ビートルズの音楽は、ポップスのクラシックとしてというわけではなく半世紀にもわたって聴かれ続けられているということはすごいことである。ジョン・レノンもP.マッカートニーも優れたコンポーザーだが、それだけでなく歌詞と曲との密接な結び付きという点においても天才といわれる。われわれ英語圏の者でなくても心地よい響きで心に伝わってくる。しかし一方で歌詞の意味がよく分からないという曲も多いようだ。ポールもそうだが特にジョンの曲にはいくつか存在する。有名なものでは『I am the walrus(アイ・アム・ザ・ウォルラス)』という曲は、実際訳された歌詞を見てみると、確かに全体を通して何について言っているのか不明だ。イギリス本国でさえそう言われている。私も三十数年聴き続けているのにほとんど意味を考えたことなどない。他にも例えば『Lucy in the sky with diamonds』や『Come together』などもそれに該当する。しかしどれも一般に普通に今でも聴かれている。音楽でなく言葉のみの世界なら、例えば詩のカテゴリーとして評価されるのだろうが、音楽しかもポップスであるということに大きな意味があるように思う。つまり言語のもつ「音」とメロディーを融合させ、韻を踏んだり音符の数に合わせて文字数を決めるなど音楽特有の手法を用いている前提があった上で、一般に向けて聴きやすく歌いやすい工夫がされているからだ。ではそういった操作による単に言葉の持つ「音」のみに加担したものかといえばそうではないだろう。歌詞の意味そのものにも魅力と意味があるはずである。『I am the walrus』の歌詞を見てみると
I am he
As you are he
As you are me
And we are all together
(訳)僕は彼で
君は彼で
君は僕で
僕らはみんな一緒
内容は各人称の関係をひとつの単純な論理で形成させている構造だが、「僕」という存在は彼から見ると「彼」であり、「君」という存在は第三者的「彼」でもある。「僕」は「僕」以外の人間と全体を形成し、つまり「僕」は「君」にも「彼」にもなり、「君」にも「彼」にもならない。人間の存在の根源といったら大袈裟なのだが、単純な言葉で深いことを言っている。ジョン・レノンの意図は分からないが、彼は人間の深層の部分を直感的に表現することに長けているように思う。「僕」と「僕ではない者」もみな一緒である、つまりその一緒の前提を明確にせず、概念として二つの対立する存在を同時に現前せしめること。私は丸山圭三郎の「コードなき差異」の概念を思い浮かべる。
ソシュールによる言語記号とは「自らに外在する実体を指し示す表象ではなく、間主体・共同主観的網の目の産物に過ぎない」ものであり、「記号学」の解体を、「ラングの現象面と本質面の区別ということではなく、意識の表層におけるランガージュのありかたから深層意識におけるランガージュの活動への試み」としている(「」内は『現代思想を読む事典』(講談社刊)から)。意識の表層とではなく深層における「差異」の概念を、丸山氏は「コードなき差異」つまり「いまだコード化されていない差異」としている。コードとは信号の発信者と受信者の間で情報を表示し伝達するための体系のことを指すということで、このような体系を持たない概念のことを指している。多義的でシニフィアンとシニフィエの関係も曖昧な、人の深層意識で発生する概念は、われわれ普段実社会で理屈の中で理不尽さを感じながらも生きている者にはなかなかうまく処理できないが、例えば子供の世界では言葉遊びや意味不明の言葉や音を素直に受け入れる。丸山氏が自著の著作集Ⅳでとりあげている童謡『かごめかごめ』では
かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる
夜明けの晩に 鶴と亀が滑った
後ろの正面だあれ
「夜明け」と「晩」、「後ろ」と「正面」という互いに逆のものが同じ平面に同時に存在するような表現。「夜明けであり晩でもある」、「後ろであり正面でもある」ともとられる表現に対して子供はその理屈を考えたりしないだろう。丸山氏は、「一切の指向対象を生みだす以前の差異である」としている。
ビートルズに戻ると、『I am the walrus』に限らず、あまり歌詞の意味を意識しないで聴いている曲がほとんどだが、英語圏ではない者でも時代を超えて聴き続けられている秘密は、この言葉のもつ指向性のない、もっといえば普遍ともいえる開放性によるものもあるのではないかと考える。