2019.2.17

TEXT 「不正操作」とファウスト-1

ヤン・シュヴァンクマイエルの作品を初めて観たのは、もう30年近く前になると思う。札幌でアートフィルムかショートフィルムばかり集めた作品の上映だったと記憶する。その時シュヴァンクマイエルのみでなく、他にブラザーズ・クェイの作品も印象に残っている。ヤン・シュヴァンクマイエルはチェコの映像作家で、クレイのコマドリを始めとして人形のコマドリ、アニメと実写を組み合わせた映像を多く生み出している。私が初めて接してから数年後にシアター・キノ(当時まだ数席しかない超小型の映画館)で上映された『悦楽共犯者』(1996年)を観た時の強烈な印象はいまだに忘れていない。初めて観た作品は『男のゲーム』(1988年)だが、クレイで作られた人の顔がインモラルな方法でゆがめられ、破壊される。グロテスクだがユーモアも内包されている一方、構成が一定の法則に沿っていて、よく練られた創造物であることが伝わってくる。一方『悦楽共犯者』は、クレイの表現よりは実写のコマドリが多く、内容は男の「悦楽」のために工夫された、いわば他人には「無害」だが個人的な「装置」の創出の自由さが表現されている。ここで繰り広げられる「サド」と「マゾ」の交錯は、現代を生きる私たちの隠された「悦楽」表象に転化される。そしてブラックでグロテスクでありながら、ユーモアとタブーを同時に「湿った」画面に貼り付けられ、他では出くわすことのない圧倒的なオリジナリティを見せつけられる。
公開の場で観たのはこの二つの作品だけで、他はDVDで多くが入手でき、私もほとんどの作品を観ることができた。なかでも『ファウスト』は他とは若干趣向が異なるように感じる。多くの他の作品は「内的」あるいは「スタジオ的」印象だが、『ファウスト』だけはもう少し「開かれた」感じがある。この作品に絡めて、ゲーテの作品で良く知られるドイツの『ファウスト博士』の伝説、そしてシュヴァンクマイエルのこの作品におけるいくつかの言説、撮影日誌などから彼がキーワードとして頻繁に登場する「不正操作」という語を作品としての『ファウスト』を軸にしながら考えてみたい。・・・(続)

2019.1.2

TEXT レクチュール1題

筒井康隆の現在新刊として入手できない長編や短編集をまとめた〈筒井康隆コレクション(全7)〉を購入して、そのまま手を付けず1年以上経ってしまい、この連休を利用して第1巻を読んだ。第1巻には全部で4作収録されおり、どれも初期のもので、SF作品だ。そのうち『48億の妄想』は筒井康隆らしいユーモアと知が詰まったもので、しかも内容が面白いだけでなく、半世紀後の今現在書かれたものではないかという錯覚に陥る。編者である日下三蔵による解説を抜粋すると、『『48億の妄想』の世界では、テレビがすべての価値観を左右している。有名人には無線式のテレビカメラ「カメラ・アイ」が張り付いていて常に演技を要求されるし、一般人でもひとたびテレビに出演することになれば、タレントとして大げさな振る舞いをするのが当然という社会だ。この作品の世界と我々が暮らす現代社会との類似に驚くしかない。都会では町中いたるところに監視カメラがあるのが普通である。何か事件があれば一般人が携帯電話で動画を撮影し、それがインターネットにアップされて拡散する。昨日まで無名であった人が、マスコミに取り上げられると、有名人の仲間入りだ』、というように、読んだ者誰もが現代の作品である感覚に陥る。

具体的に興味深い文を2つ取り上げる。

 

『どうしてなのかしら?私、今の社会って、お芝居みたいな気がしてしかたがないの。いつからそんな気がしはじめたのか、自分じゃぜんぜん、わからないのよ。本当の社会生活ってものが、別のどこか遠いところにあって、現実の社会生活は、本当の社会生活をカリカチュアライズしたものに過ぎないという気がするの。人間的なものがなくて、皮相で、嘘みたいに思えるの。あなたはそんな気がしない?一度も、そう感じたことない?』

 

『大昔は、旅をするのは死地に赴くことだった。そしてそこから不穏な思想を、自分たちの安定した社会に持ち帰り、それによってその社会を進歩させた。だが今では、戦争に行くのさえ観光気分なのだ。観光旅行社クーポン券さえ買えば、エキゾチックな局地戦の光景が簡単に楽しめるはずだとさえ思っているのだ。現代では旅行者はいない、あるのは観光客だけだ・・・と、折口は思った』

 

半世紀も前の記述だ。一つ目の『あなたはそんな気がしない?一度も、そう感じたことない?』という言葉は、自分に問いかけられているようだ。SF作品とはいえ、いや優れたSFだからこそ、突飛で唐突、非現実というものを超えて、ある時代を共有した人たちの枠組みを外すことなく、共通言語で過去と現在を結びつける。

 

2019.1.1

TEXT ハードボイルドと言葉

この年末年始にまとめて本を読んだ。前回TEXTの続きではないが、長く入手できなかった本で昨年復刊されたものでロス・マクドナルドの『動く標的』という作品がある。ロス・マクドナルドといえば、登場する探偵リュー・アーチャーが有名で、この探偵が初登場する作品がこの『動く標的』である。学生時代からこの作家が好きで、特に『さむけ』、『ウィーチャリー家の女』はイギリスのミステリーとは違った魅力とリアリティがある。他の作品も翻訳されているものはほとんど読んだが、この『動く標的』だけはやはり絶版状態が長かったということもあり、この記念すべき作品だけ読んでいないという不幸な状態が続いていた。読んでみて、やはり先に挙げた二作品よりは面白味は薄いが、それでもあらためて気づかされたことがあった。それは登場人物、この場合とくに探偵であるリュー・アーチャーから発せられる言葉である。具体的に取り上げはしないが、その確信に満ちた言葉、あるいは自身を含めた人間の弱さに対する慰めと勇気づける言葉、それらはハードボイルドというジャンルに括られた先入観の枠を取り外し、時代と国を超えた普遍性を読者に訴えかける。ハードボイルド、つまり“かたゆでたまご”、“カタブツ”のような人物から思いもかけない、人の心を揺さぶる言葉を発することがある、ということを再認識する。以前別のTEXTで書いたが、漱石の『明暗』で、『露西亜の小説、ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってる筈だ。如何に人間が下賤であろうとも、又如何に無教養であろうとも、時としてその人の口から、涙がこぼれる程有難い、そうして少しも取り繕わない、至純至精の感情が、泉のように流れ出して来る事を誰でも知ってる筈だ。君はあれを虚偽と思うか』(原文ママ)と書いている。リュー・アーチャーは架空の人物であるから、リューの言葉はそのまま作者であるロス・マクドナルド本人の言葉である。マクドナルドは『カタブツ』でもましてや『下賤』でもないが、設定した人物に語らせることで、私たちは漱石が作品で語らせたようなことを認識させてくれる。

この『動く標的』のロス・マクドナルド以外の作品、とりわけハードボイルドやミステリーでも、このように作中の人物が語る言葉に胸をうつという経験が少なくない。

例えば、これは作中人物の言葉ではないが、文の書き出しが美しいものに、ウィリアム・アイリッシュの『幻の女』は有名だ。

『夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった』。(ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』早川書房刊、稲葉明雄訳)

またこれも有名だが、様々な場面で使われるフレーズで『人間はたくましくなければ生きてゆけない。しかし優しくなければ生きる資格がない』といった言葉は、レイモンド・チャンドラーの『プレイバック』の中の一節で、実際にはもっと軽い、男女の関係の中で発せられる言葉で、女が探偵に『あなたのようにしっかりした男がどうしてそんなにやさしくなれるの?』という問いかけに、探偵が以下のように答える。

『しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない』。(レイモンド・チャンドラー『プレイバック』早川書房刊、清水俊二訳)

その他こうした言葉に加え、ユーモアも含み、更にハードボイルドの探偵のイメージから少し離れた人物にロバート・パーカーのスペンサーがいる。作品『初秋』では依頼者の息子を自立させるためにボクシングや大工仕事など、不器用でおせっかいともいえる行動をとる。ミステリーやサスペンスといったジャンルを超えた、一種の教養小説にもなっているというのが今でも色褪せない作品の魅力となっている。

私たちは基本的に言葉を通して日常を生きている。言葉で人を動かし、説得し、説明し、納得させる。そして相手の言葉を聞き、時に反論し、同調し、話を前に進める。時に意外な人物から意外な言葉を聞くこともある。大半は固定観念から、その人物から得られる情報を自ら枠内に押し込め、それ以外の言葉を聞こうとしない。しかし本当に思いもかけない言葉に出くわしたとき、それをきちんと受け止めるこということを忘れてはならないと、自分に言い聞かせる。

 

2018.12.31

TEXT レクチュール2題

映画作品に原作がある場合、私の場合映画を観た後にその原作を読むか、観る前に読んだか、あるいは読まずに今に至るかのいずれかである。若いころに観た映画で、例えば『ジャッカルの日』はその後すぐにフレデリック・フォーサイスの原作を読んだ。しかし同じ作者で『オデッサ・ファイル』は本が絶版になっていて、古書で入手はできたであろうが、そこまでする気はなかったため、原作を読まずにいた。また他にはベルナルド・ベルトリッチ監督の『シェルタリング・スカイ』はその前の『ラストエンペラー』で、坂本龍一が音楽を担当したということもあり、関心はあったが、結局映画自体は観ていない。原作を読んでみようとも思わなかった。他に列挙すると、ヴィム・ヴェンダースの『アメリカの友人』はP.ハイスミスの同題の原作、ヒッチコックの『レベッカ』、『鳥』はデュ・モーリアの同題の原作があり、他にも多数あるが、この3作品については映画観賞後に読んだ。原作は今でも割と簡単に書店で手に入る。しかし最初に挙げた『オデッサ・ファイル』と『シェルタリング・スカイ』は今でも絶版状態で、新品で入手が出来ない。そこで仕方なく図書館で借りた。図書館で本を借りるのは学生の時以来、30年ぶりである。それで、この年末を利用して読んだ。

 

かつて読みたいときにそれが絶版状態で、復刊を待った本を挙げると、ドストエフスキーの『未成年』があり、岩波文庫でも新潮文庫でも長い間手に入らなく、ようやく新潮文庫で復刊されたのが10年くらい前だろうか。ようやくそれを手にすることができた。ドストエフスキーの五大長編のなかの一つであるにもかかわらず、絶版状態が長かったのは意外だが、私はこの10年で何度か読み返している。他にラヴレーの『ガルガンチュアとパンタグリエル』の岩波文庫版(翻訳が渡辺一夫)、また『千一夜物語』の岩波文庫版、この2つも復刊まで時間がかかり、復刊前にともにちくま文庫版で購入し、読んだ。(『ガルガンチュアとパンタグリエル』ちくま文庫版は宮下志朗訳である)

 

『シェルタリング・スカイ』はアメリカの作家ポウル・ボウルズによるもので、1949年に発表されている。この小説を読みたいと思ったきっかけは、今年(2018年)発表された坂本龍一の『async』に、ボウルズ自身による朗読がコラージュされた曲(『fullmoon』)があったことがあげられる。ボウルズは日本ではあまりなじみがない作家であるように思うが、読後もう一度読みたくなるような作家である。作品の内容は簡単にいうとアメリカ人がアフリカに旅立ち、そこで苦難に満ちた生活を送るというものだが、アフリカの自然の描写と文明人の文明の世界では通用しない不安定さが、地味ながら丁寧に描かれている。具体的な言葉に作者の主張が表れている。作中、主人公の男が妻に向かって言う。

『君は決して人類なんかじゃない。君はただ、君自身の貧乏ったらしい、どうしようもなく孤立した自我にすぎないよ。(中略)おれは、そんな幼稚な手段でおれ自身の存在を正当化する必要を認めない。おれが呼吸しているという事実が、おれの正当さの証拠なんだ。人類がそれを正当さの証拠とみとめないなら、おれをどうなりと好きにするがいい。おれは、自分がここにいる権利を証明するために、存在への旅券(パスポート)を持ち歩くつもりはない。おれはここにいる!おれは世界のなかにいる!だが、おれの世界は、人類の世界なんてものじゃない。自分の眼で見る通りの世界なのだ』。と(新潮文庫版 大久保康雄訳)。

抽象的な、概念上の「人類」という言葉に対して、男は実感としての人の存在を説く。それは文明を離れ、それが通用しない世界で獲得した一つのヒューマニズムともいえる。

蛇足だが、大江健三郎の『個人的な体験』という作品で、主人公(バード)の愛人が、二人で企てたアフリカ行きを阻まれたことを嘆くシーンがあり、それに対し主人公が、『それはぼく自身のためだ。ぼくが逃げまわりつづける男であることを止めるためだ』と言って、自身にふりかかった不幸から逃げないことを宣言する。アフリカ行きが未知の世界への憧れというよりは、やはり逃避という要素も大きかったということを悟ったのではないか。

『一口にしていえば、砂漠の強烈な圧力の下で、アメリカ的人間を内部から支えている文明人としての自信とか自意識といったものが、いかに崩壊してゆくか、その過程を追求した作品である』と、『シェルタリング・スカイ』の翻訳の大久保康雄があとがきで書いている。

 

『オデッサ・ファイル』は『ジャッカルの日』と同様、事実をもとにフィクションとノンフィクションが渾然一体となった作品で、フォーサイスの力量が十分に発揮された作品である。『ジャッカルの日』はド・ゴール暗殺計画をベースに“ジャッカル”が着々と準備を進めるという割とシンプルな構成であり、また映画では主役のエドワード・フォックスの魅力が存分に発揮され、非情な殺し屋を演じるイギリス紳士に完全にはまっていたのに対し、『オデッサ・ファイル』は映画自体は、全体的に地味な印象を受ける。しかし登場人物、ミラー役やロシュマン役の俳優は味わいがあり、リアリティを引き上げる。しかし映画と原作では、理由はわからないがラストで異なっている。映画ではロシュマンがミラーに撃たれ死亡するが、原作ではロシュマンは亡命している。オデッサというのはSS隊員の組織のこといい、SSとはヒトラーのもとハインリヒ・ヒムラーによって支配されていた軍隊の中の軍隊で、ナチス第三帝国で特別の任務を担っていた、いわば親衛隊である。(ちなみにこのヒムラーに関する優れた作品として、今世紀に入って発表されたローラン・ビネによる『HHhH』という小説がある)。『オデッサ・ファイル』も『ジャッカルの日』同様、どこまで真実でどこまでがフィクションかわからないが、フォーサイス特有のストーリーテリングと一級のエンターテイメントとして仕上がっている。

今年はノーベル文学賞が見送られたということで、実はこれまでほとんど受賞そのものには関心がなかったし、ましてやボブ・ディランが受賞するとなると、もはや文学賞の意味などないのではないかとも考えてしまうし、さらに村上春樹にしても特別ほしい賞の対象ではないのではないかとも思ってしまう。しかし過去には受賞で初めて知った作家も多く、知ってよかったと思う作家もいる。ドリス・レッシングがその一人で、作品は多様だが翻訳が限られていて、これからの翻訳を望んでいる。とくに『アルゴ座のカノープス』シリーズと『暴力の子供たち』シリーズである。『暴力の子供たち』シリーズは原書で何冊かは読んだが、やはり翻訳でないとなかなか理解に限界がある。

過去には現代作家の作品を読んで、読まなきゃよかった、と思ったものが数多くあり、以後あまり現代作家の作品を追うことはなくなったが、それでもトマス・ピンチョンの最新作や、コーマック・マッカーシーなど佳作が多い作家など興味ある作家はいるので、それらの翻訳を待つこともこれからの楽しみの一つでもある。

 

 

2018.12.30

TEXT「フォークナーとの対話」 2018年末

今年九月の地震以降、TEXT「A Passion Play」 –暴力と舞台装置- も、書く気が失せてしまっている。が、いずれ再開したいと思っている。

以前のTEXTで「フォークナーとの対話」という題で何篇か書いたが、改めてフォークナーの作品に触れると、様々な言葉に勇気づけられる。『日本の若者たちへ』と題された1955年のエッセーを藤平育子の訳で以下に抜粋する。

 

『人間は強靭であり、何ものも本当に何ものも、戦争の悲しみも、失望も絶望も、何ものも人間が生き続けるほど長くは続かないだろう、と。また、もし努力をするならば、つまり、人間と希望とを信じる努力を惜しまないならば、すなわち、すがるべき杖を探すための努力ではなく、希望と人間の強靭さと忍耐力を信じることによって自分の足で真っ直ぐに立つ努力をするならば、人間はあらゆる苦悩を乗り越えられるだろう、と』。

 

これは戦後十年経った日本の若者たちの感情を理解し、フォークナーが、自国の、それより古い戦争の後の、十年後の若者の感情に訴えたに違いない誰かが、励ましたであろう言葉を、引用するようなかたちで書かれたものだ。

我々が九月に体験したこれまで見たこともないような光景など、これらは非日常であるから、我々が生き続ける間、ずっと続くわけではなく、多くの人はやがて忘れてしまう。しかし我々は、今も苦しんでいる人たちのことを思わなくては、そして各自が出来ることを、そして役目を果たす努力を怠らないようにしなくては、人は真に助け合うことを放棄してしまうのではないかという恐れを感じてしまう。戦争のような大きな出来事でなくても、頻発する自然災害に見舞われる現代の我々を慰藉し、鼓舞する言葉として改めてフォークナーの言葉が身に染みる。

2018.7.8

TEXT 「A Passion Play」 – 暴力と舞台装置 – 11

6.「中性、透明、不在」

文学論というとなにか仰々しい感じで、研究者でもない人間がそれに触れるのは危険かもしれないが、より身近に引き寄せいろいろ考えるところはある。文学論で思い浮かべるものに、バフーチンの文学理論があるが、ここでは引き続きブランショの『終わりなき対話(Ⅲ)』で取り上げられた、主に文学論について、あるいはそこからインスピレーションを受けて、書いてみたい。しかし同書の特に第三巻目は、私にとっては何となく断片的でわかりにくいという印象で、どこまで理解しているかは自信がない。
ランボーから始まるこの編はキーワードとして「中性的」「断片的」があげられる。「中性的」という言葉から「中点」、すなわち「零度」を連想し、そこからバルトの『零度のエクリチュール』を連想するが、これとはまったく異なる論理である。ブランショは同書で以下のように書いている。

『排除と抹消を続けよう。中性的なものは言語活動によって言語活動にやって来る。とはいえ、中性的なものは単に文法上の性というわけではないーあるいは類や範疇としてみるならば、それは私たちを何か他なるもの、自らのしるしを負ったaliquid(ラテン語で「何か」を表す不定代名詞の中性)へと導く。第一の例として、自分が言うことに介入しない者は中性的だと言っておこう。同様にして、言葉(パロール)がそれを発する者や自分自身のことを考慮せずに発せられるとき、その言葉は中性的だとみなされうるだろう。その言葉はまるで、語りながら語っていないかのようで、言われるべきことのうちでは言われないえないことを語るがままにしているかのようである。だとすると、中性的なものは私たちを、曖昧で無垢ではない位置が帯びているような透明性へと見事に送り返すことになるだろう。そこには透明性の不透明性、あるいは、不透明性よりも不透明な何ものかがあるのだろう。というのも、不透明性を抑えつけるものも、あの透明性の根底、不在という名目のもとで透明性を狙い、透明性を存在させるあの根底を抑えつけることはできないからだ』。

ブランショは文学やフィクションといった限定した領域における思考ではなく、言語活動一般にわたって言葉の「透明性」を『曖昧で無垢ではない位置が帯びる』ものに私たちを引き戻すと考え、さらに「不透明性」を抑えつけるものも「不在」という名目で「透明性」を狙う、とし、すなわち「透明性」という概念を決して肯定的な概念で捉えていない。一方バルトは『零度のエクリチュール』のなかで、明確に肯定的に「透明」、そして「中性」を捉えている。バルトは、『文語から解き放たれようというこれと同じ努力にはまた、今ひとつ別の解決法がある。それは、言語の痕跡をもった秩序への一切の隷属から解き放たれた白いエクリチュールを創造することである』(R.バルト著『零度のエクリチュール』みすず書房刊より)と、文学における言語の問題に触れ、さらに『零度のエクリチュールとは、要するに直接法的、あるいはそういった方がよければ法に関係のないエクリチュールのなのである。(中略)あたらしい中性のエクリチュールは、それらの叫びや裁きのいずれにも加担せずに、それらのただなかに位置している。それはまさしく、そういったものの不在でできている。しかし、その不在はトータルで、いかなる避難所も何も秘密もふくまない。(中略)むしろそれは無垢のエクリチュールなのである。ここでは、生きた言語からも、いわゆる文語からも距った、一種の基礎的言語に依拠して文学をこえることが問題なのだ』と、「零度のエクリチュール」を定義している。
そして『こうした「透明」な言葉は、カミュの『異邦人』によって創始された』とし、『それはほとんど文体の理想的な不在といっていい不在の文体を成就した』と結ぶ。つまりバルトにとって『異邦人』は「叫び」や「裁き」から解き放たれた、不在の、透明で中性的な、という意味で理想的と考えている。あくまで文体として理想的ということではない。さらにカミュという作家自体を言っているわけでもない。しかし『異邦人』が本当にバルトの言う通り、「創始」だとすると、カミュの他の作品はどうなのか、『ペスト』も「零度のエクリチュール」なのだろうか。翻訳を通してしか読むことが出来ない私にとって、どちらもバルトの言うところの「零度」のニュアンスは感じ取れる。『ペスト』はパニック映画やノンフィクションを背景とした劇場的フィクションの様相のかけらはないし、ジャーナリステッィクでもない。扱われている題材からしても『ペスト』の方が「零度」を感じることができるように思う。しかし、この問題を結論づけるには思考が足りず、他の問題に移り、再びここに戻ってきたい。そこで先に挙げたブランショが『不透明性を抑えつけるものも、あの透明性の根底、不在という名目のもとで透明性を狙い、透明性を存在させるあの根底を抑えつけることはできない』とした指摘に対し、それを独特の感性で表現した作家、作品としてイタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』を例に、「不在」と「在」のエクリチュールを考えてみたい。
・・・12へ続く

2018.7.3

TEXT 「A Passion Play」 – 暴力と舞台装置 – 10

5.『すべての芸術は音楽の状態を憧れる』

岡田温司はイギリスの批評家ウォルター・ベイターによる著作から引用したこの言葉を主題として、『表象08』(2014年)でメディアについて論じている。私はこのベイターの著書を読んでいないが、おそらく誰もが直感的に納得できる言葉として受け止められるだろう。岡田は同書のなかで、『芸術の理想たる、「内容と形式との完璧な一致」をもっとも完全に実現しているのが、「音楽芸術」だからである。「音楽の最高の瞬間においては、目的と手段、形式と内容、主題と表現とのあいだには区別など存在しない』、と論じている。音楽の魅力を言葉で表現することは、難しいというよりナンセンスな感じを受けるのも事実だが、それゆえ岡田のこの論に付け加えることは憚れる。「憧れ」というとちょっとニュアンスは異なるが、私は普通の音楽好きの人間として多くの音楽、特に70~80年代を中心としたロック・ポップス、そして現代音楽を聴いてきた。坂本龍一のことを以前書いたが、YMOともに洋楽ではビートルズをはじめピンクフロイドなどは、この40年で聴かなかった時期はなく、継続して聴いているし、新譜がリリースされたりリマスター盤がでるとつい買ってしまう。そして、このようにこの40年くらい継続して聴き続けているのが、デヴィッド・シルヴィアンである。
彼は特に他のアーティストとは違い、音楽的な進化が大きく、特にこの10年ではJAPANの時代からは想像できないほどの「新しい」音楽を生み出している。彼はJAPANを解散してから30年強、ソロとしてのアルバムを多くは出していない。ロバート・フリップやホルガー・シューカイとの共作や坂本龍一のアルバム参加などを除くと、ソロ名義では作品数としては少ない方だ。しかしそれぞれのアルバムは時代を超えて古さを感じず、毎回明らかに音楽的進化を遂げている。深淵、とはいえポピュラー音楽の枠に収まる範囲、という意味では20世紀最後の『Dead Bees On A Cake』がピークで、2003年の『Blemish』を始まりとして2007年『Manafon』にいたる彼の仕事はほとんど既成のジャンルに収まらないものへと変貌している。
『Blemish』、『Manafon』以前の作品のなかで、私が最も彼らしいと感じ、なおかつよく聴く作品を以下に挙げてみたい。

・Oil On Canvas
・Brilliant Trees
・Laughter and Forgetting
・Before the Bullfight
・Wave
・September
・Waterfront
・Every Color You Are
・Damage
・The First Day
・Thalhiem
・Wanderlust
・アルバム「gone to earth」のインストルメンタル

これらの曲はどれも静かで彼のコンポーザーとしても、ボーカリストとしても堪能できる作品である。
「Oil On Canvas」はJAPANのライヴを収録した同名のアルバムの冒頭の曲で、シルヴィアンの書下ろしで、ライヴ演奏ではない。また正確にはソロ作品ではないのかもしれないし、なによりボーカルなしで、彼のピアノ、シンセサイザーによるミニマルな楽器で演奏された小品であるが、私はこの曲が彼のコンポーザーとしての魅力が凝縮された曲として長く愛聴してきた。荘厳で暗く重々しいピアノ音から始まり、最後は明るい希望へと結ばれる。JAPANからソロへの移行を象徴するようなイメージを与える。
このように彼のキーボードのみの演奏にボーカルを入れた作品は、上記の中では「Laughter and Forgetting」、「September」、「Damage」、「The First Day」がそれに該当する。特にライヴ音源の「Damage」、「The First Day」の2曲は、CDを通してとはいえ深い息遣いを感じることが出来るほどの臨場感を味わえる。またソロで関係を深めた他のアーティストたち、坂本龍一(坂本はJAPAN時代から)、ホルガー・シューカイ、ロバート・フリップ、そしてポップスの世界ではないアーティスト、トランペットのジョン・ハッセル、ギターのデレック・ベイリー(ここでは上記リストに選定していない)、トランペットのアルベ・ヘンリクセンなどが参加して作品のレベルを上げている。例えばロバート・フリップは、コラボレーションでアルバム『The First Day』をつくっているが、ロバート・フリップが他のアーティスト、例えばデヴィッド・ボウイやトーキング・ヘッズのアルバムに参加した作品では、明らかにロバート・フリップらしいギターのリフがその重要な位置を占めている。それは半分以上ロバート・フリップの曲といってもいいくらいに思う。しかしシルヴィアンとの関係ではそうなっていない。上記リストのなかで「Wave」がロバート・フリップの参加した曲に該当するが、この曲はアルバム『gone to earth』からの曲で、この曲だけでなく、いくつかの曲でもフリップが参加している。しかしどれもいわゆるフリップ的なフレーズではなく、曲を引き立てるメロディアスなテクニックが展開され、フリップのギターであることを特に意識させないが、一方で彼のギターのすばらしさの再認識とクリムゾンとは異なる面を知ることが出来る曲となっている。話はそれるが、一流のギタリストが参加した作品として、曲を引き立て、しかもギターが際立ち重要な位置を占める他のアーティストの作品でいうと、P.マッカートニーの「No More Lonely Night」、「We Got Married」(アルバム「Flowers In The Dirt」より)ではデヴィッド・ギルモアが参加している。この2曲は詩がナラティブでウェットな構成であることに対比して、ギルモアのあのフロイドばりの「泣き」で「ソリッド」なギターが冴える作品となっている。甘い曲に甘いアレンジではない選択をするところがP.マッカートニーの一流であることの表れである。
シルヴィアンの盟友である坂本龍一はほとんどストリングスのアレンジで参加している。それも特に坂本らしさが表れているわけではないが、やはり曲のレベルを上げる働きをしている。上記のなかでは「Waterfront」が該当するが、この曲では坂本はピアノも弾いている。そしてやはりシルヴィアンのボーカルを熟知している坂本だからこそできるピアノとストリングスのアレンジであることを認識する。JAPAN時代のアルバム『Gentlemen Take Polaroids』のほとんどの曲で坂本が参加していて、「Taking Islands In Africa」はYMOの音作りによっていて、坂本色が強い作品であるが、デヴィッド・シルヴィアンがソロになってからの坂本色の表出は少ない。
ホルガー・シューカイの参加は上記の作品にはないと記憶するが、コラボレーションで2作のアルバムを出している。ホルガー・シューカイはドイツのバンド「カン」のメンバーだったが、現代音楽のシュトックハウゼンに師事したということもあり、実験的で前衛的な作品もある。そういったアーティストへの興味、そして彼らからの影響を自己の音楽の幅を広げる助けとして、積極的にかかわってきた。その延長で先に挙げたジョン・ハッセルなど参加で「Brilliant Trees」を含むアルバム(同タイトル)が出来たが、これも多くのアーティストが参加している。坂本もその一人である。「Brilliant Trees」はソロの最初期の最も完成された作品だと私は思うのだが、それまでポップスでは聴いたことがないようなアレンジ ・・・ジョン・ハッセルのトランペットとオルガン音のようなキーボードを背景にシルヴィアンの深いボーカルが響く。長い曲だが、後半の半分くらいはボーカルのないインストが続く。これは後にアルバム『gone to earth』のインストルメンタルにつながる試みを思わせる。『gone to earth』のインストルメンタルは、彼の最大の魅力であるボーカルがないにもかかわらず、そこには彼の個性が十分表現されている。先に挙げた「Oil On Canvas」のようなメロディというよりはブライアン・イーノのようなミニマルでアンビエンントに近い音楽なのだが、透明で奥行きのある構成となっている。彼の80年代をよく表したものともいえる。
80年代といえば、JAPANのメンバーで再結成されたRain Tree Crowの作品のなかの「Every Color You Are」はバンド色が若干あり、ソロ作品とは趣が異なるが、後のロバート・フリップとの共作につながる雰囲気をもっている。このアルバムに関して、彼自身の発言では、実は『The First Day』のようなもっとハードなものにしたかったらしいが、当時まだそのメソッドをもちあわせていなかったということのようだ。『The First Day』ではメンバー(3人)の個性が際立っているが、Rain Tree CrowではJAPAN時代のような個々の良さが発揮されていないようにも感じられるのも事実である。しかし私はこの曲がとても好きだし、アルバム自体もよく聴く。
「Thalhiem」、「Wanderlust」は名盤『Dead Bees On A Cake』からの曲で、この時期の彼のコンポーザーとして、またボーカリストとしてのピークで、あるいはポップスとしてのピークともいえる。20世紀も終わるころ、その時代性を感じさせないアレンジで、彼のなかで長く醸成され、というよりはアルバムのライナーノーツによるとかなり苦闘した末の成果であり、あれからもう20年も経つが、古さを全く感じない。
そして今世紀に入って、自らのレーベルSamadhi Soundを作って最初のアルバム『Blemish』ができ、『Manafon』へつながる。その間、ナインホーセズ名義では以前のようなポップスに近い作品もあり、そのツアーで2007年に来日している。私はこの渋谷のオーチャードホールの公演に足を運んだ。アルバム『Snow Borne Sorrow』からの曲がメインだったが、『Secrets of the Beehive』のときにできた「Ride」や、JAPAN時代の名曲「Ghosts」の当時と全く異なるアレンジが印象的だったことを思い出す。
先に挙げた曲のリストに加えて、Manafon variationとして『Died in the Wool』というアルバムがあるが、これは現代音楽の作曲家である藤倉大がアレンジを施した作品で、基本的にシルヴィアンのボーカルはほとんど変わっていないが、新しい曲もあり、中でも「A Certain Slant Of Light」は「September」を思わせる、静かで彼独特のメロディラインが際立つ小品も、最後にリストに加えたい。
私が中学生の頃、NHKFMで放送されたJAPANのコンサートを、当時モノラルのラジカセで録音したテープを以降何年にもわたって聴き続け、今から数年前にそのテープをCD化し、今でも楽しんでいる。それはジャパンの最後のアルバム『TIN DRUM』発表前のコンサートで、初期の曲も多く収められたもので、よりポップな色合いのもので、自分のなかで大変貴重なものとなっている。「Swing」からはじまり「Gentlemen Take Polaroids」、「Quiet Life」など。シルヴィアンがどんなに進化しようと、それも今のものと同じ感覚で聴くことができる。
私は日常のなかで、傍らにはシルヴィアンの音楽の進化が同時に流れていて、特に仕事上困難な場面に遭遇しても、傍らにそれがあると常に乗り越えられてきたように思うのだ。これはシルヴィアンを長く聴いてきた人皆にいえることだと思っている。音楽は最初にあげた言葉、『すべての芸術は音楽の状態を憧れる』ように、日常のなかで即時的に憧れの存在に、直接耳を通して出会うことができ、しかも深い感動を味わうこともできる。それによって多くのことが救われることも人は体験する。そしてその音楽性が変わらないということも人にとっては大事だし、一方で進化し続けるというのも、大げさに言えば自分の人生に照らして、とかくマイナス思考に陥りがちな気持ちをプラスに向かわせてくれる一助となる力もある。音楽には根本的に人を励ます大きな力がある。だからそれに対する憧れも生まれるのだろう。
視覚、聴覚・・・個人的な嗜好性から再びエクリチュールの問題への転化・・・ブランショへと戻る。
・・・11へ続く

2018.6.10

TEXT 「A Passion Play」 – 暴力と舞台装置 – 9

森有正の「経験」は「体験」の概念と両輪をなす。著書『生きることと考えること』の中で、その関係を書いている。
『人間はだれも「経験」をはなれて存在しない。人間はすべて、「経験を持っている」わけですが、ある人にとって、その経験の中にある一部が、特に貴重なものとして固定し、その後の、その人のすべての行動を支配するようになってくる。すなわち経験の中のあるものが過去的なものになったままで、現在に働きかけてくる。そのようなとき、私は体験というのです』。(『生きることと考えること』講談社現代新書より)

「特に貴重なものとして」の経験は、誰にでも多かれ少なかれあるだろう。私が幼少期からまとわりついていた「暴力」の感覚に関連して、成人してから最もインパクトが強かったアート経験がある。もう二十年くらい前になるが、当時小樽にペテルブルグ美術館という、石造りの歴史的建造物(銀行)を改修した美術館があったが、そこで「ヘルンヴァイン展」が催された。ヘルンヴァイン(ゴットフリート・ヘルンヴァイン)はウィーンの芸術家で、70年代ロックが好きな人なら、スコーピオンズの「ブラックアウト」というアルバムジャケットの絵といえば覚えがあるかもしれないが、それがポップな部類では有名な作品である。ジャケットの絵は頭に包帯を巻いた男が両目にフォークをメガネのように覆って、口を開けて振り向き叫んでいるようなショットを表現したものだ。全面にはガラスが割れて飛び散る瞬間を効果的にかぶせている。かなり異常な絵である。スコーピオンズのジャーマンロック、ジャーマンメタルにふさわしい、「遊び」のないハードコアなものを内包した狂気とよく合ったものだ。もともとこの絵は、彼(ヘルンヴァイン)自身がそのモデルとなり撮られた多くのスチールのショットがあり、その一つを当時のスーパーリアリズム、ハイパーリアリズムの手法を使って、すなわちエアブラシも駆使しながら書いたもので、写真のような質感だがリアリズム絵画とわかる作品だ。展示会でもこの絵を見たが、思ったほど大きなサイズではないことにむしろ驚いたが、それよりも他の作品を通して観たのは初めてだった。美術館は一般の美術館とはつくりが違い、内装も非常に凝ったもので、ヨーロッパの様式に倣ったような重厚で様式的なつくりで、絵画を一層引き立てる役目を果たしているというより、絵画と同等の作品性を維持している。(私は現代の白一辺倒の内装の美術館に違和感を覚える)。
ヘルンヴァインの初期の作品、パフォーマンスには、キーワードとして「包帯」、「血」、「少女」、「フォーク」、「ナチス」などを作品集から読み取ることができる。先のスコーピオンズの「ブラックアウト」も含まれる。作品集というスチールでしか享受できなかった当時、その中の異常とも思えるパフォーマンスに魅力ある「暴力性」を感じた。自己表現が今まで見たこともない「図」として現前し、それと卓越したドローイングの技法の迫力は、例えると稚拙なメソッドで作ったデスクトップミュージックのような素人的で甘い感性など寄せ付けない迫力が伝わる。展示会とともにそのとき購入した作品集のインパクトはもう20年経た今でも私を突き動かす原動力になっている。
迫害にあった少女たちの顔の絵が迎える建物の小さな入り口を入ると順路に従って作品を鑑賞できるようになっているのは他の展示会と同じである。歩を進めると、様々な作品が観者を迎える・・・徹底的な「暴力性」をもって。2畳分くらいあったろうか、2枚の絵と写真が並んで配置されていた。それはゴルバチョフのモノクロの「顔」である。どちらが写真で描いたものか、10㎝まで近づいて視てもわからない。ナチスの腕章をつけた作者自身の血に染められたパフォーマンスの写真。他、今思い出すとミッキーマウスなどよりポップなものを題材としたものもあったが、順路の最後にまさに時が止まったかのような瞬間で作品は完結する。『少女の頭』。息をのむ圧倒的な迫力で、縦横4~5mくらいはあるだろうか、目を閉じた少女の顔のスーパーリアリズムが迎える。建物の吹き抜け空間を利用した巨大なこの作品に私は理屈を超えて胸をうたれ、そしてこの言葉をもたず語り掛ける圧倒は、まさに理想の「暴力」であった。なんの前触れもなく、空間と感情を完全に支配した完全性に、今後の自分の仕事に対する姿勢、大げさに言えば生き方を暴力的に方向づけられた。この「暴力性」に対して、今まで漠然と考えていた「暴力」の概念を入れ込む作業が今後できると確信した。私は仕事を通して「これ」を作ろうと決意した、ことを忘れないように生きてきた。誤解のないように念を押すが、私の言う「暴力性」とはあくまで腕力のそれではない。
こういった経験は、もう20年余経て今に至るので、過去とはなっているが、森有正のいう固定した「経験」、すなわち「体験」と化している。しかし森有正は先の本の引用の続きで以下のように書いている。

『それに対して経験の内容が、絶えず新しいものによってこわされて、新しいものとして成立し直していくのが経験です。経験ということは、根本的に、未来へ向かって人間の存在が動いていく。一方、体験ということは、経験が、過去のある一つの特定の時点に凝固したようになってしまうことです。(略)これは一種の経験の過去化というふうに呼ぶことができましょう。過去化してしまっては、経験は、未来へ向かって開かれているという意味がなくなってしまうと思うのです』。(森有正 同書より)

確かに私の「体験」は固まってしまって、拘泥しがちに陥るが、この言葉をもって、より柔軟に仕事をするよう心がけるようになっている。いや柔軟という言葉は適切ではないが、建築に限らずどんな仕事でもこだわりをもっていては社会で排除されるだろう。こだわりは本来「いい意味」ではない。拘泥することなのだから、それを捨てなければ誰もついてこなくなるだろう。経験を過去化し、固まった体験を常に更新するよう開かれた、そして発見と実験の精神を持ち続けることが、特に私たちの世界ではよりクリエイティブな仕事をするうえで大事になってくるのではないだろうか、ということをよく考える。

再びブランショに戻り、主に文学論で構成されたテキスト『終わりなき対話』(Ⅲ)へと進めたいが、その前に視覚から聴覚へ、ヘルンヴァインからデヴィッド・シルヴィアンへ・・・進化する音表現について。
・・・10へ続く

2018.6.9

TEXT 「A Passion Play」 – 暴力と舞台装置 – 8

『読書する暇つぶし屋を、わたしは憎む』

様々な言葉、箴言が私を戒める。
ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』(岩波文庫版)の第一部「読むことと書くこと」で、氷上英廣が訳したのは「暇つぶし屋」で、他の翻訳では「怠け者」など、多少の違いはあるが、若い時代に出会ったこの言葉に、まともに字義通りに受け止めていたとしたら、少なくともこの30年はおそらく乾いた砂漠の中を歩いているような思いをしたか、あるいは逆に何も知らない無邪気で潤いのある生活を送っていたかもしれない。しかし私はこの言葉を胸にとめておきながら多くの本を読んだ、ように思う。本を読む、読書するという行為は誰にでもできそうだ、が、誰にもできない、誰にでもできるというわけではない、と思うようになっていた。私の経験に照らしても、読んだ本のほとんどはその内容は覚えていない。つまり読んだという確証がない。しかし、過去に読んだ本のページを繰ってみると、そのほとんどに付箋やアンダーラインをしている。さらにその箇所を眺めてみると、なぜこのときここに線をひいたのか、このページに付箋を貼ったのか、疑問に思う箇所も多い。しかしそれでも昔の日記を紐解くように、次第にその時何に敏感で、興味があったかなどがよみがえってくることもある。また一度だけでなく何度も繰り返し、何かの節目で読んできた本も多い。例えばドストエフスキーの『罪と罰』、『悪霊』、漱石の『吾輩は猫である』、『坊ちゃん』、あるいはフォークナーの『八月の光』や『響きと怒り』は何度読んだか数えられないくらいだ。それでも読むたびに発見がある。そうして、その発見した言葉、胸に響いた言葉を忘れないようにノートに書き留めておく、という行為をずっと続けてきたが、それはほとんど習慣というか、食事や歯を磨くなどといった日常のルーティンに近い感覚で続けていた。つまり大げさに言えば人生において必要な行為となっていた。本を読むという行為は、あるいはその行為から、様々な意味をくみ取ることができる。人によっては内容はともかく、その読んでいる時間そのものが大事であったり、集中力を養うため、あるいは気を静めるため、など目的はさまざまであろうが、やはり私にとっては前述のように、どんなテキストからも一つは胸を打つ言葉があるから、あるいはあるかもしれないから読書をやめられないのだ。「読書する暇つぶし屋」と皮肉られようがかまわず、むしろそれを積極的に受け入れることにし、そしてそれを戒めとすることも忘れないようにしてきた。
ニーチェの『ツァラトゥストラ』に戻ると、本テキストの冒頭の言葉の前後は、以下のようなものである。

『すべての書かれたもののなかで、わたしが愛するのは、血で書かれたものだけだ。血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。他人の血を理解するのは容易にできない。読書する暇つぶし屋を、わたしは憎む。読者がどんなものかを知れば、誰も読者のためにはもはや何もしなくなるだろう。もう一世紀もこんな読者がつづいていれば、-精神そのものが腐りだすだろう。誰でもが読むことを学びうるという事態は、長い目で見れば、書くことばかりか、考えることをも害する』。

この内容についてよりも、今はこれを契機として、「読書」経験とはつまり本を読んだということと同義ではない、つまり私にとって本を読んだ、ということはすなわち「書くこと」と同じ意味になるということだ。先述したように、本をよみ、何かを発見する、知らなかったことを知る、このことによってあらためて自分の無知を自覚する。そして闇の中から何か実態のつかめない、自分で枠にはめたものをとりだし、さらにその中から自分で咀嚼できるものを選ぶ。そして、日常のなかのなんでもない非日常を拾い出し、異化する。そうして無限の曖昧からかってに絞られた領域をつまみだす。こうした行為に対し衒学的でスノッブだと批判的し、馬鹿にし、むしろ超然としているのは簡単なことだが、恥を受け入れ、無限の無知を積極的に受け入れてこそ、無限と思われていたものが限界を意識するようになるのではないか。
このようなことを取り上げたのは、言うまでもなく森有正の「経験」とブランショの「限界」について、私が普段思っていたこと、つまり「経験」とは森有正の言うように、『ある根本的な発見があって、それに伴って、ものを見る目そのものが変化し、また見たものの意味が全く新しく』なり、『経験が深まるにつれて、あるいは進展するにつれて、その人の行動そのものの枢軸が変化する』、ということ。そして『この発見、或いは視ることの深化更新が、あくまで内発的なものであって、自分というものを外から強制する性質のものではなく、むしろ逆にそこから自分というものが把握され、或いは定義される』ということを。自分の身近な日常を契機に考えてみた。
またブランショの『終わりなき対話(Ⅱ)』の訳者、西山達也が指摘するように、『ギリシア語で「経験」を表すempeiriaにも、「試し」「実験」等を意味するperiaという語が含まれており、さらにこの語には「境界」「限界」を意味するperasと共通の意味等が含まれている』ということを考えると、私は「経験」「実験」「限界」という言葉が一体となって様々な解釈の、そして行動の動機付けとなる。「experience」(経験)は「experiment」(実験)を通して物事を実証しようと企て、その限界、領域、枠組みを見極めようとする。無限の曖昧さから限界のひとかけらをつかむ。そしてますますわからないことが多くなることを実感する。このような繰り返しを積むことそのこと事態が「経験」なのではないだろうか。
ブランショは『終わりなき対話』の中で、以下のように「限界―経験」について書いている。
『限界―経験とは、人間が自己を徹底的に問いのなかに投入しようと決意したとき、その人間が出会う応答のことである。こうした決意は人間の存在総体を巻き込むのであるが、この決意は、たとえどのような慰めであれ、どのような真実であれ、そこに足を停めることはできないという不可能性、さらには、行動のもたらす利得や結果であれ、知と信による確実さであれ、けっしてそこにとどまることはありえないという不可能性を表現している』。(ブランショ 『終わりなき対話(Ⅱ)』筑摩書房刊より)
実験を試みて初めて「応答」に出会うものだ。「問い」に身を投げる決意をもって、自分をとどめさせないというスリリングな覚悟をもって「経験」の薄皮を毎日はがす作業を繰り返す。
・・・9へ続く

2018.6.3

TEXT 「A Passion Play」 – 暴力と舞台装置 – 7

私が所属する業界、建築界では、設計、施工だけでなく、設計においても構造や設備、外構等の専門領域、他建物の規模にかかわらず多くの人がかかわっている。基本的に設計においては有資格者でないと設計はできないのだが、資格がなくても設計ができる能力を有する人は多い。逆に資格はあるが能力がない人も多いのが現状だ。どんな業界でもいえることかもしれないが、実務を多く経験した人は自信があり、説得力もある一方、経験したことのないことに関しては曖昧な対応をするか、経験に照らして予測して対応する人などによく出くわす。建築の技術的なことに関して単に経験のみに基づいて行動する人の話は、素人にはともかく専門家、特に有資格者には非常に怪しく感じることが多い。何も有資格者がすべてにおいて信頼できるという意味ではなく、資格を取ることはすなわち経験しないことの知識も習得しなければならないということを考えると、未経験の事態に出くわしても、経験からではなく、理屈で、あるいは技術や知識で判断することができる、と期待される。実際はそう単純な話ではないことではあるが、つまりここで「経験」ということを考えた時に、「経験」というのは、実務をすることのみで何か知識が知らず知らず身について、わかったような気分になっているということ、果たしてそれは経験を積んだといえるだろうか、とよく思ったものだ。
私はこのような疑問を抱くとき、いつも森有正の言葉が頭に浮かぶ。彼のエクリチュールのなかで、非常に重要な部分を占めるのが、「経験」と「体験」についてだが、『遥かなノートルダム』の中の『霧の朝』で以下のように経験について書かれている。

『経験というものが、感想のようなものが集積して、ある何だか漠然とした判ったような感じが出て来るというようなことではなく、ある根本的な発見があって、それに伴って、ものを見る目そのものが変化し、また見たものの意味が全く新しくなり、全体のペルスペクティーヴ(原文ママ)が明晰になってくることなのだ、と思う。したがってそれは、経験が深まるにつれて、あるいは進展するにつれて、その人の行動そのものの枢軸が変化する、ということをも勿論意味している。その場合大切なことが二つあって、一つは、この発見、或いは視ることの深化更新が、あくまで内発的なものであって、自分というものを外から強制する性質のものではなく、むしろ逆にそこから自分というものが把握され、或いは定義される、ということ、と同時に、それはあくまで自分でありながら、経験そのものは、自分を含めたものの本当の姿に一歩近づくということ、更に換言すれば、言葉の深い意味で客観的になることであると思う。(略)経験をもつということは、人間が人間であるための基本的条件であり、一つの経験は一人の人間だ、ということである。したがって、一つ一つの経験は互いに置き換えることの出来ない個性をもつと共に、人間社会におけるそれであるが故にそれが客観的に純化されるに従って、相互に通い合う普遍性をもって来るのである』(『森有正全集3』筑摩書房刊より)。

経験するということは「ある根本的な発見」がある、と彼は言う。それはこの章の始めに「experience」と「experiment」の意味を「経験」と「実験」と書いたが、この関係をブランショの『終わりなき対話(Ⅱ)』の訳者(西山達也)が以下にうまく表現している。

『経験とは、その定義上、限界に赴くこと、限界に触れること、限界領域に身を置くことを意味する。(略)経験とは、何か未知なるものや不確実なもの、リスクや危険を孕んだものに向かっていく運動であり、そこにはつねに偶発的な要素が前提とされている。ギリシア語で「経験」を表すempeiriaにも、「試し」「実験」等を意味するperiaという語が含まれており、さらにこの語には「境界」「限界」を意味するperasと共通の意味等が含まれている。こうした語源的な背景を念頭にいたうえで、ブランショは、限界―経験という表現を用いているのであり、つまり、経験とは、徹底した自己の問い直しを起点とするものであり、それは安定した境界に囲まれた領域の内部で自己を安全なまま維持することではありえないのである。』

この文からは、ブランショの「経験」に加えて語源から派生させた意味として「限界」との関係を西山は解説している。ブランショによる本書では副題が「限界―経験」であることからも、「限界」というキーワードが重要な位置を占める。
『経験をもつということは、人間が人間であるための基本的条件である』とする森有正の「経験」を、そしてブランショの「経験―限界」を、この先しばらく考察してみたいと思う。
・・・8へ続く