『僕は今日大きな願望を抱いた。書くことによって僕の不安な状態を完全に僕の外へ引き出し、それが深みから生まれ来るように、紙の深みに書き込みたい、あるいは、書かれたものを丸ごと僕の中に取り込めるように、それを書き記したい、という願望を』(カフカ 1911年12月8日、日記)
M.ブランショによるカフカ論集『カフカからカフカへ』(書肆心水刊)が最近発行され、それに伴い改めて『カフカ全集』(新潮社版)を通読した。この全集はM.ブロート編集版で、ブロートに対するこれまでの文献上の批判の多さ以上に貢献が大きい。彼がカフカとの約束を破らなければ文学史の大きな損失となっていたことだろう。彼の行為自体(編纂と出版)がひとつの創作行為といえるのではないだろうか。M.ブロートは、集英社版『世界文学大事典』によると『ユダヤ系のドイツ語作家。プラハに生まれ育ち、この街の文学的雰囲気にひたりながら分筆活動にいそしみ、文明批評的な小説や論文を数々ものしたが、亜流的な凡庸さが印象を希薄にしているのは否みがたい。ただ生涯の友人だったカフカのために終始献身的に尽力し、その死後、遺志に逆らってまで残された彼の作品を編纂刊行したことによって、たとえ編纂方法に文献批判上の難点があるにせよ、20世紀文学に無比の貢献を果たし得た。(川村二郎)』と簡単に記されているが、彼はカフカの友人である以前に作家であり、カフカとの共著として『『リヒァルトとザームエル』の第一章に寄せて』(『カフカ全集』〈1〉という作品も残している。
ブロートはカフカをいわば第一ヴァイオリンとした第二ヴァイオリンと考えられないか。第一と第二は主に対する従の関係ではなく、同位あるいは第二こそ「全体」にとって重要な役割を果たすということもいえる。他の例でいうとマルクス-エンゲルス、フロイト-ユング、ドゥルーズ-ガタリの関係があてはまる。特にガタリは大抵ドゥルーズとセットでとりあげられることが多いが、『アンチ・オイディプス』は、二人の評伝や草稿などを読むと機械論など主要なキーワードの多くはガタリによるものが多い(『ドゥルーズとガタリ 交差的評伝』河出書房新社刊、『アンチ・オイディプス草稿』みすず書房刊より)。二者の関係は主従関係を越えたものと考える。これらの例と同じようにカフカ-ブロートの関係を捉えることもできると考える。しかしドゥルーズ-ガタリは共に生前も死後も生き続けたが、ブロートは生前に生き、カフカは死後再生した。つまりブロートの行為がなければカフカはブロートと同じくらいのプロフィールの記述で済まされただけで、死後「生き」続けことはなかったのではないだろうか。
一般的に二者の関係ではどちらかを主でどちらかを従としたがる傾向があるように思われる。また二者間ではなく、三者あるいは多数間では、それがピラミッドを形成する。モノが生れ世に現れるまでの過程では、モノが複雑であればあるほど中心となる関係がいくつも存在するが、大事なことは各々の小関係の中で能力を互いに最高に発揮し、更に他の関係との止揚をはかることであることは言うまでもないだろう。そこで初めて「生きたモノ」となるはずだ。
「本HPテキスト-2」でカフカの言葉(日記)を取り上げたように、カフカのエクリチュールに対する拘泥は、日曜作家か職業作家かによらず、その人物の中の生きることの一つの必然と結びついているかどうか、ということにつながるのではなか。