「時代は繰り返す」とか「いつの時代も変わらない」などといわれる。
フォークナーの短編に『クマツヅラの匂い』という作品がある。短篇とはいえ広がりを感じるのはそれがサートリス家の一挿話だからだろうか。『フォークナー短篇集』(新潮文庫刊、龍口直太郎訳)の解説で訳者が書いているように、「父親ジョン・サートリス大佐の復讐を息子のベイヤードがどのように考えるか」ということがこの作品の眼目だが、19世紀のアメリカ南部では当然「眼には眼を」が正義であることころをベイヤードはそうは考えなかった。父親の若い妻ドルーシラは息子にその「南部の正義」を期待していたが、ベイヤードはそれに応えることはなかった。それはフォークナー自身の考えであるのか、「耐え忍び、一見卑怯者と思われる道を選ぶのが真の勇気」(解説より抜粋)というのが新しい時代の正義と考えるのか。
ベイヤードとドルーシラの会話で、その時代の「夢」についてドルーシラが語る場面がある。
「夢なんて身近かにもってると、あんまり安全なもんじゃないわね、ベイヤードさん。あたしよく知ってるわ。あたしにも、昔は夢があったんですもの。夢なんて、毛筋の引金がついた、弾丸をこめたピストルみたいなもんね。いつまでも消えない夢だったら、そのおかげでだれかがきっと怪我をするわ。だけど、それがいい夢だったら、そりゃあ、それだけの値打があるのよ。この世の中には、夢ってものはあんまりたくさんはないけど、人間の生命の数は多いわね。そして、一人の人間の生命も、二ダースの人間の生命も・・・」
ドルーシラは夫ジョンもかつては夢があったことをベイヤードに語るが、それが結局は身を滅ぼす結果となったことから『夢なんて・・・、だれかがきっと怪我をする・・・』などと実感を込めて話す。
一方ベイヤードは、ドルーシラの話をどう受け止めたか、結局新しい時代、つまり父親の次の世代のいわば衰退した、夢のない時代に、「眼には眼を」の正義は通用しない、あるいはその「気力」がない、という態度をとることになる。
このようなベイヤードの態度は先述したように当時では「一見卑怯者」ととられがちだが、現代の視点に立つと、「南部の正義」は実は20世紀も、今世紀も世界各地で起きているのが分かる。ベイヤードの立場は「赦し」とはニュアンスが違うかもしれないが、少なくとも具体的な力の行動には出ない。だからといって言葉によって解決する術も身につけていなかったが、もしこの時代にフォークナーが現代に通じるような「交渉術」的なものを書いたとしたら、それは受け入れられなかっただろう。その時代の枠組みというものがあるからだ。しかし現代から過去に遡って、粘り強い交渉と赦しで時代を拓いた人物は多くいる。
現代は「夢なんて身近にもってると、安全ではない」時代ではない。が、「夢をもてない」ではなく「もたない」現象もあるように思う。それは今の時代に限ったことではないが、ドルーシラの言葉は、19世紀の南部の小さな町での一人の人物の会話として、フィクションとはいえ現代社会の一つの一断面を表象し、またベイヤードの態度も不幸な社会の一つの救いの道のヒントとなるような感覚を覚える。