建築における「脱構築」との最初の出会いは、80年代中ごろバーナード・チュミの「ラ・ヴィレット公園(コンペ案のドローイング)」であったように記憶する。彼と同時代で今では巨匠といわれるダニエル・リベスキンド、ザハ・ハディド、あるいはそれより少し前から活躍していたアイゼンマンやゲーリィなどは当時いわゆるデ・コンストラクションの建築家と呼ばれた。まだ若い学生の感性を刺激するには充分な存在であった彼らのドローイングを含め新しい表現は、それが実現可能か、あるいは実作かによらず視覚に強く訴えかけ、建築としてよりはむしろアート感覚で素直な感動を呼び起こすという点で、ある意味で分かりやすさもあったといえる。一方で彼らのテクストは難解で、それらが彼ら自身の建築の具体性とどう関係するのかしないのか当時は理解できなかった。しかしあれから10年、20年と経てあらためて彼らのテクストを読み返してみて、例えば「A+U」のチュミの特集号の文章はある程度理解できても、その後90年代に入ってから出版された『建築と断絶』(鹿島出版会刊)、あるいは同じく「A+U」のリベスキンドのユダヤ博物館の特集の巻のテクストなどはやはりそれをはっきりと理解できたというにはどれだけの知識が必要か計りしれない。リベスキンドは今世紀に入ってから出版されたドキュメントタッチというか自伝的といっていいか『ブレイキング・グラウンド』(筑摩書房刊)という書物があるが、これは論理の展開ではないせいか分かりやすい(内容は彼の一方的な立場で書かれたものであるため、本に登場する他の建築家の思想や行動については別の見方ができるだろうことは想像できる)。ともかく彼らの言説は建築の優れた表象とは切り離されて考えられなければ、テクストの難解さも建築と同じレベルで評価してしまう危険性を孕む。
ヴィトゲンシュタインの『哲学的考察』に以下のような文章がある。
何故哲学がかくも複雑で錯綜しているのか。哲学は完全に単純でなければならないはずなのに、哲学は愚かにも我々が巻き込まれた思考のもつれを解きほぐすのであるが、しかしこのためにはそのもつれと同じだけの複雑で錯綜した運動を行わねばならない。従って哲学の結果が単純であるにせよ、結果に至る方法は単純ではありえない。哲学が複雑で錯綜しているのは、その素材が複雑で錯綜しているからではなく、我々のもつれてしまった悟性が複雑で錯綜しているからである(『ヴィトゲンシュタイン全集〈2〉』より)。
この文自体が難しいということもあるかもしれないが、ヴィトゲンシュタインの主張は「建築」というかたちでも体現されている。20世紀初頭、姉の住宅の設計においてヴィトゲンシュタインは非常な関心を示し、実際に設計した建築家パウル・エンゲルマンの言葉によれば「私は、完成した家を、私のではなく彼の仕事であるとみなします」と言わせるほど深い関わりを持った。エンゲルマンはアドルフ・ロースの弟子であり、完成した家もロースの影響を感じないこともないが、その装飾を除した幾何学的で厳格な構成は、他の同時代の例でいうとテラーニの『カサ・デル・ファッショ』を思い起こさせる。かなり前に雑誌SDの連載(確か海外建築リミックスだったと思うが)で、この「ヴィトゲンシュタインの家」について、記憶違いがもしれないが「透明性」的な言葉をキーワードに評していた。これはロウの「Transparency透明性」のことではなく、あえて言えば「障害がない」とでもいうか、思考の過程で余計な障害を生じさせない操作とでも言った方が正しいだろうか。例えば、窓という建築要素はその部屋の性格によって大きさや開き勝手、あるいは位置などが決まるか、外観のバランスから決めたりすることがあるが、ヴィトゲンシュタインの家では、例えば一般の窓と外に出るいわゆるはきだし窓が基本的に同じデザインであったり、内部のドアも部屋の性格とは関係なく、壁の比率から基本の寸法が決まり、ほとんどが同じサイズになっている。それは人間工学的寸法を無視したものもあり、ドアの高さが人の背の倍くらいのものになっている。要するに雑誌SDの評では、例えば外から中へ移動する際に、ドアの形、サイズなどが同じであることから、そこに「ドア」という概念に余計な思考を介在させないこと、それがこの家では最も重要なことであったのではないか、いうことである。さらにそれはヴィトゲンシュタインの生い立ち、家族関係などの「不幸」を原因に挙げて論じていた。つまり余計な思考の介在はさらに「不幸」をもたらすというのだ。
ヴィトゲンシュタインの生い立ち等はともかく、ヴィトゲンシュタインの「哲学の複雑さ」から特に現代社会の思考過程の単純さと表象の複雑さは、最初に述べた30年近く前の「脱構築」建築とテクストを思い起こさせる。しかし建築は進化し、現代はその思考過程は「複雑」というより、より科学的で複合的になり、むしろ表現されたものはシンプルなものが目を惹くようになったように思う。しかしシンプル一方では、より多様になった現代の思考をうまく体現していないようにも思える。
※参考:『ヴィトゲンシュタインの建築』(青土社刊、B.レイトナー著、磯崎新訳)