TEXT 「像の此岸」-2

 武満徹・没後20年
立花隆による『武満徹・音楽創造への旅』という本が今年2月にでた。生前の武満へのインタビューをもとに立花が解説や武満や関連する人物の対談や著述などを織り交ぜ構成されたこの浩瀚な本からは、武満の立花に対する全幅の信頼感がうかがえる。それとともに生前の武満の肉声までもが聞こえてきそうな感覚に陥る。
 この本の中で、武満の『ノヴェンバー・ステップス』の誕生に大きな影響を及ぼしたものの一つとして、ジョン・ケージの存在が挙げられている。武満とケージの対談で、日本音楽について興味深いやりとりがある。

 武満:・・・もちろん僕は、ここで日本のものすべてがいいと言おうとしているんじゃないんです。
 ケージ:でも、とてもいいものを色々あることは事実ですからね。
 武満:もちろんそうです。僕たちにとって非常に意味のあるものが多い。特に日本人が持っている美的な観念というか、アイディアの中に『さわり』というものがあるんですが、これは何かというと、つまり一番美しいのはノイズだという発想に他ならないんです。
 『さわり』という言葉は実にいろんな意味を含んでいます。漢字で書けば『障』という字。プリベンション。ところが日本では、最も美しいもののことも『さわり』というわけですね。(中略)つまり障害が最も美しい。これはどういうことかというと、障害があるからこそ、自分たちは本当に自由になれるという発想なんですね。
 西洋の機能主義、近代化というものは、物事を最も便利なようにしてきたわけです。不便なものは捨ててきた。だからそれは非常に便利だから、どこへでも持ち運ぶことが出来るでも日本の伝統音楽の中にある・・・僕は必ずしも日本の伝統音楽のすべてをひいきしているわけじゃないけれど、しかし、そこには、どこに持っていくということのできないものがある。持っていくには『さわり』があるんですよ。
 楽器としてもそうです。日本の楽器には、すべて不自由な『さわり』の装置というか、障害装置がついている。音が出しにくいふうに作られているわけです。だから、もしその音がほんとに出た時には、その自由さはものすごく大きいわけです。
 そしてジョン・ケージの発明の中にも、やっぱり『さわり』がいっぱいあるんです。ケージが僕たちに与えてくれた一番素晴らしいものは、やっぱり新しい聴き方、それのほんとに無限な可能性というのを教えてくれたことだと僕は思うんだけど、その世界が、実はとても日本の音楽に近いものだという気がしてならないんですね。(立花隆著 『武満徹・音楽創造への旅(文芸春秋社刊)』)

 ジョン・ケージはプリペアド・ピアノや「四分三十三秒」などの「作品」で知られる前衛の音楽家だが、武満も彼に大きな影響を受けたとはいえ、決して彼のような音楽家にはならなかった。武満自身も上記の対談のようにケージに共感する部分がある一方で根本的に違うことも認識していた。すなわちケージは作品の構築をやめたのに対し、武満は自分の論理で音楽を構築しようとしてそれを実践したという根本的な違いがあった。前述の対談で触れられた日本の伝統音楽において、特に楽器は武満が指摘したように物理的な「さわり」があるということも実体験として後に触れられている。琵琶や尺八といった楽器は、奏者によってだけでなく、海を渡り、外国の地では特に響きが日本とは異なるという。また音質以前の話として、初めてのアメリカの公演を前に尺八が乾燥で割れてしまったということも述べられている。日本のような高温多湿な地との違いということも実感した。楽器の移動という単純な行為でも「さわり」が生じるということだ。初めてのアメリカ公演というのは、ニューヨーク・フィルの委嘱を受けた1967年のことである。

 ニューヨーク・フィルの125年周年の記念行事で作曲の委嘱を受けた作曲家で唯一の日本人として武満は、指揮の小澤征爾、琵琶と尺八の各々の奏者とともに1967年にニューヨークへ渡る。そのときのニューヨーク・フィルとの初日のエピソードがこの本の中で詳細に書かれているが、それを読むと武満の表現者として味わった、屈辱を慰藉するもののない孤独な存在が、彼の風貌とあいまって胸に迫るものがある。小澤はオーケストラの反応を心配していて、彼らが不謹慎な振る舞いに及び、武満に失礼なことをするのではないかと危惧していたという。そしてそれが現実となり、武満はショックを受け作曲料も何もいらないからキャンセルしたいと小澤に訴えかけたという。ニューヨークでの練習の初日に、二人の奏者(琵琶の鶴田と尺八の横山)が舞台に出てきたとき、団員たちが笑い転げて、中には舞台から飛び降りて客席の方まで転げまわっていったのがいて、武満はこんな不真面目な連中とやれるのかと思ったという。武満の訴えかけに小澤は、これはまだいいほうだ、かつて自分が指揮をする曲では団員全員がいなくなったということもあるから、と言って初日は練習なしで、二人の奏者による日本の伝統的な曲をやってもらったという。そうすると団員たちも音楽家であるから二人の素晴らしい演奏を感じ取り、『ブラボー』といってその後うまくいったということが書かれている。
 
 このエピソードから様々な思いを抱くだろう。半世紀前のこととはいえ、戦後20年は経過していてもやはり国と国の間に生じる根拠のない優位性の感覚は歴然と表れている。前述のケージとの対談で触れられたように、楽器だけでなく武満と二人の奏者(琵琶の鶴田と尺八の横山)が「さわり」となり、外国人の目に音楽家として素直に映し出されるには大きな「プリべンション」があるということを実感したことになる。しかし武満はこのことを契機に世界のTAKEMITSUとなる。かつて笑い転げた人間たちにも尊敬の対象となる。

20年前、武満の訃報の日本におけるメディアの扱いは軽いものだったようで、むしろ世界での報道が大きかったと立花が著書で書いている。現代音楽というジャンルが今も当時も難解であるという一般的な認識の証明でもある。当時NHKで特集番組が放送され、立花隆がコーディネート役として出演していたことを思い出すが、彼が話の途中で言葉に詰まり、涙ぐむ姿が放送されたのを見て、当時私は違和感を抱いた。つまりジャーナリストと現代音楽の作曲家の接点が見いだされなかったためだ。しかし今回この著書を読んで、立花が若いころから現代音楽に関心を持ち、造詣が深いことを知り、あのときの立花の涙を今になって理解する。また武満が彼に長時間に及ぶインタビューに応じたという経緯も理解できる。没後20年を経てもなお武満の音楽は生き続け、古典やスタンダードになっている作品も多く、多くの音楽家の尊敬を集めている。交響楽団の定期公演で現代音楽の演奏はほとんどないに等しいが、私たちはCDを通して武満の論理を超えた音の世界を堪能することができる。