TEXT 「ディテールと身体表象」-2

 死後も「生き続ける」建築家はそう多くはない。ましてや百年経ても尚建設途中のものなどあまり知らない。
「アントニオ・ガウディ」という名から連想するイメージは人によって様々である。建築デザインに携わる者の中でも「受け入れられない」「大嫌いだ」などと言う者も少なくない。
 私は大学時代、入江正之先生の研究室でスペイン近代建築を学んだ。19世紀末のモデルニスモの時代の多くの建築家たちは、スペイン、カタロニアという土着性と鉄・ガラス・コンクリートに代表される新素材・技術との融合を模索し、世界にも発信しようと努力した。ガウディも例外ではないが、ガウディはとりわけ世界的にも、そのデザインの(悪く言えば)奇抜さが際立ち、曲解され、それがまだ現在でも尾を引いていないともいえない。

 私が十年くらい前か、バルセロナを訪れた際に受けた印象はまず、ガウディの建築は何の違和感もなく街並みになじんでいるということである。それは、例えばパリにおけるポンピドゥー・センターとは「なじむ」という意味が異なる。ガウディの建築はバルセロナ、カタロニアそのものであり、地中からあるべき姿として掘り起こされたもののような感覚である。ガウディと同時代の建築家ルイス・ドメーネック設計の『サン・パヴロ病院』の夢のようなデザインを背に、ガウディ通りに歩を進めると、次第に視線が上に上がってくる。『サグラダ・ファミリア大聖堂』が迫ってくるのだ。それは都市計画のなかで重要な位置を占め、人々が自由に立ち入ることができる身近で神聖な場所となっている。
 私が抱くガウディの建築に対する感覚、「地中からあるべき姿として掘り起こされたもの」はどこから芽生えるのか。それは一つに、ガウディは「発見者」である、という認識である。

 以下に入江正之先生の著書『ガウディの言葉』(彰国社刊)から、ガウディの「発見者」としての解釈と創造に対するガウディの言葉を引用する。

 ガウディは地中海人の形態認識と視覚の卓越性について繰り返し語っている。「地中海においてはさまざまな事物の具象のヴィジョンが課せられる。このヴィジョンの中に真の芸術がやすらっている。私たちの造形力は感情と論理の均衡である」。曲線はカタロニアの「大地が偶然に作り出す形態」であったように、地中海人は節度ある光を通して、「具象のヴィジョン」を課せられるのである。ガウディが創造について、「創造は人間を通して絶え間なく働きかける。しかし、人間は創造しない。発見する」と述べているが、これらの言葉の中に共通する理解は、この「発見」に深くかかわっている。ガウディが創出する作品の外形を限定する曲線や源泉を、単純な模倣という意味において外的な対象としての自然の諸形象に結びつけることは他愛のないことである。彼は「創造」するのではなく、ましてや模倣するのではなく、「発見」するのである。この形態を、不可視のフォルムに根付けられた具象のヴィジョンを「発見する」ために、苦痛の感覚に裏付けられた感受性についての言葉のようなガウディ自身の創作の姿勢を貫く言葉が重く横たわっていると考えなくてはならない。
 ガウディの作品を形どる曲線や曲面について、ガウディの建築図面やオリジナル・スケッチから、またガウディの創造の言葉や創作の姿勢を貫く靴の感覚の言及からその源泉をたどってきた訳であるが、ガウディの外側の目に見える形態は力強く訴えかけるが、それらの奥にある目に見えない不可視のフォルムにこそ着目しなければならない。(入江正之編著『ガウディの言葉』彰国社刊より)

 私たちは建築のデザインを、創造する行為と思いがちであるし、あるいは創造もまた「模倣」からくるものであるということも考えることが多い。しかしデザイン過程において、「発見」という意識を持つことはあまりない。少なくとも私にはそのような境地に立てない。建築は、そこに存在することで、その土地の空間性を変える働きがある。私がガウディに抱く「地中からあるべき姿として掘り起こされたもの」という感覚を、設計過程の思考の傍らに常におきたいと考えている。