあり、興味の中心がそれまでとは異質のデザイン、表現手法へと移っていった。しかしこの7月号で取り上げられている建築家と作品、ドローイング等は当時建築を学び始めた学生にとって大きな影響を受けただけでなく、今見ても色褪せていない。ルイス・カーンの「フィリップ・エクセター・アカデミー図書館」(1972年)、カルロ・スカルパの「ブリオン・ヴェガ墓地」(1974年)、「ヴェローナ市民銀行」(1973年)に始まり、a+u75年4月号からアイゼンマン、マイケル・グレイブス、チャールズ・グワスミイ、ジョン・ヘイダック、リチャード・マイヤー、76年5月号からアルド・ロッシのテキストと作品、その他ロバート・スターン、ロバート・ヴェンチューリ、ハンス・ホライン、磯崎新などの作品と計画案のドローイングが続く。そして7月号の後半は75年9月号からノーマン・フォスターとレイナー・バンハムのテキストが掲載され、リチャード・ロジャース、レンゾ・ピアノとともにいわゆるハイテク建築が紹介されている。個別の作品に詳細を書くときりがないが、なかでも私が大学に入学して間もなく、図書館で手にした薄い冊子「GAギャラリー」のグンナー・バーカーツによる『ミネアポリス連邦準備銀行』は、その構法と構造と意匠が一体となった現代的なデザインに惹かれ、いつもこの薄い冊子を見ていた記憶が蘇る。この建築は地上レベルを公共広場として利用するために、100mの建物両端のコアからの吊構造が採用された斬新で明解なデザインである。このような吊構造でそれがそのまま意匠として表現されているものの代表と言えば、以前の回のテキストで触れた丹下健三の代々木体育館があるが、これとはまた違った魅力を放っている。グンナー・バーカーツによるこの建築は、一見現代的でスケールがはっきりしない、ガラスのカーテンウォールでかろうじてその大きさがわかるような、いわゆるインターナショナルスタイルともいえるが、他の単なるガラスの連続建築とは明らかに異なる。一方単なる矩形のインターナショナルスタイルは、超高層ビルとして世界中どこにでも存在する。「国際連合の事務局ビル」はその典型ともいっていい建築であるが、これはガラスのカーテンウォールのイメージが強く、現在でも報道などの映像でもこのイメージは定着しているが、デザインについては多くの批判もある。オスカー・ニーマイヤー、ル・コルビュジェ設計によるこのデザインに対して、マンフォードは『芸術と技術』の「建築における象徴と機能」の章のなかで、以下のように批判している。

『今日(20世紀中頃)では、多くの建築家はみずから陥った貧相さに気づいている。機械の教訓を吸収し新しい構造形式を学ぶうちに、自分たちが人間の個性の正当な要求をなおざりにしてきたことを悟った。古くさくなった象徴を排撃したのはよかったが、同時に、完璧な建造物ならどれにおいてでも十分果たされていなければならぬ人間的な欲求、興味、愛情、価値などまで斥けてしまった』。

「人間の個性の正当な要求」や「人間的な欲求、興味、愛情、価値」といった概念は、1950年代当時では実感として多くの人に受け入れられた言葉であろう。先に挙げた生田勉の言葉『なにかそこに介在する触媒的なものの役割』というものもこれに含まれているように思う。いわば建築におけるユマニスムのような、古代とはいわないまでも、直近の近代建築のフランク・ロイド・ライトやルイス・カーンのような心を揺さぶるような原初的な感覚といったものに多く触れてきた者にとって、新しい概念と表出への嫌悪や郷愁というものを抱くということを止めることはできない。『私がここで言っている意味での建築とは、それが役者=行為する者に最大の助けとなって社会的ドラマが演じられる、文化の恒久的な舞台装置のことである。建築において、象徴と機能とを実際に調和させることが、最大の重要事である』(マンフォード著『芸術と技術』より)。「象徴と機能との調和」は本書のテーマである「芸術と技術」における統合についての考察の一つの試論といえる。マンフォードは、彼が敬愛するW.ジェイムズによる著『プラグマティズム』から「軟らかい心」と「硬い心」というキーワードを引用し、この二つの「心」の統一にジェイムズは失敗したという見解をもち、マンフォード自身は『長いこと、こうした不公平な解決、こうした一方的な綜合には批判的』だったと述べている。いずれにしても70年代はこうした二項対立的な考察より、ドローインングにせよ実作にせよ、その表象は一見後から言葉がついてくるような世界に直面することになり、思想は大きく転換し、多様に広がっていく。7月号の最後の方では、フランク・ゲーリーの『自邸』が登場する。この建築に代表される「構造」(工学的な意味あいではない)を解釈するには、まだ少し時間がかかり、私にとってはバーナード・チュミのような建築を待たなければならなかった。これらには単純な二項対立的な解釈はもはや存在しない。

・・・2へ続く

2020.8.9

TEXT ベケットの言語「快楽」

テクストをめぐる快楽の大きなものは、「オイディプス的」快楽であろうが、私にとってもう一つの快楽は非「オイディプス的」なものとの出会いである。「オイディプス」は「衣服」が避け、口を開いたところから垣間見える肌の「出現-消滅」である。まぎれもなくこのバルト的快楽とは、『物語が「父」を登場させ、起源と結末を裸にする、知る、認識する』ことであり、一方でその快楽を「非」的な現出で認識すること。ブランショとベケットの「フィクション」体験がその最も覚醒的な現出となり、すべてのアポステリオリから解放され、一時的に、あるいは終始表象の現前を拒否してくれる。そして「言語」の海へと導いてくれる。ドゥルーズはこのような体験を、いわゆる「ベケット論」として「言語Ⅰ」を、『言葉でもって可能なことを尽くすという野望をもつ以上、順列組合せは一つのメタ言語を構成しなければならない。この言語においては物の関係が言葉の関係に一致し、言葉はもはや可能なことを実現にみちびくのではなく、言葉自身が、まさに一つの消尽しうる固有の現実を可能なことに与えるのだ。ぎりぎりまで小さくなり。もうそれ以上はない。不在にむかって、無限が零に達するように一直線に』としたうえで、この切断されたものとしての言語を定義している。またこの言語Ⅰを「名詞の言語」とも言っている(『消尽したもの』ドゥルーズ著、宇野邦一訳、白水社刊より)。ここでいう「順列組合せ」とは、『可能なことを包括的選言命題によって尽くす技術あるいは科学』としていて、選択された可能性はメタ言語として、可能なことに消尽しうる固有の現実を与えるということになる。続けてドゥルーズはさらに言語Ⅱを「声の言語」とする。フィクションを可能にする様々な言語Ⅱ。これは『混成可能な流れによって作動する』。さらにドゥルーズは言語Ⅱについて同書で以下に述べている。

『言葉を尽くすには、言葉を発音する〈他者たち〉に、あるいはむしろ混合されたり区別されたりする流れにしたがって言葉を発し分泌する〈他者たち〉に、言葉を結びつけなければならない。この非常に複雑な第二の契機は、第一の契機と無関係なわけではない。つまり話すのはいつでもひとりの〈他者〉なのである。言葉は決して〈私〉など待望したことはなく、言語とはいつも異国語でしかないからである。それはいつも他者であり、みずから話すことで所有する物の「持ち主」である。あいかわらず可能なことが問題なのだが、こんどは様相を異にしている。他者たちは様々な可能世界であり、声たちはこの可能世界に、その声がもつ力にしたがってたえず変化しうる現実を提供する』。

「私」を待望しない「他者」、そして「他者」が発する「声」にしたがって、語り手が不連続と「立ち止まり」を続ける。そうした感覚は具体的に(ベケットの)作品の読むことで、より鮮明になる。

ベケットの小説三部作といわれる『モロイ』、『マウロン死す』、『名づけられないもの』が昨年、宇野邦一による新訳で刊行された。初めて三作を通して読んでみると、以前読んだ『事の次第』と『マーフィー』とともに、エクリチュールにおけるアプリオリな解釈の心構えと期待を超えた裏切りに、さらに思考の拡大と旋回という原初的な「眩惑」体験に陥る。あらためてそこに喜びを見いだすことができるのがベケットであることを実感する。これはブランショでも同様の体験を得ることができる。『モロイ』の一節を以下に挙げる。

『警官がやってきた。私がぐずぐずしているのが気に障るのだ。彼にしたって窓のほうから見られていた。どうやら笑われていた。私のなかにも笑っている人物がいた。悪いほうの足を手で抱え、自転車のフレームの上をまたがせた。私は出発した。行き先を忘れていた。思い出そうとして止まった。私には自転車をこぎながらものを考えるのは難しい。走りながら考えようとするとバランスを失って転んでしまう。いま現在形で私は語っている。過去のことは現在形で語ればやさしい。これは神話的現在というものだ』(『モロイ』河出書房新社刊、宇野邦一訳より)

全体を通してこのように具体的な行為、行動は描写されてはいるが、旅の途中で出くわす様々な事象のなかで、そのときそのときの言葉を継続する。ここには「私」という語り手が存在し、ぎりぎりのフィクションを成立せしめる「声」が存在する。先述の「言語Ⅱ」が成立する。

「言語Ⅰ」に戻ると、それは「語り手不在の名詞の連続」ともいえるもので、『事の次第』で顕著に表れる。以下に一節を抜粋する。

『わたしの人生最終版言いそこない聞きそこないに見つけそこないそして泥のなかでのささやきそこない顔面下部の束の間の動きいたるところで脱落だらけ

それでもどこかで記録はされそのほうがよいそのまま順を追いわたしの人生の一瞬一瞬わたしは百万番ではないほとんどすべてが失われ誰かが聴きそれからもう一人誰かが記録を取っているひょっとしたら同一人物(原文ママ)』(『事の次第』白水社刊、片山昇訳より)

句読点もなく、誰が何に対して言っているのか、いわゆる文章の法則を逸脱した表現といえる。このように一見支離滅裂な印象を与えるものの、小説は全体として三部から構成され、第一部は「わたし」が「ピム」を求めた旅の日記であり、第二部はその「ピム」と「わたし」の共同生活について、第三部は「わたし」の言葉、というように内容が破綻しているということではなく、物語が存在する。つまり一見小説の「語り手」が判然としないように見えて、それが省略されているか、背後に隠れているような構造がある。つまり「言語Ⅰ」、すなわち「語り手不在の名詞の連続」は決して語り手がいないというわけではなく、見えないだけという場合もある。隙間から覗くと確かに存在する場合がある。先に挙げたドゥルーズによる解釈のように、言語は『ぎりぎりまで小さくなり。もうそれ以上はない。不在にむかって、無限が零に達するように一直線に』展開する。

先述の『モロイ』の後に発表された『マウロン死す』も同様な手法で、『モロイ』よりさらに「不連続」が強くなる。以下に一節を抜粋する。

『現在の状況。ここは私の部屋のようだ。そうでなけれりゃ、ここにいられる理由がわからない。しばらく前から。なんらかの権力が仕組んでいるのでなければ。そんなことはありえそうにない。私のことで、どういうわけで権力が方針転換したのか。一番単純な説明ですませるのがいい、たとえそれほど単純じゃないとしても、たいして説明になっていないとしても』(『マウロン死す』河出書房新社刊、宇野邦一訳より)。

しかしその後発表された『名づけられないもの』では、ある一節を抜粋すると、『この前置きはもうすぐ終わりにして、そろそろ私のことでは決着をつけたいものだ。不幸なことに、いつものように私は一歩踏み出すのが怖い。なにしろ一歩踏み出すとは、ここから出かけること、自分を見出し、見失い、消滅し、再開し、最初は未知のものとして、それからおもむろに、いつものように、別の場所で、私はずっとそこにいたと言うだろうが、実は何も知らないし、知ることができず、見ることも動くことも考えることも話すこともかなわず、それでも少しずつ、こんな障害にもかかわらず、そこがいつもと同じ場所だとわかるのにはちょうど十分なだけわかってきて、そこは私のためにあるようだが、私は望まれず、私のほうは望んでいるようでもあり、望まないようでもあり、・・・』(『名づけられないもの』河出書房新社刊、宇野邦一訳より)というように、その後文が途切れずさらに続き、訳者である宇野邦一による解説に、『全編がひとつの「言語ゲーム」であるにはちがいない。むしろ「言語破壊ゲーム」というものだろうか』、と書かれているように、ここでは小説としての定石は拒否される。しかしそれは「破壊」ではなく、文としての構成は保たれている。よくあることだが、読んでいて、一体誰が語っていて、何についてなのか、何のことなのか、全くわからない小説は少なくない。特に現代の世界文学では多い。しかしそういった小説のなかで、単なる言語ゲームに陥っているものを見分けることは簡単なことではない。セリーヌの一連の作品において、その暴力的なエクリチュールに内包される一貫性と力強さを「言語ゲーム」と形容することは違和感がある。しかし一方で本当に単なるゲームに終始して、「何か高尚なことを言っている」という印象を与えようとしている小説も多いのも事実だ。少なくともベケットやブランショに関しては、その構造の解析において最も思考を要する部類に入ることは間違いない。ドゥルーズは『消尽したもの』のなかで、『可能なことを尽くすには、〈可能なもの〉(物あるいは「あれ」)を、それを指示する言葉に、包括的選言命題によって、まさに順列組合せにおいて結びつけなければならない』としている。

ベケットは『名づけられないもの』で、作品間で横断しマーフィー、モロイ、マウロンに触れ、『彼らのせいで時間を失い、無駄な骨折りをした』と書いている。そして、はじめて「私」について喋ろうとしている、とも言っている。「他者」としてマーフィー、モロイ等がもつ声が可能せしめる世界に、作品中「他者」であるはずの「私」が自分について喋る、すなわち喋る対象が「他者」である「私」であることで、作品はあくまでフィクションとしての領域を確認し、私を再び作品に引き戻す。

2020.7.23

TEXT 「未成年」 いかに脱却するか

以前新聞のコラムかなにかで、作家の井上ひさしだったと思うが、彼がかつて新聞の全紙面を一字一句残さず読んだことで気づいたことがある、ということが書かれていたことを記憶する。それは『(紙面の)言葉はすべて脅しの言葉(脅し文句)でできている』という彼の発言を紹介したものだった。「自分がそう思った」、ということに対してそれは個人の考えだから何を考えても自由なのだが、その発言すべてを承知していないということも踏まえても、井上ひさしが本当にそう考えたとするなら、そこには何か作家という職能の欺瞞のようなものを感じる。紙面の一部、例えばこの記事のこの政治家の発言に対して、あるいは記者のコラムの一部について、など部分を切り取っての発言ならわかるが、例えば読者欄の投書の内容にも「脅し」は感じられるのだろうか。4コマ漫画から「脅し」を感じるだろうか。作家という職業の人、為政者など言葉を重んじる人たちはその影響力を絶えず頭におくことが求められるのではないか。しかし一方、この発言の記憶を端緒に、この「脅し」ということを考えると、それはかなりの拡がりを展開する。

私の感覚としては、「日常生活」ということに関していえば、そのほとんどは「脅し」あるいは「脅し文句」で成立している、といっても言い過ぎではない。朝、目が覚めてすぐ、そして仕事が終わり就寝するときまで、それは成立する。目が覚め、まだ起きたくないと思っても、それは許されないのは多くの人が承知のことだ。なぜならそのまま寝てしまっては、会社に遅刻するか、仕事が遅れるからだ。出勤途中制限速度を大幅に超過して運転すること、バスレーンを走行すること。会社や組織での上司、顧客からの指示、依頼など。仕事が終わり帰宅し、ポストを開けると固定資産税の納付書が入っている。食事も好きなものを毎日食べるわけにもいかない。あまり夜更かしできず、いつもの時間に就寝する。これらのいわば生活の「日常」には、そのほとんどに「脅し」が内在する。つまり「もしそんなことをすると、こうなるぞ」・・・「遅刻すると・・・」、「固定資産税を払わないと・・・」、「好きなものばかり食べていると・・・」の続きの言葉は自明であろう。日常の大半はこのような状況のなかで過ぎていくと言っていいのではないか。この「脅し」という言葉に馴染めないとするなら、「仮言命法」と煙に巻く言葉を用いてもいい。カントの「定言命法」、つまり『意志のみを規定し、その際意志が結果を生むのに十分であるかどうかを問題にしない』に対し、仮言命法とは『作用原因としての理性的存在者の原因性の諸条件を、結果と結果をもたらす効力に関して規定する』こと(『』内はカント著『実践理性批判』(以文社刊)より)。上記で列挙した「脅し」の「主体」は何かというと、会社、国家、制度などであろう。例えば税金を払わなければ国が「罰」を与え、それでもそれに従わなければ国が強制的に、いわば認められた「暴力」を行使することができる。合法的に「暴力」、具体的で物理的な力を使うことがみとめられている。つまり力の「主体」は「脅し」の効力を知っているからこそ「仮言」が成立するといえる。またこの「仮言」が成立するための条件にそれを受け止める対象もまたその効力を承知していないと、この「脅し」としての仮言命法は力を発揮しないということになる。つまり「罰」も「合法的暴力」も恐いという認識を。反対に「定言」は無条件、すなわち「もし」ではなく、対象の結果を問わない、注目しない、ということであるならば、その「命法」とはどんなことが成立しうるのか。つまり対象がその効力を予見しえない事態、意志が結果を生むであるかどうかを問わないということはどういうものであろうか。経験的ではなくアプリオリにその表象をその都度現前させ、行動を判断することはかなり難しいことでもある。日常においては年を重ねるほど経験に頼り、露骨な「脅し」をうまくかわす一方で、その経験から事態を予測する能力が自然に身に着いてしまうのも現実だ。これらのことは何か姑息でやはり目に見えない「何か」に対して辻褄合わせ的な態度のような感覚になる。

現下のコロナ禍において、このウィルスに対しては世界的にも一致した感覚、恐れを抱いているだろう。程度の差はあれ、「もし人との接触が多ければ・・・」というのは、今の時点では一致した「脅し」にあたると思うし、その結果どうなるということも当然予測できる。つまり「脅し」は効力をもって発せられている。人の行動を制限する都市封鎖、あるいは自粛などで対策が取られてきたが、問題はそれが解除された時に、人は意外にもそれを素直に受け入れ、あるいは歓迎するという態度を、普通のこととして受け入れている。つまり解除されたから外出しても平気なんだ、という感覚。しかし何かそこに違和感はないだろうか。つまりウィルスを発生させ蔓延させたわけでもない国や権力側が自粛を要請しようが解除しようが、基本的にこのウィルスの恐さを認識していれば各個人が自ら判断し行動していいようなものだが、日本はもとより世界的にも、いや日本以外の国の多くが、あたかも敵が消えたかのように、自身の行動を緩めているような印象を受ける。マスクを外し、積極的にレジャーや会合を楽しむ姿が報じられる。日本ではたしかに自粛が解除されると、個人の意志とは関係なく、それまで在宅勤務だったものが、会社の命令で出勤ということになり、満員電車の生活に戻るということもある。オンラインで授業を受けていたものが登校ということになる。それはその対象者の意志というより、やはり「力」ある者の意志が働いて、対象者はそれに従わざるをえない受け身の状況にあるといえる。「脅し」は各個人の生命と生活両面に直接響くという点で効力を発揮し、従わなければ「暴力」が行使される。一方で行動が制限されることに対し、特に外国では「自由」という言葉を持ち出し、デモという現象も起きている国もあり、効力が十分発揮されにくいということもある。いずれにしても、様々な事象があってもなおこの状況は続いている。

今年、年が明けてすぐにはこのような事態になるとは予見できなかったであろう。今年マックス・ヴェーバーの没後100年にあたるが、彼は当時流行していたスペインかぜによると推測される肺炎で亡くなったとされている。記念行事など中止されているそうだ。(当時クリムトやエゴン・シーレも同様ウィルスで亡くなっている)。今年刊行された政治学・政治思想史が専門の野口雅弘による『マックス・ウェーバー』(中公新書)に、ヴェーバーの用語で有名な「エントツァウベルンク」、すなわち「脱魔術化」、・・・魔術から解放、魔法が解ける、という語の紹介を元にカントの著書からの主張を引き合いに、以下のような記述がある。『カントは他人の指示を仰がなければ生きていけない未成年状態から脱することを「啓蒙」と呼ぶ。もちろん啓蒙には「知る勇気」という主体的な側面がある。しかし、カントが強調するのは、公衆が自由に議論するというプロセスのなかで生じる、互いに開かれていく経験である。「このように個人が独力で歩み始めるのはきわめて困難なことだが、公衆がみずから啓蒙することは可能なのである。そして自由を与えさえすれば、公衆が未成年状態から抜け出すのは、ほとんど避けられないことなのである」(『啓蒙とは何か』)とカントはいう。エントツァウベルンクもこうしたプロセスにおける「避けられない」出来事であるとすれば、それは「魔法が解ける」ということになる』。

国家や権力側からの指示がなければ生きていけない「未成年」の状態を、私たちは今実践してしまっているか、それを目の前に突きつけられている。しかしそこから脱すること、啓蒙を獲得するために、カントのいう「自由」を私たちが履き違えると、それは単なる駄々っ子と同じ振る舞いによって、国家による「脅し」が本当に効力を失い、互いに何の意味もないやりとりを毎日繰り返す事態に陥ることになってしまわないか。

「脅し」は決して権力者のみが使うのではなく、私たちも日常的に利用しているという前提、つまり「仮言命法」の授受で生きている、ということをあらためて認識するという現在を生きている。「上の者が下の者に」という原則は必ずしもないし、そこには「法則」といったものは存在しない。カントの『実践理性批判』から以下に抜粋する。『欲求された結果に関してのみ規定するとき(仮言命法であるとき)、実践的指令ではあるが、法則ではない。法則は意志を意志として十分に規定しなければならない。なぜならこれらの指令には必然性が欠けているからで、この必然性は、それが実践的である場合、感受的な諸条件(意志に偶然的に付着する諸条件)から独立していなければならない』。

2020.5.5

TEXT「軽さと重さ」-7

昨年(2019年)大規模火災にみまわれたパリのノートルダムの報道を見ていて、ゴシック建築のこの石造の建物で一体どこが焼けたのかと考えたが、木造の屋根の部分だったことが報じられ、建築を専門としている者として大聖堂に木造の部分があることを知らなかったことを恥ずかしく思った。一方この報道で思い出したある本がある。大学1年目で確か音響工学が専門の泉先生だったと記憶するが、その先生から薦められた本で、『カテドラルを建てた人びと』(ジャン・ジェンペル著、鹿島出版会SD選書)というものだ。当時それを読んであまり胸に響かなった記憶があり、今では内容もまったく覚えていなかったが、35年ぶりに本を開いてみると、意外にも付箋が貼られていた。本の章立てとしては、中世という時代背景や創造力についてなどとともに、建築家、石材関係の職業や彫刻家などの専門職などの文字が並列されている。付箋が貼られていた箇所の一つに、その建築家の章で著者がプラトンの『メノン』の一節を引用している箇所がある。それはソクラテスと奴隷(岩波文庫版の『メノン』では「召使」となっている)の対話である。内容は「2倍の面積をもつ正方形の作図法」についての対話だが、この本の著者によるとカテドラルを建てた技術者はこのような作図法を大学で学ぶこともできたし、またヴィトルヴィウスの建築書からも学べた、としているとともに、中世の石切工もこの建築書を明らかに知っていたとしている。また本書では、当時の建築家について、『現場で養成され、施工業者の仲介なしで工事を指導できた』とし、今の時代の建築家より勝っているとも書いている。その背景として建築家はその専門領域以外のあらゆるものに関心があったととれるスケッチブックが残されていて、『中世は現代のごとく分析と過度の専門分化の時代ではなく、総合を特色とする時代』であったと著者は評価している。当時のヴィラール・ド・オヌクールという建築家のスケッチブックがこの本で紹介されていて、木構造に関心をもっていたことに触れられ、当時の建築家には大工技術の深い知識が必要で、大工親方は石工親方に比肩する重要な職業だった、とも書かれている。ちなみにそのスケッチブックの内容が、「機械」「実用的な幾何学と三角法」「木構造」「建築製図」「装飾作図」「人物・動物作図」「家具・調度」「建築家やデザイナーの専門に関係ないもの」という8項目の題材に区分けされている。

前述のプラトンは中世からさかのぼること更に2000年ほどの人物だが、その時代古代ギリシャではパルテノンのような建造物があり、大聖堂とは違うが中世に劣らない技術と装飾美がうかがえる。古代テクネーはその表象たる遺産にその高いレベルと背景に存在するはずの高度なエピステーメーと分化されて、それぞれが定義づけられている。しかし中世の大聖堂と同じように、古代テクネーも当然その時代の高度な(そして今でもそれに頼り下敷きにしている高度な)分化されない科学的基盤と並行して世界がかたちづけられている。建築という分野において基本的なテクネーは2000年を経ても維持されて、現代においても同じである。しかし古代ギリシャと中世のエピステーメーは異なる。アメリカの評論家アート・バーマンは自著『ニュー・クリティシズムから脱構築へ』(未来社刊)のなかで、M.フーコーを『ひとつのエピステーメーが他のエピステーメーにとって替わっていく歴史を掘り起こしている考古学者』としている。フーコーは『知の考古学』の中でエピステーメーを『ある特定の時代において、諸々の認識論的形象、諸科学、またときには形式化された知識の諸体系を生み出すさまざまな言説=実践を統一する諸関係の総体』と定義している。バーマンによると、『近代的エピステーメーが発生してくるのは、表象不可能な実在が見出されるとき、世界の外貌の、組織されていると見える表面の「奥深い背後にあるものは何か」が問われるとき』であるとしている。建築を巡る現代の諸関係、背景は中世や、ましてや古代とは大きく異なるが、しかし一方で今の時代が当時より高度で複雑であるとは必ずしもいえないのではないか。いずれにしてもその時のかかえる問題は、何か普遍的で絶対的な『知』が解決するというものではなく、積み重ねられたものの経験と知それぞれの内的な言説の「言い換え」で時代の枠組みを維持し続けてきたとはいえないか。単に建築の問題を考えても、前世紀までのメソッドでは到底解決できない諸問題と切り離せない事態になっている。当然地球規模の環境問題と人間の生活スタイルや価値観の変化が大きいわけだが、生活スタイルはともかく前世紀ではあまり俎上にのせるような議題ではないものも、今ではまったく無視できなくなってきている。人間の生命に直結する根本的で緊急的なテーマであることから、ある程度の強制的な枠組みを甘受するしかないのも事実なのだ。それは狭義のデザインにも形として現れている。この時代のエピステーメーの今日までの言説を用いて、人はどれだけ新たな「知」を獲得し、不透明で不気味な表象に向き合い、実践するか。新しい「知」を伴った専門領域を獲得するか、ということに目を向けなければ古いエピステーメーがそのまま通用するほどの事態ではなくなってきている。カテドラルに匹敵するほどの規模の東京都庁の設計において、丹下健三はいわゆる狭義の建築デザインにのみ力を発揮したわけではなく、これを成立させる全体を包括する力をもっていただろうし、また代々木体育館は構造美といってもいいような先進的冒険の結集といえるが、しかしそれを成立させる具体的な施工方法については、やはりゼネコンが果たした力は大きい。一人の建築家がそれに首を突っ込む余地のないほどの、あるいは余計な口出しなど必要ないほどの技術をもっている。丹下健三にしても、構造のアイディアを出したとしても具体的な構造設計や計算、ましてや部材のひとつひとつの接合や細かい施工方法について指示を出していたわけではない。これほどの規模で、建築家でこれができる人はいないだろうが、だからこそ専門の分化が必要なのだが、しかしそれらに関心がないと設計段階でさまざまな方面から「無理だ」「できない」という言葉に、計画を諦めてしまうことも多いのも現実だ。今私が直面する規模の小さな建築物、ほとんどが住宅だが、それでもこの「無理だ」「できない」という言葉と常に相対して仕事をしているように思う。その中で実践として実現可能なメソッドを勉強し提供する能力を獲得しようとしている。

転換を要する大きなエピステーメーは、哲学に今の時代の、難解な言説ではなく、誰でも理解できる日常的な言葉で流布させる使命があるのではないだろうか。「ものを生み出せる唯一の存在」としての哲学者は、今の時代、新しいエピステーメーを「生み出す」責任を負っているのではないか。しかもそれは実践としてのテクネーを内包したものでなければならない。

蛇足だが、大聖堂というと、近年では小説としてケン・フォレットの『大聖堂』(原題The Pillars of the Earth)の12世紀のイングランドを舞台とした大聖堂建設を巡る壮大な物語があり、エンターテインメントとして堪能できる。

 

 

 

2020.4.5

TEXT 「音楽の状態を憧れる」-6

アメリカのオリジナリティ

音楽を聴けば、嫌なことも忘れる、などということはないが、個人的なことでも、また社会的なことでも、心配事があるときにはなおさら、それらが傍らにありながらも音楽は一時心に潤いを与えてくれる。

ピーター・バラカンの言葉を借りれば、とにかく『変』なのだ。スティーリー・ダンの曲を思い浮かべると、この『変だ』という文字が浮かび上がる。初めて聴いたのはもう20数年以上前のことだが、72年にでた最初のアルバム『Can’t By A Thrill』の1曲目『Do It Again』に対しては、この『変だ』という印象はなかったし、その後聴いている間はこの『変』という意識は頭にない。しかし他のバンドの曲との比較で考えると、たちまちこの『変』というイメージが湧いてくる。何が変なのかということを説明するのは難しいが、それはメロディラインやその展開、あるいは独特なボーカルとの関係など、よく考えると何か変だという程度なのだ。しかしその一方でこれだけ長く聴き続け、私にとって最も好きなバンドの一つにまでなっているのは、それは非常に心地よく耳に響くということともに、強力なオリジナリティを感じるということからくるのだろうと思う。

彼らの特徴が最もよくあらわれていると私が感じるアルバムは73年の2作目『Countdown To Ecstasy』で、これは最も好きなアルバムだ。彼らの曲をもし『会話』に例えるとすると、それは「自分が何か疑問を投げかけ、それに対して自分自身が曖昧な答えをする」というような奇妙な印象をもつ。この2作目のアルバムの2曲目『Razor Boy』は特にこのような印象が強く、また彼らの個性が最もよくあらわれている曲のように感じる。また他の印象としては、ひとつの曲にいくつかのメロディが混在し、それらが互いに本来違う曲のメロディであるにもかかわらず、無理なくつながり、全体としてまとまった感じを与えているような印象だ。それが最も顕著に、魅力的に、また中毒的に聴かれる曲に同アルバムの最後の曲『King Of The World』があげられる。ボーカル部分の最後は、その後絶対に忘れられない印象を残す。このアルバムはあまり商業的にはよくなかったらしいが、ドナルド・フェイゲンはもっとも好きなアルバムだと後に述べているらしい。その後もフェイゲン、およびウォルター・ベッカーの主導でアルバムが製作されたが、共通するのは先述の『変だ』という印象から、それが「中毒性を帯び、癖になる」という経験に変化し継続されるが、一方でサウンドに注目すると、静かだがその緻密さ、テクニックは、2人の妥協を許さぬある確信みたいなものが感じられる。難しい演奏を要求されたスタジオミュージシャンたちはその後、80年代にはほかのバンドでも力を発揮していくようになる。この独特の彼等の『音楽』は、イギリスのバンドとはまったく違った個性を発揮している。

私がこれまで音楽のことで書いてきたロック・ポップスでは、そのほとんどがイギリスのものだったが、アメリカのロック・ポップスもよく聴く。といっても、そのほとんどは60~70、80年代のものだ。脈絡はないがジャクソン・ブラウン、ザ・バンド、レオン・ラッセル、マーヴィン・ゲイ、ジミ・ヘンドリックス、グレイトフル・デッドなど今でもよく聴いている。80年代前後は時代の変化に伴い、音楽も長尺の曲は敬遠され、MTVなどビジュアルも伴った新しいメディアも意識され、またドラムマシンや打ち込みも多くなったが、それでもTOTOなどは今聴いてもあまり古さは感じない。60年代最後の69年はビートルズの『Abbey Road』が出た年だが、この年は歴史的名盤が多いといわれる。またウッドストック・フェスティバルも69年だ。ジミ・ヘンドリックスのウッドストックのライブアルバムは、その音響や録音の良さに驚かされるとともにヘンドリックスのどのスタジオアルバムよりも彼のギターの醍醐味が伝わる名盤である。またこの年にリリースされたアイザック・ヘイズの『Hot Buttered Soul』は、当時のLPレコードでA,B面それぞれ2曲ずつという構成で、アメリカでは珍しい長尺な曲が占めているにもかかわらず、大ヒットを記録した。それはそれまでのソウルの枠を超え、ジャズやポップスなどの領域を横断する「新しさ」が込められているということも大きな理由だろう。A面1曲目の『Walk On By』はバート・バカラックが作曲したものだが、64年にすでにディオンヌ・ワーウィックによるバージョンですでに大ヒットとなった曲だ。ヘイズのバージョンでは彼独自の世界観を醸し出している。しかしその一方で、バート・バカラックらしさが存分に発揮されているともいえる。アメリカ人のみならず多くの人の心に深く染み入る、郷愁を誘うような独特のコード進行とコーラスは、彼の作曲による他の多くの曲にも共通し、多くのカバーが存在する。例えば『The Look of Love』のような曲を思い起こさせる。彼もまたアメリカのオリジナリティの代表するような存在といえる。彼と似たような存在で、日本人の心に深く染み入るような作曲家を挙げるとすると、筒美京平がそのような存在にあたるように思う。特に私のような50代以上の人たちにとっては実感としてわかるだろう。バート・バカラックは2006年に『At This Time』というアルバムを出していて、エルビス・コステロやルーファス・ウェインライトなどがフィーチャーされた曲などもあり、聴き応えがある。とにかくバカラックらしさは健在で、しかし一方でサウンドはドラムルーピングなどプログラミングを駆使したデジタルデバイスと生のオーケストラがうまく融合した、バカラックならではの高度な専門領域を十分味わうことが出来る。このアルバムでもう一つの目玉はバカラック自身が作詞も手掛けているという点である。特に1曲目の『Please Explain』は『There was a song . I remember said ‘What the world needs now… Where is the love. Where did it go…』という歌詞で始まる。つまり『こんな歌があった。僕は思い出す。「世界に必要なのは・・・愛はどこへいったのだろう・・・」』と。これは65年に発表された、バカラック自身が作曲しハル・デヴィッドが作詞した曲『What The World Needs Now Is Love』のことを取り上げているのだが、バカラック自身が今この年齢、時代にあの時代のことを、半世紀を経て今度は彼自身の言葉で振り返り、そして問いかけている、『説明してくれ』と言っている、ということに大きな意味を含んでいる。しかしこのアルバムは決して郷愁としてではなく、今の最先端、誰も追いつくことができないほどの質の高さを堪能でき、私はこの年のベストアルバムとしてこの十数年よく聴いている。

ロックに戻すと、スティーリー・ダンと並び、ある意味『変』という言葉も当てはまる存在にトーキング・ヘッズがいる。しかし彼らの音楽の魅力を一言で言いあらわすことは難しい。フロントマンのデヴィッド・バーンの才能は、その知的で少し病的なボーカルとともに、独特なサウンドで発揮されている。『アメリカの』ということで書いてきたが、実は彼はイギリス生まれのイギリス人なのだが、幼少からアメリカに住んで、学生時代に知り合った友人たちとトーキング・ヘッズを結成したアメリカのバンドだ。彼らの音楽はブライアン・イーノのプロデュースの力は大きいが、それ以上にメンバーの個性は際立っている。特にどのバンドよりもいち早くアフリカのサウンドを取り入れ、エイドリアン・ブリューやロバート・フリップの参加などで個性的で先進的なアルバムを出している。しかしメンバー以外の力も大きいとしても、例えば特にティナ・ウェイマスのベースはもう一つのボーカルのように独特のベースラインを構成していて、これだけでも聴くに値する曲も多い。79年の『Fear Of Music』は、翌年の全編アフリカを意識した名盤『Remain In Light』につながるアルバムで、ミニマム的で先進的なアルバムとして、個人的に最もよく聴くアルバムだ。デヴィッド・バーンは87年の映画『ラスト・エンペラー』で坂本龍一らと音楽を担当しているが、メインの壮大なオーケストレーションの坂本による有名な曲とは全く趣が違う、もう一つの中国らしさを表現したバーンによる軽快な音楽も魅力で、ある意味この映画で彼の才能を再確認されたかたちとなった。2年前にソロのアルバム『American Utopia』を発表したが、これはそのままトーキング・ヘッズの新作としてもいいくらいの印象で、バーンの個性は全く変わっていないことを証明していて、非常によくできたアルバムとなっている。バーンだけでなくメンバー含めた彼らの都会的でアーティスティックな魅力はイギリスにはあまり見られない存在として、やはりアメリカのオリジナリティとして私は強く意識する。

 

2020.2.16

TEXT 「音楽の状態を憧れる」-5

ピンクフロイド/DISCOVERY

「DISCOVERY」はピンクフロイドのオリジナルアルバムをすべてリマスターしたボックスセットのタイトルで、2011年に発売された。以前のテキストでもとりあげたヒプノシスのストーム・トーガソンがアートワークを手掛けている。DISCOVERY、つまり「発見」という意味では、音がよりクリアになったということ以外、新たに発見したことはないが、最近発売されたCDとレコードで「発見」があった。CDでは77年のライヴ音源と、レコードでは74年のライヴ音源である。

77年のライヴ音源は『Live-IN THE FLESH TOUR1977』というタイトルで、アルバム『ANIMALS』と『WISH YOU WERE HERE』の、いずれも全曲が収録されている。オリジナルの『ANIMALS』は主にDOGS、SHEEP、PIGの3曲で構成されているが、中でもDOGSとSHEEPのいわば原曲にあたる曲、それぞれ『You’ve Got to Be Crazy』と『Raving and Drooling』が、74年のライヴ音源として発売された3枚組LPレコード『Live at Empirepool,Wembley,London,Nov16,1974』のなかで演奏されている。また同じく77年ライヴ盤に収録されているアルバム『WISH YOU WERE HERE』のうち、『Shine on You Crazy Diamond』のPart1~5及びPart6~9がパートに分かれず連続したかたちで演奏されている。つまり74年の時点でその後のアルバムに収録することになった曲の原曲が披露されている。ちなみにこのLPの最大の目玉は『The Dark side Of The Moon』の全曲が収録されている。それも当然「4人」のフロイドによるものだ。後年、R.ウォーターズが抜けてからの3人のフロイドでの全曲演奏は存在するが、やはりウォーターズの存在する演奏は非常に重い。ANIMALSの「原曲」に話を戻すと、77年のライヴ盤の演奏に比べ、印象としては少しやわらかいというか、どちらかというと60年代のサイケ的なモチーフもあり、ギルモアのギターもあまり強くない。SHEEPの原曲『Raving and Drooling』はリック・ライトのキーボードが柔らかく響き、歌詞も全くオリジナル版と異なる。DOGSの原曲『You’ve Got to Be Crazy』は、このタイトル名から歌詞が始まることもあり、馴染み深い印象もあるが、これも音としては柔らかい印象を受ける。この2曲の存在はCD『ANIMALS』のなかのライナーノーツで以前から知ってはいたが、実際にそれを聴いたのは初めてだった。その意味で「発見」といえる。また『WISH YOU WERE HERE』の『Shine on You Crazy Diamond』はオリジナル版では前半と後半に分かれていたが、これもこの74年のLPで連続して演奏されている。この時点ではパートに分かれていたわけではないということがわかる。連続されていることで1曲としてのまとまった印象を受け、ギルモアのソリッドで泣きのギターもなく、全体的に優しい印象を受けるし、前述したように60年代を感じさせるモチーフも残っている。これらの体験は「発見」であり、4人のこの時期の演奏のピークを感じる。ピンクフロイドはこの後、アルバム『The Wall』でのライヴを行ってはいるが、ウォーターズが抜けてからはギルモア中心のアルバムとライヴで、物足りなさが否めなかった。しかし今世紀に入って、4人のフロイドのライヴを目にする機会があった。2005年の『LIVE 8』で、この中で4人による演奏が実現している。これはDVDで観ることができる。4人のライヴはおそらくこれが最初で最後であったと思うが、今ではリック・ライトも亡くなっていることだし、それも望めない。『LIVE 8』は世界9か国での音楽イベントで、P.マッカートニーやU2、ザ・フーなど多くのアーティストが参加している。LONDONの会場では「とり」のマッカートニーの前にこの4人のフロイドが演奏している。『The Dark side Of The Moon』から『Breathe』、『Money』他『WISH YOU WERE HERE』と『Comfortably Numb』。『Comfortably Numb』の出だしのボーカルはやはりウォーターズでなければならないことを改めて実感する。『WISH YOU WERE HERE』もウォーターズのボーカルのほうがしっくりくる。昔からのフロイドファンなら涙が出るほどの感動だ。

近年はこうした昔のライヴ音源が多く発売されていて、あらたな「発見」がいまだにできることはありがたいことだと感じる。

2020.2.16

WORK – Representation 16,17,18

久しぶりにWORKに作品追加しました。

Representation 16のI邸は、以前の写真を入れかえ、庭がきれいにつくられた後に撮影した外観写真と一部内観を追加しました。内部で構造の梁材を表し、床材、家具はナラ材、壁は漆喰で、外装材は板張り、木製サッシとほとんどすべての素材を自然素材で仕上げた住宅です。

Representation 17は昨年竣工したリフォーム物件です。建物のかたちはそのままで、外装を断熱改修したうえに江別レンガタイルを全面に施しました。内部は床がナラのフローリング、壁は漆喰と、こちらもすべて自然素材でしつらえています。

Representation 18は過去に設計した物件、3件です。1と2はグループホーム、3は高齢者向けの共同住宅です。1はRC造3階建て、3ユニットタイプで、ゆったりとした明るい内部空間が特徴です。2は狭い敷地に建てられたRC造4階建てで、2から4階が各階で1ユニットのタイプです。写真は1階部分のホール空間です。スクラッチタイルを多用した重厚なつくりとなっています。また3は木造平屋で、グループホームではないですが、3ユニットの形式をとった構成で、写真は9世帯が利用するディルームのような食堂スペースです。化粧の柱や梁で和の感じを演出しています。

2020.1.4

TEXT レクチュール1題

なぜ今までこういう本に出会わなかったのか、と思わせるような経験はそう多くはない。黒川創の編集による『〈外地〉の日本語文学選2:満州・内蒙古・樺太』という本を読んだ。前回のように最近再読した本で『インドへの道』が収められた『E.M.フォースター著作集』第四巻に挟まれた「月報」に触れたことがきっかけだった。「月報」には黒川創による文章で、谷譲次の『安重根』という戯曲を読んで感じたことが書かれていた。彼は室譲二による優れた谷譲次論『踊る地平線』の一節を以下のように要約し、続けて日本文学についてのある問題点を指摘している。

『安重根は、近代・現代の日本人作家にとって、もっとも表現しにくい場所に位置してきたという。もし、日本人作家が、安重根に一体化することで伊藤博文・日本を全否定しようとするなら、そこには欺瞞が滑り込む。しかし、日本の立場を作家が全部背負って、安重根と朝鮮を否定することにも、文学の自立性はありえない。こうした困難は、かつての植民地支配に対する受け止め方を「謝罪」と「恐縮」ですませてきた、“戦後民主主義文学”のなかでも続いている』。

黒川はこの問題の所在を韓国のある文芸評論家の一文からはっきりさせられたという。それは『近代日本の文学が、フォースターの『インドへの道』にあたる作品を残すことがなかったという点、そしてもし文学が「個人単位または民族単位のもっとも繊細な触覚の一つ」、すなわち「モラルの尖端」だと言えるなら、それは加害というその事実自体によって、「モラルのある側面の崩壊または拘束」から免れられないはずだという点』である。つまり『侵略された側の「傷」とは別に、支配した側の「傷」、それに対する日本文学の想像力の欠如』に気づかされたという趣旨が、この数ページしかない月報に掲載されている。(『』内は月報から引用)

黒川創はこの問題への対処の一つの試みとして戦時下に「外地」と呼ばれた地域で書かれた日本語の文学を再発見する観点から、シリーズとして三巻分の選集としてまとめ上げている。私はその一つ、第二巻目にあたる「満州・内蒙古・樺太編」を読んだ。最初に「なぜ出会わなかったのか」ということに対して、いわゆる戦争文学に興味がなかったわけではなく、むしろ多くの作家、作品を読んできたつもりだった。例えばまとまったシリーズで十年くらい前に刊行された集英社版の「戦争と文学(全20巻)」は、多くの作家による、テーマ別にうまく選択されている。当時毎月配本され、そのときにすべて読み切ったが、先に指摘されたような視点で選択された作品はなかったように思うし、あるいはあっても気づかないということもある。例えば『〈外地〉の・・・2』に収録されている平林たい子の作品は『敷設列車』というものだが、『戦争と文学』シリーズでの「戦争の深淵」というテーマの巻で他の作品が掲載されている。実際この作品よりも『敷設列車』はこの巻に掲載された14作品の流れの中で、あたかもその一編であるかのような感覚で読むことができ、より胸に迫るものがある。この作品が発表されたのは1929年で、平林は1924年に約十か月間大連で過ごしたが、彼女が作家として満州に渡ったわけではない。彼女の生涯をここで要約するにはあまりにも無理があるので省くが、黒川の解説を引用すると『実作にあたっては、彼女が見知っていた馬車鉄道の苦力の労働と、鉄道の敷設というジャーナリスティックな素材とを、統合しながら創作されたものだろう』と書かれているように、現地での体験が作品に現実味を増している。

最初に取り上げた谷譲次の『安重根』については、まず安重根とは1909年にハルビン駅で、当時韓国統監であった伊藤博文を暗殺した朝鮮人であるが、黒川創は同月報で『この戯曲が私には面白かった。谷譲次は、ここで、いわば「英雄」ではなく「弱い」安重根、「憂鬱な」安重根を描いている。その弱さを通して「人間化」された安重根を描いている』と書いている。実際この戯曲を読んでみてそれがよく伝わってくる場面がいくつもある。安重根の台詞に以下のようなものがある。

『僕が伊藤を憎むのも、つまりあいつに惹かれている証拠じゃないかと思う。何しろこの三年間というもの、伊藤は僕の心を独占して、僕はあいつの映像を凝視め続けて来たんだからなあ。三年のあいだ、あの一個の人間を研究し、観察し、あらゆる角度から眺めて、その人物と生活を、僕は全的に知り抜いているような気がする。まるで一緒に暮らして来たようなものさ。他人とは思えないよ。この頃では、僕が伊藤なんだか、伊藤が僕なんだか・・・』(『〈外地〉の日本語文学選2:満州・内蒙古・樺太』黒川創編 新宿書房刊より)

私はこの戯曲の中で最も印象深く、またより現実感が伝わってくるのが、冒頭の場面で、ウラジオストックの田舎の朝鮮人部落で安重根が演説をしている場面である。周りに農民が集まり、ぼんやりと、倦怠そうに路上に立ったりしゃがんだりしているという設定で、安重根が力説している最中、女性や青年、子供などの個人的な会話が行き交っている。ある青年が『水か。待ってた。飲ましてくれ』と言うと女がそれに対し『冗談じゃないよ。お炊事に使うんだから』と返す。それに対しまた青年が『咽喉が乾いて焼けつけそうなんだ』とまた返す。こういったやりとりが、安重根の演説とは関係なく飛び交い、それでも彼は演説を止めず、またあまりにも雑音が多くなったときなど所在なく静まるのを待つ姿などが描写されている。戯曲は創作ではあるが、安重根という一人の人間像がくっきりと浮かび上がっている。それに加えて当時日本の占領下だった満州の社会の日常の一面も、安重根とは関係ない、政治的にも無関心な一般の農民の姿も、声を通して伝わってくる。今挙げたような例はこの戯曲を通して全場面で繰り広げられる。それは暗殺を企てる一人の狂気な孤独な人間像ではなく、彼とその周りの人たちの様々な声の上で、彼の姿が彼の意志の強さよりはむしろ弱さや周囲の一般の農民の感覚、人間らしさというものと同化している感覚すら抱くことができる。しかも本書では黒川創による細かい注釈があり、また後半は彼による詳しい解説があるため、当時現地で使われていた言葉や時代背景、歴史、あるいは作家自身のことなど知ることができる。それも各作品の面白さを高める重要な役割を果たしている。

本書での他の作品で樺太を舞台とした譲原昌子の『朔北の闘い』では、日本領時代の南樺太でのアイヌの暮らしの一端を知ることが出来る描写がある。

『柳やたもの茂った川っぷちからいつか虎杖の蔽い被さっている野の道へ出た。(中略)全くうんざりするほどの遠い道。いつかの日の暮れ方に外川の爺っこに連れられて帰った事のある道だ。この内淵川畔に、魚を捕ったり獣を撃ったりして暮らしているアイヌ達の所へ、部落の和人達は焼酎や黒砂糖を携えて行っては、彼らの鮭だの毛皮だのと取り替えるのであった。内縁川における鮭や鱒の漁獲は、樺太庁の特殊な土人保護法によって彼等アイヌにのみ許されてあった。しかしアイヌのいわゆる和人達は、みすみす指を舐ってひっこんではいない。そこで密猟が行われるのであった』。

文中の「和人」は「わじん」ではなく「しゃも」と発音され、アイヌ語でシャモルンクル(隣国の人)の略語で、非アイヌ系の「日本人」を指して言う言葉であるということも注釈されている。

また満州・内蒙古編では日向伸夫の『第八号転轍器』では、『なあに構うもんか、満語がいけねえんなら露西亜語はどうだ。なあリカベさん、その方がおめいにも解っていいだろう』という台詞のように、中国語のことを「満語」と言い、中国語という呼称は一種のタブーであったことも注釈されている。

同じ満州・内蒙古編で長谷川濬(しゅん)の『家鴨に乗った王』では、冒頭の書き出しが『王(ワン)は乞食である。王は生まれつきの乞食で、彼には両親は勿論、兄弟、その他肉親と名乗る者は一人もなく、文字通りの天涯孤独である』で、それに続いて王の身なりや生活など描写される。一見こういった書き出しだと、その後は様々経験を経ながら成長し、貧しさから脱却し、地位や金など何かしらのものを獲得してゆく一種の教養小説を思い浮かべることもあるが、これはそれに当てはまらない。変わらぬ王(ワン)の姿が映像として残る。黒川の解説によると、作者は満州映画協会の社員だったこともあり、『映像的、シナリオ的なイメージが、この作品のモダンな雰囲気を支えている。ことに終盤、王が末期の幻想に入っていくところで、家鴨の丸焼きのシルエットが、一転、よちよち歩きはじめるくだりは、一場のアニメーションとして描かれていると言ってもいい』。

他に詩もあり、また占領時の現地の暗い背景のなかでも、そこで暮らす人々、言葉が生き生きと描かれている作品ばかり収められている。

本書の編纂の基本として、植民地の現地人作家が日本語で書いた文学作品であること、植民地及びそれに準ずる地域に居住していた日本人作家の文学作品であること、植民地などへの滞在は一時的だが、その経験が作家の文学に深く根づいていると思われる文学作品、という三つの原則から構成されていることが編者である黒川による序文で明らかにされている。この第二巻の「満州・内蒙古・樺太編」の他、第一巻で「南方・南洋/台湾編」、第三巻の「朝鮮編」という全三巻でまとめられている。私は第一、三巻は未読だが、近いうちに読んでみたいと思う。

私はここで過去におかした日本の過ちと、現在におけるアジア諸国との向き合い方について何かを発する意図はない。戦争なら戦争というテーマにおいて、『〈外地〉における』という視点は、「与えられる」まで意識の上に上ってこない。日常生活において大きな出会いというのは、振り返ればいくつかあるが、それが人であれモノであれ、それによってモノの見方が変わったというより、それまで何か欠けていたものに気づかされるという程の出会いもある。本との出会いはもちろん偶然の場合も多い。今回取り上げたような「月報」という、ほとんど読まずに栞代わりか無視するか捨てるかくらいの扱いだったものから、その関連をたどって一つの意味に行き着くことも経験する。このような些細なことから自らの意識を引き上げるような出会いというものを、本から得られることが多いということも改めて実感した。