TEXT 「建築は対象関係論である」-3

TEXT 「建築は対象関係論である」-3

ゴダールの『中国女』を観たことのある人は、今ではどんな印象を胸に残しているだろうか?今の時代、古い映画ならなおさら映画館で観る機会など希だが、私がかつて劇場の大スクリーンで観た印象は、その映画そのものイデオロギーでもなく、ゴダールの映画手法でもなく、「赤」そのもの(色としての単なる、しかも徹底した「赤」)である。同じゴダールの作品『軽蔑』に登場する「マラパルテ邸」からインスピレーションを受けて設計された鈴木了ニ氏の「麻布EDGE」。建設されてから20年以上は経過しているが、その存在感は今でも胸に迫ってくるものがある。しかしこの「麻布EDGE」を「マラパルテ邸」や「ゴダール」に結びつける者はあまりいないだろう。なぜならこれら2つに共通するのは「階段」という、建築の構成要素の当たり前の形式だからだ。この「マラパルテ邸」と「麻布EDGE」には「中国女―赤」のような直線的な関係はほとんど存在しない。「マラパルテ邸」の「中国女」との違いは、「麻布EDGE」に存在する「階段」の造形表現としての直線的な意味の中のほんの些細な違い、「マラパルテ邸」は屋上へ、「麻布EDGE」は階段そのものへ、という目的の違いにすぎないのかもしれないが、それよりも「階段」といういわばシニフィアンーシニフィエの枠組みではなく「非シニフィアン」としての関係といえる。つまり鈴木氏がたとえ作品について様々なエクリチュールを駆使したとしても、いわば言葉を超えた「モノ」そのものに内在する力が独り歩きし、例えば「階段」という建築言語の周縁を他の造形要素が浮遊し、言語的な意味作用で生み出されるもの以上のダイナミックなダイアグラムが構成される。(これは他の分野、例えば音楽的エクリチュールにも当てはまる。)そして「中国女―赤」的枠組みにならないことの重要な意識は、「移し方」の意識の問題に集約される。それは二つの因子から成る。一つは「想像力」(「創造」ではない)、もう一つは「メタファー」の捉え方、である。これら二つの概念を助けるテキストを、各々とりあげてみたい。
「想像力」について、ガストン・バシュラールの『空と夢』(法政大学出版局、宇佐美英治訳)。
『・・・人々は想像力とはイメージを形成する能力だとしている。ところが想像力とはむしろ知覚によって提供されたイメージを歪曲する能力であり、それはわけても基本的イメージからわれわれを解放し、イメージを変える能力なのだ。イメージの変化、イメージの思いがけない結合がなければ、想像力はなく、想像するという行動はない。もしも眼前にある或るイメージがそこにないイメージを考えさせなければ、もしもきっかけとなる或るイメージが逃れてゆく夥しいイメージを、イメージの爆発を決定しなければ、想像力はない。知覚があり、或る知覚の追憶、慣れ親しんだ記憶、色彩や形体の習慣がある。』
「メタファー」について、手塚富雄の著述(著作集〈1〉『ヘルダーリン』より)
『ここで『詩的精神のとるべき方法について』(ヘルダーリンの著作)の中で述べられた「根拠づけ」と「メタファー」の二つの概念を思い出していただきたい。これは詩的精神と詩作品の素材との関係についての思想である。つまり素材は現実の生からもぎとられた孤立したもので、それだけでは生の大きい連関の外にあり、それをそのまま模写したところで、芸術的には何の意味もない。その孤立したものを詩的精神はひとつの全一的なものに変換することによってそれを大いなる生命に帰属させなければならない。それが彼のいう「根拠づけ」であった。ヘルダーリンの用語ではないが、芸術における象徴とは大体これと同じことになろう。そしてヘルダーリンはこの根拠づけをおこなう表現形式を「メタファー」と名づけたのであった。通常修辞的術語として「隠喩」と訳されるが、原義は「移す」ということで、上述したような根拠を素材による表現に移すのである。それによって素材は「根拠」の表現にあずかることになり、同等に「根拠」もこのことによって初めて感知されて「音調の転移」と結んでくるのであって、音調の転移によって詩において生の対立的調和が実現されることが言語がメタファーとなることと一致するというのが、ヘルダーリンの考えの基本である』
以上の二つの長い引用で、いずれにも共通するのは、想像、あるいはメタファーとは、素材をそのまま模写することではなく、それを「歪曲」する能力、「イメージを変える」能力、孤立した素材を変換すること、である。「麻布EDGE」における鈴木氏の「想像」行為は、「階段」という素材を建築的エクリチュールに変換し、イメージを単線的な「生なきもの」にとどめるのではなく、その周縁の素材と建築的な具体的な素材「マテリアル」と結びつき、氏のいう「物質試行」を最もよく体現したものとして今も力強く現前する。素材の徴収のきっかけは単純かもしれない。純粋な感動や刺激といった、いわば「軽い」根拠から、それを大きな広がりを生む「重い」成果へ変換させるのは、建築的エクリチュールに終始しては達成できず、そこには肉体的鍛錬も加わりながら、「移す」作業にどれだけ肉薄できるか、ということになろう。

TEXT 「フォークナーとの対話」-1

stranger -客、他人、よそ者、見知らぬひと、また「未知の人への幾分不躾な呼びかけ」(研究社『現代英和辞典』)- またforeigner – 外国人- どちらもその土地の者にとってはよそ者である。しかしこの二つの語のニュアンスは異なるが、strangerは、一つはよそから来たひと、他に自国をもつ者。そして一つは出自が不明な者。-「生まれた土地」と「親が不明」- の二重の会に登場するひと。親が不明 -これは親という概念の欠損、そして血の欠損 - のどちらか(あるいは両方)意味する。
 孤児院で成長したジョー・クリスマス。彼は中年の独身女バーデンの家に住みつくが(バーデンは自分の祖父と兄が黒人投票権の問題から南部軍の軍人だったサートリスに殺された)、そこでの会話。
クリスマス:『なぜあんたの親父はあの男を ― 何という名だっけ?サートリスだ- なぜあの男を殺さなかったのか、ということさ』
バーデン:『そのことをあたしも考えたわ。なぜ父がサートリスを殺さなかったか、ということをね。それは父のフランスの血筋のせいだったとあたし思うの』
クリスマス:『自分の親父と息子を同じ日に殺されてもフランス人は怒らないのか?あんたの親父は宗教を持ってたんだと思うな。まあ、説教師くずれ、といったふうなものさ』
バーデン:『あのときは何もかも終わってたのよ。軍服と軍旗を持ってする人殺し、軍服と軍旗を持たずにする人殺しもね。そしてそんなことでは何ひとつ善くならなかったし、いまもそうよ。何ひとつよ。それにあたしたちは他国者、ここの人たちとは違った考え方をもつよそ者で、それが頼まれも願われもしなかったのにこの国にやってきたのよ。それに彼はフランス人だった。半分はね。でも半分はフランス人だったので、人が自分の生まれた土地に対して持つ愛情を尊敬したのよ。人は自分の生まれた土地によって鍛えられたように行動するものだということを理解したのよ。そのせいだったとあたし思うわ』
リーナ・グローブとジョー・クリスマスの二つの物語を核とした、W.フォークナーの『八月の光』(引用文は中略)(新潮文庫、加島祥造訳)の一場面である。フォークナーの研究者 林文代氏が自著『迷宮としてのテクスト』で「『アブサロム、アブサロム!』を読まないという〈誤り〉を犯す人は幸せである。あるいは読んでしまっても面白かったとか面白くなかったと簡単に割り切れる人も幸せである。」と書いているが、確かにフォークナーの作品は一連のヨクナパトーファ郡を舞台としたものとそうでないもの、そのテクストは「迷宮」と形容しても異論はないが、フォークナーの魅力は、その「迷宮としてのテクスト」としてのフォークナーよりむしろ私は「アフォリズムの作家」としてのフォークナーに惹かれる。フォークナーの評論で彼を「アフォリズムの作家」と位置づけしているものを目にしたことはない。しかし私はそうであると認識する。フォークナーの作品を何度読み返しても、毎回新しい発見がある。それは「迷宮」の解ではなく、「言葉」である。私のそのときそのときの背景を照らすそれらのエクリチュールは、ナラティブを失い、単独で語りかけてくる。これはニーチェの『ツァラトゥストラ』と同じ読書体験である。上にあげたクリスマスとバーデンの会話は、「どこの国が何をするか、あるいはしないか」に結びつくのではない。strangerのもつ不安と、目の前に見えぬ自国、出身、出自―に対する一方的な契約と、そして決して道徳上の理由からではない、むしろ「見られている」ことへの恥の感覚、それらが混合したstrangerとstrangerの、一つの表象である。それを各自の中の出自経験の呼び覚ましとして、直感として捉えたときに、その会話は物語から切り放され、自身の問題へと変容する。 – 繰り返すがフォークナーは「アフォリズムの作家」である、と。