TEXT 「フォークナーとの対話」-2

Strangerと親しいバイロン。クリスマスと同様よそ者ゲイル・ハイタワーは、牧師職を追われジェファソンに来た。失った祖父、妻の過去の妄執を抱え、バイロンと出会い、「普通」の「存在感のない」バイロンに刺激を受ける。バイロンのような人物から何を得ることができるのか。バイロンの心の中の一つ
『人間というものは現に持っている面倒な問題には耐えられても、これからぶつかる問題には恐怖を感じるものなんだ。だから慣れた面倒ごとにすがりついて、新しい面倒ごとに入ってゆこうとしないんだ』。
『人間というものは』から始まる類似した言葉は随所に登場する。高い教養を身につけたわけでもないバイロンから発せられる言葉から、彼の人間に対する深い洞察力を読み取ることができる。一方ハイタワーも同じように『人間というものは』の心の内の一つ。
『いろんなことが起こるからだ。手に負えぬほどたくさんにな、そうなのだ。人間というものは自分が耐えうる以上のたくさんのことをやったり、やろうとしたりする。そうして自分が案外に耐えられるものだと知る、それが恐ろしいところだ』。
これらバイロンとハイタワーの『人間というものは』は、フォークナーの『八月の光』(引用は新潮文庫、加島祥造訳)の一節であり、文脈の中で様々な解釈が得られる。しかし一節だけを切り取っても大変含蓄のある言葉として胸に迫ってくる。これらの言葉から読み取れることは「言葉」そのものの意味と、それを発する彼らという人物は何者か、ということである。例えばドストエフスキーの『死の家の記録』の中の一節『・・・それにしても、人間は生きられるものだ!人間はどんなことにでも慣れられる存在だ。わたしはこれが人間のもっとも適切な定義だと思う』。(新潮文庫、工藤精一郎訳)から獲得する「人間の定義」と手記の書き手「わたし」の人間像のように。そしてその「人間の定義」の要素として重要なものが「耐え」や「慣れ」ということであること。言葉の意味としては、バイロンの『今の問題には耐えられる』ということは、それがつまり慣れてしまっていて、苦しみから逃れたり、あるいは乗り越えるということよりも、今よりもっと大きな苦しみに直面しないように苦しみに慣れるということを選択する。ハイタワーは、人間は苦しみや困難に案外耐えられるということを悟る。それも慣れの一種で、その慣れがなし崩し的に増幅していってもやはり耐えられると更に悟る。ドストエフスキーは自身のシベリア流刑と死刑判決の経験から体得した重い言葉として一層説得力をもつ。そしてドストエフスキーは「人間の定義」とまで言い切る。
 ではあらためてバイロンとハイタワーの人物像を考えてみると、繰り返しになるがバイロンは「普通」の「存在感のない」人物であり、ハイタワーも牧師職を追われた身である。二人の言葉に特別耳を傾ける者などいないと言っていいような存在といえる。しかしこのような人物からでも時折胸に響く言葉を発せられることがあるということを経験することは、おそらく時代と地域を超えてありうるだろうし、現実に遭遇することもある。漱石の『明暗』の中に、登場人物の小林が津田に語りかける有名な一節がある。
『露西亜の小説、ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってる筈だ。如何に人間が下賤であろうとも、又如何に無教養であろうとも、時としてその人の口から、涙がこぼれる程有難い、そうして少しも取り繕わない、至純至精の感情が、泉のように流れ出して来る事を誰でも知ってる筈だ。君はあれを虚偽と思うか』(原文のまま)
これに対し津田はドストエフスキーを読んだことがないから分からないと答え、更に小林は彼らの先生のドストエフスキーに対する穿った解釈に対して涙を流して悔しがる。主人公ではない小林はこの小説の中では少し問題のある人物として様々なシーンで絡んでくるが、そのような人物からこのような言葉を発せられても、普通は見過ごしてしまいそうだ。しかしこれに目を留めることで彼に対する一元的な見方も変わるともいえる。日常の人間関係の中で、あるいは初対面から抱き続けた他者に対する一方的な、予断をもった見方は、「言葉」のもつ力をきっかけに正反対の方向に向くこともありうる。バイロンとハイタワーの言葉はフォークナーが彼らに言わせたのではなく、彼らの言葉として胸に迫ってくる。