『八月の光』(新潮社刊、加島祥造訳)
この物語の中心人物クリスマスは、彼が働く製材所に突然あらわれ働き出したブラウンと、中年女性のミス・バーデンの家の小屋に一緒に住むことになる。ある日の眠れないクリスマスの回想の中の情景描写。
「八月の草は股の高さほどだった。草や茎の上には、このひと月に通った馬車の埃が積っていた。道路は彼の前にのびていた。それは樹々や大地の暗さよりやや薄白かった。その一つの方向に町があった。反対方向への道路は丘をのぼってゆく。しばらくすると丘のむこうから光(ライト)が生れ、丘を浮きださせた。やがて彼は自動車の音を聞くことができた。彼は動かなかった。裸のまま尻に両手をあて、股まである埃っぽい雑草の中に立っていて、その間に自動車は丘を越えて近づいてきて前照燈(ライト)をまともに彼へ向けた。彼は自分の裸身が闇の中で、まるで現像液からフィルムの像が出てくるように白く浮きだすのを見まもった」。
この一節に小説のタイトルの「八月」という具体的な日付と「光(ライト)」という語が登場する。この小説の主題は何か、ということが様々なテクストで論じられてきた。一般的には「クリスマス=キリスト」説が人気(訳者の解説による)のようだが、フォークナー自身は「リーナ・グローヴの物語」と答えている。しかし一方でフォークナーはクリスマスの「自分が何者か分からぬ悲劇的な運命」について語っているように、私はやはりこの物語は出自が不明で生後自分を疑い続けてきた者の不安を描いたものだと感じる。引用したクリスマスの回想の情景は、この物語全体を覆う不安定な人間心理を、光と影のコントラストになぞらえ描写され、単なるクリスマス個人の回想としてではなく、最も印象に残る情景として胸に刻み込まれる。このように文中の一節が物語全体を象徴する情景として描かれていると感じる他の作品が、『野性の棕櫚』である。
「・・・いまや部屋の中は平静をとりもどし、激しい怒りは消え去っていたからである。いまやウィルボーンには、台所のストーヴを前にした灰色の妻がたてる物音が聞こえ、またしても、笑いだしそうな、あざけるような、絶え間ない、無愛想な黒い風の音が聞こえたが、彼にはそれにまじって、棕櫚のぶつかり合う荒々しい、乾いたような音まで聞こえたような気がした。・・・」『野性の棕櫚』(冨山房刊、井上謙治訳)
棕櫚(ヤシの木)の乾いた音が、効果的に二人の主人公の行く末を暗示している描写である。
『八月の光』では、「クリスマス」という名について、製材所の人間たちが交わす会話に興味深い一節がある。
バイロンの思考
「やつの名は何だって?」ひとりが言った。
「クリスマス」
「外国人なのか?」
「白人でクリスマスなんて名のついたの、聞いたことあるか?」と職工長は言った。
「まずそんな名前の人間は聞いたことねえなあ」と別の者が言った。
このときはじめてバイロンは自分がこう思いついたことを覚えている・・・名前というものはただ人間を区別するための記号にすぎないはずなのだが、場合によると名前が当人の未来の行動を暗示するものとなり、いつかは『やっぱりそうだった』と人々にうなずかれるようなことにもなるんだ・・・と。実際のところ、バイロンの目に映ったかぎりでは、皆はその名前を聞くまでこの見知らぬ男に特別の目を向けたりしなかった。ところがその名を聞くやいなや、まるでその名前の響きには彼らの想像を刺激するような何かがある、といった様子をみせた・・・この男はどこへゆくにもその逃れえぬ名前で恐ろしい警告を発する人間であって、いわば花なら匂い、ガラガラ蛇ならその尾の音と同じように、その名がこの男の本体を表す、と皆は直感したようなのだ。ただし誰もその警告の意味をはっきりとつかむ能力はなかった。・・・
前述したようにクリスマスがこの物語の中心と考える他の理由がここにある。読後いつも心に残ることは「クリスマス」という名をもつ男の風貌と悲劇的な結末である。それはリーナ・グローヴの印象より強い。フォークナー自身が言うように「自分が何者か分からぬ者の悲劇」が、バイロンの言葉で、別のかたちで表現されているように考えられる。
私たちは皆それぞれ名前をもっている。その名がその人物にふさわしいか否かに関わらず、何かその人物そのものをあらわしているような、その人物そのものであるような感覚を抱く。文中にあるようにそれは単なる「記号」ではなく、また「シニフィアン-シニフィエの関係」などでもなく、単に「名」というもののもつ現前とした力であると思う。