TEXT  新しい都市像

ここに都市に関する二つの主張がある。一つは都市の概念について、もう一つは都市計画の主体についてである。
前者の都市の概念についてのポイントは二つある。
一つは『各個人の居住とか、工場の生産とか、そういう各単位の積み重ねの総和が、たまたま異常に厖大になったというような、いわば帰納的な都市』、もう一つは『新しい都市概念からの演繹的都市』である。そしてこの二つの都市の概念をどのように弁証法的に捉えるかが重要だと説いている。
一方、後者の都市計画の主体について。
『建築家の責任はどこにあるか。実際の形あるものを作り上げること、国民の生活の最終の形態を作り上げることにある。建築というのはどうみたって生産財でもないし流通財でもない。消費以外の何ものでもない。だから最終的には市民の側に立つべきである。しかし実際には市民側から都市に対する発言はほとんどなされていない。市民はバラバラになって皮膚感覚というか、本当に刹那的な感覚によって動かされている。現在の都市計画を進めていっている一番大きなモメントは何と言っても経済界の要請だ。実際には建築家の責任は市民の、国民の生活をよくしていってやらなければならないということだ。しかしそういったって現実的な力がない。そこで市民の間に都市への夢を盛り上げることを願いながらやむを得ず建築家たちがいろいろなイメージを描き出しているというのが現状だ』。

上述いずれも1961年1月1日の日付で『新しい都市像を求めて』と題された座談会(新潮社刊『安部公房全集〈15〉』より)で発言されたもので、出席者は安部公房、川添登、菊竹清訓、田辺員人、丹下健三の五人。都市の概念については安部公房、もう一つの都市計画の主体については川添登のものである。
安部公房の「都市概念」は、都市の生成を始まりと終わり、部分と全体の演繹と帰納の関係で捉えている。都市の「理想」と「現実」の二面性を挙げている。身近な例に引きよせて考えると、いま我々が属するこの都市は、都市計画区域内で定められた用途の制限がある。住宅地、商業地、工業地、さらにそれら各々を細分化した中で細かく制限がされているが、「それらは現状がそうだから、住宅がたくさんあるから住宅地に」といった発想、ではなくたてまえは都市の将来像から決めた区画における制限である。実際はその制限内でも様々な用途が混在するわけで、例えば住宅地にも店舗や事務所も存在する。商業地にも一軒家の建築は可能だ。前述した「理想と現実」という意味は、「将来の理想はこうだが、いま現実はこうである」といった感覚でいつまでたっても描いた理想に到達しないということを含む。これは上述の座談会の時代から半世紀以上経てもいえることである。どの時代も都市の中にいてなにかしっくりこない、違和感を覚える。安部公房はこの感覚をおそらく肌で感じていたのではないだろうか。彼の独特のアングルと視点で撮影した写真作品がそれを語っているように思える。
一方川添登の主張は建築家の立場の根本を思惟するに値する重要な指摘だ。彼は都市計画のモメントが経済界からの要請であることと、建築家がすべき仕事、役割を指摘しつつも限界とジレンマを示唆している。都市に点在する建物、小さな住宅一軒一軒にも顔があり、その都市のファサードを形成する。建築家はそういった視点で都市に対する責任をもち仕事にあたることが大切であることはいうまでもないだろう。