Film work1
月別アーカイブ: 2012年10月
札幌I邸
小樽の住宅
■HOUSE in Otaru(小樽)
施主は40代の独身男性で、妹夫婦とその一人娘との二世帯住宅として計画された。1階は三台分の車庫、2階は妹夫婦世帯、そして3階が施主のためのスペースとなっている。2階は南側に居間を中心とし、東、北側にそれぞれ子ども室、寝室を設けた。3階は施主が当時独身で、将来の家族形態、生活スタイルの大きな変化に対応したプランとして提案した。
施主は仕事でドイツに行ったことがある人で、ドイツで見たある建物に感動したことから、外観デザインはそれをイメージしたものにしたいという強い要望があった。それは「バウハウス」であった。具体的にバウハウスのどの建物かははっきりしないが、私はかつてのバウハウス校舎を模したようなものではなく、むしろ現代的な無機質で構成的な線分を用いたスケッチを示したところ、「そんな感じだ」という反応であった。しかしバウハウスのデザインは、椅子に代表されるような工業デザイン、そして美術などデザイン全般にわたりデザイナーの理論も多様である。私は大学時代に購入した鹿島出版会の『バウハウス』を引っ張り出し、あらためてグロピウスの建築理論を復習した。
●グロピウスの理論
グロピウスは住宅プランにおいて類型化を提唱した。それは工業に服従するためではなく、社会の内的な精神と生命力の側の熟成が必然的に必要とする新しい形態システムのための言語としての必要性からくるものだった。類型とは外側から与えられるのではなく、社会が内側から生み出すものでなければならないとしている。そこでそのひとつの手法として、グロピウスは「大きな積み木箱」なる概念を提示した。その最小の単位は以下の図1に示すように2層分の居間空間とそれをL字で取り巻く玄関・台所・水廻り・2つの寝室で構成されている。そしてその周辺、上階に必要な諸室を配置するというものだ。
図2・3はSD選書『バウハウス』(鹿島出版会)に掲載されている概念図である。
類型化の意味は、単位空間の単純化によって住宅についての新しい表象を創出することにあるとグロピウスは主張する。
●「HOUSE in Otaru」の3階では、このグロピウスの「積み木箱」理論を採用するのではなく、これを一つの契機として逆の生成過程を試みた。それは最小の単位から出発するのではなく、最大の枠を設定し水廻りゾーンをまとめて中心に据える、即ちコアタイプとしたこと。そしてコアを囲む回遊可能なスペースは生活形態や必要性に応じ間仕切りを設けたり、床を増やしたりできるようなフレキシビリティをもたせた。
●3階平面の構成
KOTONI Edge
札幌西区の住宅
Master’s work:修士設計(1991年)
「アプリオリ」モンタージュ、「アポステリオリ」モンタージュ - 空間の質感(マチエール) -
1.研究目的と方法
いまここに三つの映画作品を与える。ミケランジェロ・アントニオーニの『太陽はひとりぼっち』(写真1)、セルゲイ・パラジャーノフの『ざくろの色』(写真2)、そして小津安二郎の『東京物語』(写真3)である。『太陽はひとりぼっち』のこのショットは、画面の中央に太いコリント式の円柱とその両側に二人の主人公が配置された構成となっている。この円柱の無機質なテクスチャーは、二人の主人公に対して延長的に、また他の人物に対しては相似的に拡張されている。それゆえ同質のテクスチャーをもつ対象の重なりによって生じる空間の襞が、この空間に均質な調子を与えている。『ざくろの色』は、18世紀の詩人サヤト・ノヴァの生涯を八章の映像詩篇でつづられた作品である。上作品と同様に、この作品前篇に亘る均質な画面の調子は、作品の舞台となっているアルメニアという地域性に深く関わっているように思われる。即ちその地域の特殊性が骨格となって、時代の流れとともに変化する様々な事象が、その骨格を背景にちりばめられているような感覚が認識される。写真のシーンはこれを最も印象的に現しているショットであろう。『東京物語』の写真のシークェンスは、当時の一般的な日本家屋の室内における人物の諸動作を、ロー・アングルから撮影した独特の映像の流れであるが、人物の角度はほとんどが正面と真横であり、しかも人物配置が相似形となっている。このような人物配置と幾何学的で相似的な日本家屋のデザインによって、この空間に均質な調子が与えられている。
本研究は、このような空間における感覚を契機とした、「質感」で捉えた空間概念に関する研究であり、この空間概念を建築設計の拠所にすることを目的とする。この研究の考察においては、空間の質感に影響を及ぼす諸状況を〈全体〉と〈部分〉あるいは〈普遍〉と〈特殊〉との関係から捉え、これを四つの関連する概念で後付けする方法を試みた。その各々の表題は、(1)「特殊性から普遍性へ」、(2)「〈全体〉と〈部分〉」、(3)「関係性の意識」、(4)「普遍の外在化」であり、以下に詳述する。
2.特殊性から普遍性へ
ここでは評論家加藤周一のアルベルト・ジャコメッティ(写真4)の創作態度の解釈から得られた〈普遍〉と〈特殊〉の関係について考察する。彼はジャコメッティの創作態度を「あくまで個別的なものの特殊性に徹し、そうすることで特殊性を普遍性へ向かって超えようとする運動そのもの」と論じている。ジャコメッティの作品においては、その対象が人間であるということがすぐには認識できない。観察の長い時間の経過において、次第に実像が浮き出てくる。更にその像は観者の眼を逆に空間の奥へと吸い込んでゆく。そして最初の印象のように像とそれを取り巻く空間の境を曖昧にする。加藤周一による「個別的なものの特殊性」とは、即ちこの場合周囲の世界の一部に還元されないいわば「人間の条件」であり、それゆえこの徹底した「人間の条件」、即ち〈特殊〉への追及が普遍性へ向かって超えさせると解釈できよう。
3.〈全体〉と〈部分〉
ここでは〈全体〉と〈部分〉の関係の論理的な考察の拠所として、現象学で知られるエドムント・フッサールによる〈全体〉と〈部分〉に関する考察の要点を記し、その例としてメロディーや星座を与える。彼は〈全体〉と〈部分〉の関係を「基づけ」という概念から分析している。いま二つの〈部分〉として、あるαとあるβが与えられたとする。そのαとβは相互が連携してある包括的な統一体の中でしか意味をもたない場合、αはβによる「基づけ」を必要とする。メロディーを例にとると、〈全体〉としてのメロディーを構築している〈部分〉に相当するものは音であり、一つの音は他の音との「基づけ」を築きながら、音と音との様々な関係によってメロディーがつくられる。星座においては、星を線分で結び付け、全体として一つの形態を表すものである。ある星座における星との関係においては意味をもたず、その星座における星との関係ももたない。この節における重要な点は、〈部分〉というものは、それが属する包括的な〈全体〉の中でしか存在意志をもたないのではないだろうか、ということである。
4.関係性の意識
ここでは、〈フォービスム〉を代表する画家アンリ・マティス(写真5)の創作態度から得られた〈部分〉と〈部分〉の関係の意識について触れたい。彼はオリーヴ樹の素描についての話の中で、その対象そのものであるオリーヴ樹から興味が薄れてしまって、全体としてのオリーブ樹を構成する〈部分〉としての枝と枝の間の空間に観察が移ったとき、それによって素描されたオリーヴ樹のオリジナリティについて語っている。すなわち〈全体〉を〈全体〉としてだけでなく、それに内包された〈部分〉間の関係に対する重要性を認識することによって、その対象の固定的なイメージから切り離されるということである。
5.普遍の外在化
ここではピエト・モンドリアンの芸術論から獲得された普遍的なものの意識的な外在化ということについて考察する。彼は芸術を「人間の存在全体を造形として表現したもの」とし、このような考え方で自らの作品を制作していった。彼によると「人間の存在の全体性」とは、普遍的なものであり、これが人間の外に的確に現れ出たものが芸術であり、この場合普遍的なものとは常に存在し続け、意識の外にあるものを指している。ここで彼の作品である『線によるコンポジション』(写真6)とピサロの『テアトル・フランセ広場』(写真7)を取り上げてみたい。ピサロの作品で描かれている様々な諸事象、つまり人や樹木、馬車などはその対象自体は各々特徴的であるが、これらが一つの空間を構成し、それを全体としてみてみると、ここに描かれた状況は、この場所に限定されたものではなく、他のあらゆる場所でも描かれうるような普遍的な空間となる。そしてモンドリアンの作品も各々の線分はすべて長さも幅も異なるが、それがある一つの全体として描かれた場合、それ自体は非常に普遍的である。従ってこの二つの作品は、各々抽象画と具象画として両極に位置するにも関わらず、意図された目的は実は同じ所にあったのではないかと考える。この節における要点は、人間の意識の外にある普遍的なものを意識的に表現する試みと、それを成り立たせている特殊性への追求である。
6.本計画の目的と意味
以上のような考察過程を経て獲得された一つの概念は、〈全体〉と〈部分〉の関係における「演繹的(アプリオリ)」かつ「帰納的(アポステリオリ)」な考察であり、その過程の中で〈全体〉と〈部分〉を把握し、こうして把握された関係性を「モンタージュ」的な層の重なりによって表現することが表題の意図である。そして本計画は〈全体〉と〈部分〉の関係の中で把握された空間の質感を、即ちその空間に隠された意識に昇らない普遍的なものを、意識の中に蘇らせるために介在するものであることを目的とした。
7.結語
今回このように計画されたものは、全体としての形態をもちえず、実体として存在するものは、あくまでその空間に隠された特殊な普遍性であり、そのため物体そのものに対するデザインではなく、その対象がもつエネルギー、あるいはテクノロジーから生まれる効果を設計の基本とした。
参考文献
- 加藤周一著作集(平凡社)
- エドムント・フッサール『論理学研究3』(みすず書房)
- 吉田秀和『主題と変奏』(中央公論社)
- アンリ・マティス『画家のノート』(みすず書房)
- ピエト・モンドリアン『新しい造形』(バウハウス叢書)
- メイヤー・シャピロ『モダン・アート』(みすず書房)
■解説
以上が1991年修士設計の際にまとめた梗概集用論文であり、設計はこの論文を基に計画したというよりは考察過程を表現する媒体としての存在と、プレゼンテーション表現のみを焦点とした。しかし具体的に敷地を設定し構築物の平面、立面、断面という表現においては従来の建築の基本表現に他ならない。構築物は全長約1kmに及ぶ川をはさむように巨大な2枚の壁を立て、向き合う内側の面は鏡面のガラスとしたものである。これは当時フランスの建築家フランシス・ソレーユの日本におけるプロジェクトに影響を受け、その効果を試みた。向き合う鏡面は互いに反射を永遠に繰り返す。この反射は、この2枚の壁の間でしか認識できない。この長い構築物の両端の視線の先は、一方はこの地域の特殊性を示す鉄工所(新日鉄室蘭)の鉄の構築物、そしてもう一方は神社のある山へ緩やかな傾斜を形成する。また壁の外側の面は鉄やガラスの造形から成り、街の姿を映したり消したりゆがめたりしている。そして中央を突き抜ける視線の先には海に特殊な形状で張り出す小さな岬の形態へと向かう。構築物に特に用途はない。内部空間はあるが、人が散策できる程度のもので、特別ヒューマンなスケールで何かを施しているわけでもない。
これは「媒体」と言った。即ち構築物は実体としては存在するが、この街の構成を再認識するひとつの装置と捉えてよい。
図面は全てA1サイズの透明アクリル板にカッターで線をけがいて仕上げ、レベル毎にレイヤーのように層を設け、それらを重ねて表現した。写真1はA1を2枚並べ1枚としたもので、中央に構築物が配置される川と周辺の建物のプロットがあり、論文でも述べたモンドリアンの『コンポジション』を意識した表現となっている。写真2~5は全長約1kmを4分割し、中心から西側と東側へ各々2セットずつ、そして1セットには上下各1/3に立面図の層と中央1/3に平面図の層を重ねて構成した。線のけがきの暴力的な表現と層の重なりにより、従来の図面というイメージから離れた「モンタージュ」的な特殊な効果を狙った。写真6~は模型写真であり、写真6は西側の端部の鏡面の反射の反射が最も効果的に表現されたものである。写真7、8はアクリルの重なりによる断面表現、写真11は東側の、2枚の壁を取り除いた形態である。
表題の「アプリオリ・モンタージュ、アポステリオリ・モンタージュ」は私が作った語ではない。『戦艦ポチョムキン』で知られる20世紀初頭の旧ソ連の映画作家セルゲイ・エイゼンシュテインのモンタージュ理論によるものである。また私がこれを制作したのは前世紀のことであり、しかも学生という若い年齢であったが、当時建築とともに大きな興味の対象であった現代思想の影響を受けている。この論文の最初で映画作品が登場するが、これらは何度も繰り返し観て実感として肉体に浸みこんだ感覚であり、それを空間の概念に結びつけるということはいわば必然でもあった。その後今世紀に入って更に自分を納得させる書物が出版された。ジル・ドゥルーズの『シネマ1・2』である。ドゥルーズがある時期映画についての思考を講義で扱ったものをまとめたものだが、登場する映画作品はアントニオーニはじめ、小津安二郎、そしてもちろんエイゼンシュテインの作品もある。私の学生時代の稚拙な語彙で並べた文章は後にドゥルーズによって映画、映像の概念を内的に再構築された。
なお論文中の映画、絵画、彫刻作品の写真は当時の修士設計の梗概集からそのまま転用したものである。
●計画地
●配置図(写真1)
●平面図・立面図・断面図
●模型写真