TEXT -3 消尽

  拠所としていた過去のいくつかの〈方法論〉 ― 現在でも継続的に使用するもの、そして活きた使われ方・無理な使われ方 ― 私がいつの時代か乱用した〈文学理論〉の「借用」による建築への転用、つまり既に過去になりつつあり、いや言葉として今では像の構築に障壁があるもの - そういうものが私にとって少なくとも今二つある。
一つは「カーニバル」、もう一つは「ポリフォニー」。
どちらもミハイル・バフーチンの文学理論の重要なキーワードだが、「カーニバル」は他にユングの元型論でもトリックスター元型の文脈で展開される。「カーニバル」とは中世における階級的秩序の転覆であり、バフーチンにおいてはブリューゲルの絵画(『謝肉祭と四旬節の喧嘩』)を例でそのイメージを確認できる(バフーチン著『フランソワ・ラブレーの作品と中世ルネッサンスの民衆文化』)。トリックスターは、日本では山口昌男氏の文化人類学でのテキストで興味深く論が展開されるが、一般的には民話において『半ば面白半分、半ば悪意のある狡猾ないたずらもの』の性格をもつ(ユング著『元型論』)。「カーニバル」の中にトリックスターが存在するという意味ではなく、「カーニバル」の「逆転性」を人間のかたちをした像としてトリックスターは神話的に描かれる。
 もう一つの「ポリフォニー」は、バフーチンの「ドストエフスキーの文学論」に基づく中心言語だが、モノフォニーに対して多声的であり、一つの声ではなく多くの声が含まれることを意味する。具体的にはドストエフスキーの『罪と罰』では、多くの人が知っているように物語としては非常に重く暗いものである。一人の青年(ラスコーリニコフ)が金のために老婆を殺め、自責に耐え切れず自首し、シベリアへ送られる。この流れに何ら「明るさ」は見受けられない。が、「文学理論」によらずとも、『罪と罰』を繰り返し読んだ者は、おそらくむしろ「明るさ」を感じるだろう。マルメラードフの臨終の場面では身内の者以外の者も、まるで見世物小屋のように集まって人間の死を覗き込む。死の場面でさえもある意味活き活きとした場面に変わり、あるいは発狂したカテリーナ・イワーノヴナの叫び(フランス語のcri )、その他登場人物の非常に長々とした科白の中には更に様々な人物が登場する。日本の小説は私小説とよくいわれ、小説の中で響いている声が唯の一つだけということが多いが、ドストエフスキーは非常に多くの声が響いている。ドストエフスキーの「明るさ」はポリフォニーによる「暗さ」の反転であり、その意味で「カーニバル」的ともいえる。
 では一方、「建築」において、私はこれらの言葉をどう借用していたか。建築の生成過程での声が一つか多声的かという点においてのみで、それ以上の深さはないし、逆転や転用などの意図もない。多声的という言葉には、単に多くの人間がプロジェクトに関わるというよりは、デザイン的アプローチにおけるイメージとしての言葉として使用していた。しかしそれは建築に個性の有無を問うものでもないし、俗にいわれる「作品性」や「作家性」なるものを問うつもりもない。ましてやその善し悪しの判断根拠にするものでもない。評価におけるひとつの言語、あるいは方法の癖のようなものであった。現在はもちろんこれらの言葉を使用して建築を評価、あるいは計画することはない。これらの言葉はもちろん現在では死んだわけではないし、相変わらず文学批評では「ポリフォニック」という語をよく見かける(バフーチンの用法とは異なるものも多い)。言葉のイメージが変化してきているということはいえるだろう。「カーニバル」自体、現代ではその場面をイメージしにくい。それに置換する像は今では何にあたるのか。あるいはそれは現代の社会、国を問わず、あらゆる場面で逆転が表象され、像として完全に過去に埋没するか、消え去りつつあるのではないだろうか。