「失われた世代(Lost Generation)」 現代の日本でも時折使用される言葉だが、本来この言葉はヘミングウェイの『日はまた昇る』のエピグラフ(ガートルード・スタインの表現の引用)をきっかけに1920年代のアメリカで使われるようになった言葉だ。「失われた世代」とは第一次世界大戦によって深い絶望感を抱え、伝統的な理念、価値観に幻滅した世代の典型を指す。フォークナーも代表的な「失われた世代」の作家といわれる。
サートリス一族、コンプソン一族、サトペン一族、スノープス一族・・・
これらの一族はフォークナーのヨクナパトーファ郡シリーズに登場する重要な一族の名であるが、そのシリーズの最初の作品『サートリス』で、サートリス一族は大佐の世代から能力や貪欲さが低下した子孫たちの世代の衰退と転落の一つの指標として描写され、更にコンプソンに至っては入植以来アルコール中毒、夫人の神経衰弱、クウェンティンの自殺等々、失われた過去の南部の貴族的社会への郷愁を抱きながら一家が崩壊していく様が描かれる。これらいわば「失われた」一族が作品で描かれていく中で、スノープスだけは違う。スノープスは既に『サートリス』で登場し、作品の中で彼を次のように紹介されている(白水社刊、林信行訳)。
『このスノゥプスというのは最近十年ほどのあいだにフレンチマン・ベンドという小さな部落から少数ずつ町に移動してきている。まるで無際限の数をもっているとでも思わせる一族の中の若者であった。最初のスノゥプスのフレムが、ある日何の前ぶれもなく裏通りにある田舎の人々の経営している小さな飲食店の帳場に姿をあらわした。そしてそこを足場としてまるで大昔のアブラノームのように、彼はその親類縁者どもを一人ずつ町のなかに入れ、なんとか食っていけるようにさせた。フレム自身はやがて町の水力発電所の支配人となり、ついでそれからの数年間はいわば市制の雑用をする人間となっていた。そして三年前に老ベイヤードの驚きと当惑とをしりめにサートリス銀行の副頭取になり、しかもすでに彼の血縁の一人がそこの帳簿係になっていた。』(原文まま)
また、『響きと怒り』でも、I.O.スノープスが登場し、そしてスノープス三部作『村』『町』『館』でスノープス一族を中心に物語が展開する。特に最初のスノープスであるフレムは「なりふりかまわず」「抜け目のない」成り上がりとして、荒廃する他の一族を尻目に様々なことを利用し、相手の弱みにつけ込み、貸しを作り、たくましく成長し一族は増殖する。これは一種のフォークナー的教養小説といえなくもない。しかし『魔の山』や『ジャン・クリストフ』のような一人の人物の物語ではなく、むしろドストエフスキーの『未成年』に近いイメージがあるが、ドストエフスキー的ポリフォニーはむしろスノープスにあるといってよい。他の作品にも一族が頻繁に登場するのだ。スノープス三部作にはアフォリズムはほとんどないといってよい。が、フレムの抜け目のない人生に、そのたくましさに、一種の尊敬すら抱くこともある。スノープスはフォークナーが嫌っていた一族だといわれるが、本当に嫌いなものをはたして三部作まで書くことができるだろうか。
『館』の中でミンクがフレムについて言う(冨山房刊、高橋正雄訳)。
『あのフレム・スノープスのやつは。だれだってあいつだけは打ち負かすことができねえ。フレム・スノープスを打ち負かせるやつは、ミシシッピにも合衆国全体にも、一人もいやあしねえとも』
『館』では既に第二次大戦が登場する時代まで進み、世界情勢の変化の始まりの期に強いアメリカの中にあって国もフレムを打ち負かせないと言い放ったフォークナーは、ミンクの口を借りて一見この無教養で厚顔無恥のようなフレムを国を超えた大きな勢いシンボルとして表現しようとしたとも読み取れる。