・・・ひとたび自分の手から放れたあと、独り歩きする姿をどのように見守るか。「私的」プランをいかに「非私的」プランに高めるか。成人してもなお手をひき、彼を最期まで見届けようとでもいうのか。しかし自己の能力以上の力を発揮するために手放さないでいるということは必要条件といえるだろうか。ここに二つのテキストを引用する。
「僕は、心おだやかに生きるためではなく、心おだやかに死ぬことができるように、人々から遠ざかっている」(カフカ『日記』より)。
「僕はもう少し書こう。もう少し書いて、何もかも言ってしまいたい。いつか僕の手が僕から切り放されて、何か書けと命令すれば僕の考えもせぬ言葉を書くようなことがあるかもしれぬ。全く変化してしまった解釈の時間が始まるだろう。もう言葉と言葉とがまともに続かなくなってしまうのだ。(略)僕はしかし、おそろしい恐怖にもかかわらず、結局何か偉大なものの前に立たされた人間だという気がする。何か書いてみようという気持ちをちっとも持っていなかった時分から、僕はときどきそんな気がしたのを覚えている」(リルケ著『マルテの手記』新潮文庫、大山定一訳より)。
ブランショは著書『文学空間』のなかで、カフカと「マルテ」から、創作者としての「自己」と、手を放れた「自己」との関係を、エクリチュールという側から問うている。
カフカについては、「彼は書くためにこの世からおのれを除き去り、心おだやかに死ぬために書く。今や、死が、自足せる死が、芸術によって与えられる報酬だ。それが執筆の目標であり根拠である」、と。また「マルテ」については、「マルテの発見とは、非人称的死という、このわれわれの手に余る力の発見だ。これはわれわれの力の超過であり、われわれの力を超えたものだ」、と。
カフカは「書く」という行為を「いかに生きるか」ではなく、「いかに死ぬか」という動機づけにしている。そして作品から「自己」を消し、「彼」という「非人称」化をすることで、不安に満ちた自己観察から解放しようとしたといえる。「マルテ」も切り放された手が何を書くか、もはや自己制御は不可能であると考えている。しかしカフカも「マルテ」も、その制御不能を報酬と考える。そして「非人称」化を肯定する。
ブランショは『終わりなき対話』の「第三類の関係」(思潮社刊、上田和彦訳)の中で、「自己」と「他者」の関係を三つに分類している。第一の関係は、「他者」を「自己」と同一化すること、他なるものが他の事物であっても、人間はそれを同一のものにするよう勤めるという考え方。第二の関係は「他者」と「自己」とがいわば弁証法的に統一すること。「〈私〉=主体は、自らを分割しようと、〈他なるもの〉を分割しようと、その関係を仲介者として肯定し、その中で自らを実現するのだが、この今度の関係にあっては、絶対的に〈他なるもの〉と〈自我〉は無媒介的にひとつになる」。そして第三の関係は、第二の関係を超えて、「他なるもの」は「他なるもの」のままで「主体―客体」の関係も生成せず、統一もしない関係。
自問した「非私的」プランとは、ブランショにおける第二の関係を目指した漠然とした像を指す。つまりどこかの段階でプランは自己を放れ、弁証法的に止揚されていくという願望。建築生成はエクリチュールの問題とは距離があるが、同じ地平においた両者を俯瞰すると、私は創作をさらに第三の関係に「至高」させる希望をもちながら、いまだに第一の関係に身をおいているか、あるいはその創作態度から永遠に脱却できないのではないかという恐れを抱く。しかし第三の関係は第二の関係の上位にあるという謬見を捨て去り、建築生成において何を「他者」とするのか、「自己」とは、「統一」とは何かを問うことをやめてしまえば、「私的」プランは「独りよがりの」という修飾語で短絡的に捉えることに留まり続けることになろう。