TEXT 「A Passion Play」 – 暴力と舞台装置 – 11

6.「中性、透明、不在」

文学論というとなにか仰々しい感じで、研究者でもない人間がそれに触れるのは危険かもしれないが、より身近に引き寄せいろいろ考えるところはある。文学論で思い浮かべるものに、バフーチンの文学理論があるが、ここでは引き続きブランショの『終わりなき対話(Ⅲ)』で取り上げられた、主に文学論について、あるいはそこからインスピレーションを受けて、書いてみたい。しかし同書の特に第三巻目は、私にとっては何となく断片的でわかりにくいという印象で、どこまで理解しているかは自信がない。
ランボーから始まるこの編はキーワードとして「中性的」「断片的」があげられる。「中性的」という言葉から「中点」、すなわち「零度」を連想し、そこからバルトの『零度のエクリチュール』を連想するが、これとはまったく異なる論理である。ブランショは同書で以下のように書いている。

『排除と抹消を続けよう。中性的なものは言語活動によって言語活動にやって来る。とはいえ、中性的なものは単に文法上の性というわけではないーあるいは類や範疇としてみるならば、それは私たちを何か他なるもの、自らのしるしを負ったaliquid(ラテン語で「何か」を表す不定代名詞の中性)へと導く。第一の例として、自分が言うことに介入しない者は中性的だと言っておこう。同様にして、言葉(パロール)がそれを発する者や自分自身のことを考慮せずに発せられるとき、その言葉は中性的だとみなされうるだろう。その言葉はまるで、語りながら語っていないかのようで、言われるべきことのうちでは言われないえないことを語るがままにしているかのようである。だとすると、中性的なものは私たちを、曖昧で無垢ではない位置が帯びているような透明性へと見事に送り返すことになるだろう。そこには透明性の不透明性、あるいは、不透明性よりも不透明な何ものかがあるのだろう。というのも、不透明性を抑えつけるものも、あの透明性の根底、不在という名目のもとで透明性を狙い、透明性を存在させるあの根底を抑えつけることはできないからだ』。

ブランショは文学やフィクションといった限定した領域における思考ではなく、言語活動一般にわたって言葉の「透明性」を『曖昧で無垢ではない位置が帯びる』ものに私たちを引き戻すと考え、さらに「不透明性」を抑えつけるものも「不在」という名目で「透明性」を狙う、とし、すなわち「透明性」という概念を決して肯定的な概念で捉えていない。一方バルトは『零度のエクリチュール』のなかで、明確に肯定的に「透明」、そして「中性」を捉えている。バルトは、『文語から解き放たれようというこれと同じ努力にはまた、今ひとつ別の解決法がある。それは、言語の痕跡をもった秩序への一切の隷属から解き放たれた白いエクリチュールを創造することである』(R.バルト著『零度のエクリチュール』みすず書房刊より)と、文学における言語の問題に触れ、さらに『零度のエクリチュールとは、要するに直接法的、あるいはそういった方がよければ法に関係のないエクリチュールのなのである。(中略)あたらしい中性のエクリチュールは、それらの叫びや裁きのいずれにも加担せずに、それらのただなかに位置している。それはまさしく、そういったものの不在でできている。しかし、その不在はトータルで、いかなる避難所も何も秘密もふくまない。(中略)むしろそれは無垢のエクリチュールなのである。ここでは、生きた言語からも、いわゆる文語からも距った、一種の基礎的言語に依拠して文学をこえることが問題なのだ』と、「零度のエクリチュール」を定義している。
そして『こうした「透明」な言葉は、カミュの『異邦人』によって創始された』とし、『それはほとんど文体の理想的な不在といっていい不在の文体を成就した』と結ぶ。つまりバルトにとって『異邦人』は「叫び」や「裁き」から解き放たれた、不在の、透明で中性的な、という意味で理想的と考えている。あくまで文体として理想的ということではない。さらにカミュという作家自体を言っているわけでもない。しかし『異邦人』が本当にバルトの言う通り、「創始」だとすると、カミュの他の作品はどうなのか、『ペスト』も「零度のエクリチュール」なのだろうか。翻訳を通してしか読むことが出来ない私にとって、どちらもバルトの言うところの「零度」のニュアンスは感じ取れる。『ペスト』はパニック映画やノンフィクションを背景とした劇場的フィクションの様相のかけらはないし、ジャーナリステッィクでもない。扱われている題材からしても『ペスト』の方が「零度」を感じることができるように思う。しかし、この問題を結論づけるには思考が足りず、他の問題に移り、再びここに戻ってきたい。そこで先に挙げたブランショが『不透明性を抑えつけるものも、あの透明性の根底、不在という名目のもとで透明性を狙い、透明性を存在させるあの根底を抑えつけることはできない』とした指摘に対し、それを独特の感性で表現した作家、作品としてイタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』を例に、「不在」と「在」のエクリチュールを考えてみたい。
・・・12へ続く

TEXT 「A Passion Play」 – 暴力と舞台装置 – 10

5.『すべての芸術は音楽の状態を憧れる』

岡田温司はイギリスの批評家ウォルター・ベイターによる著作から引用したこの言葉を主題として、『表象08』(2014年)でメディアについて論じている。私はこのベイターの著書を読んでいないが、おそらく誰もが直感的に納得できる言葉として受け止められるだろう。岡田は同書のなかで、『芸術の理想たる、「内容と形式との完璧な一致」をもっとも完全に実現しているのが、「音楽芸術」だからである。「音楽の最高の瞬間においては、目的と手段、形式と内容、主題と表現とのあいだには区別など存在しない』、と論じている。音楽の魅力を言葉で表現することは、難しいというよりナンセンスな感じを受けるのも事実だが、それゆえ岡田のこの論に付け加えることは憚れる。「憧れ」というとちょっとニュアンスは異なるが、私は普通の音楽好きの人間として多くの音楽、特に70~80年代を中心としたロック・ポップス、そして現代音楽を聴いてきた。坂本龍一のことを以前書いたが、YMOともに洋楽ではビートルズをはじめピンクフロイドなどは、この40年で聴かなかった時期はなく、継続して聴いているし、新譜がリリースされたりリマスター盤がでるとつい買ってしまう。そして、このようにこの40年くらい継続して聴き続けているのが、デヴィッド・シルヴィアンである。
彼は特に他のアーティストとは違い、音楽的な進化が大きく、特にこの10年ではJAPANの時代からは想像できないほどの「新しい」音楽を生み出している。彼はJAPANを解散してから30年強、ソロとしてのアルバムを多くは出していない。ロバート・フリップやホルガー・シューカイとの共作や坂本龍一のアルバム参加などを除くと、ソロ名義では作品数としては少ない方だ。しかしそれぞれのアルバムは時代を超えて古さを感じず、毎回明らかに音楽的進化を遂げている。深淵、とはいえポピュラー音楽の枠に収まる範囲、という意味では20世紀最後の『Dead Bees On A Cake』がピークで、2003年の『Blemish』を始まりとして2007年『Manafon』にいたる彼の仕事はほとんど既成のジャンルに収まらないものへと変貌している。
『Blemish』、『Manafon』以前の作品のなかで、私が最も彼らしいと感じ、なおかつよく聴く作品を以下に挙げてみたい。

・Oil On Canvas
・Brilliant Trees
・Laughter and Forgetting
・Before the Bullfight
・Wave
・September
・Waterfront
・Every Color You Are
・Damage
・The First Day
・Thalhiem
・Wanderlust
・アルバム「gone to earth」のインストルメンタル

これらの曲はどれも静かで彼のコンポーザーとしても、ボーカリストとしても堪能できる作品である。
「Oil On Canvas」はJAPANのライヴを収録した同名のアルバムの冒頭の曲で、シルヴィアンの書下ろしで、ライヴ演奏ではない。また正確にはソロ作品ではないのかもしれないし、なによりボーカルなしで、彼のピアノ、シンセサイザーによるミニマルな楽器で演奏された小品であるが、私はこの曲が彼のコンポーザーとしての魅力が凝縮された曲として長く愛聴してきた。荘厳で暗く重々しいピアノ音から始まり、最後は明るい希望へと結ばれる。JAPANからソロへの移行を象徴するようなイメージを与える。
このように彼のキーボードのみの演奏にボーカルを入れた作品は、上記の中では「Laughter and Forgetting」、「September」、「Damage」、「The First Day」がそれに該当する。特にライヴ音源の「Damage」、「The First Day」の2曲は、CDを通してとはいえ深い息遣いを感じることが出来るほどの臨場感を味わえる。またソロで関係を深めた他のアーティストたち、坂本龍一(坂本はJAPAN時代から)、ホルガー・シューカイ、ロバート・フリップ、そしてポップスの世界ではないアーティスト、トランペットのジョン・ハッセル、ギターのデレック・ベイリー(ここでは上記リストに選定していない)、トランペットのアルベ・ヘンリクセンなどが参加して作品のレベルを上げている。例えばロバート・フリップは、コラボレーションでアルバム『The First Day』をつくっているが、ロバート・フリップが他のアーティスト、例えばデヴィッド・ボウイやトーキング・ヘッズのアルバムに参加した作品では、明らかにロバート・フリップらしいギターのリフがその重要な位置を占めている。それは半分以上ロバート・フリップの曲といってもいいくらいに思う。しかしシルヴィアンとの関係ではそうなっていない。上記リストのなかで「Wave」がロバート・フリップの参加した曲に該当するが、この曲はアルバム『gone to earth』からの曲で、この曲だけでなく、いくつかの曲でもフリップが参加している。しかしどれもいわゆるフリップ的なフレーズではなく、曲を引き立てるメロディアスなテクニックが展開され、フリップのギターであることを特に意識させないが、一方で彼のギターのすばらしさの再認識とクリムゾンとは異なる面を知ることが出来る曲となっている。話はそれるが、一流のギタリストが参加した作品として、曲を引き立て、しかもギターが際立ち重要な位置を占める他のアーティストの作品でいうと、P.マッカートニーの「No More Lonely Night」、「We Got Married」(アルバム「Flowers In The Dirt」より)ではデヴィッド・ギルモアが参加している。この2曲は詩がナラティブでウェットな構成であることに対比して、ギルモアのあのフロイドばりの「泣き」で「ソリッド」なギターが冴える作品となっている。甘い曲に甘いアレンジではない選択をするところがP.マッカートニーの一流であることの表れである。
シルヴィアンの盟友である坂本龍一はほとんどストリングスのアレンジで参加している。それも特に坂本らしさが表れているわけではないが、やはり曲のレベルを上げる働きをしている。上記のなかでは「Waterfront」が該当するが、この曲では坂本はピアノも弾いている。そしてやはりシルヴィアンのボーカルを熟知している坂本だからこそできるピアノとストリングスのアレンジであることを認識する。JAPAN時代のアルバム『Gentlemen Take Polaroids』のほとんどの曲で坂本が参加していて、「Taking Islands In Africa」はYMOの音作りによっていて、坂本色が強い作品であるが、デヴィッド・シルヴィアンがソロになってからの坂本色の表出は少ない。
ホルガー・シューカイの参加は上記の作品にはないと記憶するが、コラボレーションで2作のアルバムを出している。ホルガー・シューカイはドイツのバンド「カン」のメンバーだったが、現代音楽のシュトックハウゼンに師事したということもあり、実験的で前衛的な作品もある。そういったアーティストへの興味、そして彼らからの影響を自己の音楽の幅を広げる助けとして、積極的にかかわってきた。その延長で先に挙げたジョン・ハッセルなど参加で「Brilliant Trees」を含むアルバム(同タイトル)が出来たが、これも多くのアーティストが参加している。坂本もその一人である。「Brilliant Trees」はソロの最初期の最も完成された作品だと私は思うのだが、それまでポップスでは聴いたことがないようなアレンジ ・・・ジョン・ハッセルのトランペットとオルガン音のようなキーボードを背景にシルヴィアンの深いボーカルが響く。長い曲だが、後半の半分くらいはボーカルのないインストが続く。これは後にアルバム『gone to earth』のインストルメンタルにつながる試みを思わせる。『gone to earth』のインストルメンタルは、彼の最大の魅力であるボーカルがないにもかかわらず、そこには彼の個性が十分表現されている。先に挙げた「Oil On Canvas」のようなメロディというよりはブライアン・イーノのようなミニマルでアンビエンントに近い音楽なのだが、透明で奥行きのある構成となっている。彼の80年代をよく表したものともいえる。
80年代といえば、JAPANのメンバーで再結成されたRain Tree Crowの作品のなかの「Every Color You Are」はバンド色が若干あり、ソロ作品とは趣が異なるが、後のロバート・フリップとの共作につながる雰囲気をもっている。このアルバムに関して、彼自身の発言では、実は『The First Day』のようなもっとハードなものにしたかったらしいが、当時まだそのメソッドをもちあわせていなかったということのようだ。『The First Day』ではメンバー(3人)の個性が際立っているが、Rain Tree CrowではJAPAN時代のような個々の良さが発揮されていないようにも感じられるのも事実である。しかし私はこの曲がとても好きだし、アルバム自体もよく聴く。
「Thalhiem」、「Wanderlust」は名盤『Dead Bees On A Cake』からの曲で、この時期の彼のコンポーザーとして、またボーカリストとしてのピークで、あるいはポップスとしてのピークともいえる。20世紀も終わるころ、その時代性を感じさせないアレンジで、彼のなかで長く醸成され、というよりはアルバムのライナーノーツによるとかなり苦闘した末の成果であり、あれからもう20年も経つが、古さを全く感じない。
そして今世紀に入って、自らのレーベルSamadhi Soundを作って最初のアルバム『Blemish』ができ、『Manafon』へつながる。その間、ナインホーセズ名義では以前のようなポップスに近い作品もあり、そのツアーで2007年に来日している。私はこの渋谷のオーチャードホールの公演に足を運んだ。アルバム『Snow Borne Sorrow』からの曲がメインだったが、『Secrets of the Beehive』のときにできた「Ride」や、JAPAN時代の名曲「Ghosts」の当時と全く異なるアレンジが印象的だったことを思い出す。
先に挙げた曲のリストに加えて、Manafon variationとして『Died in the Wool』というアルバムがあるが、これは現代音楽の作曲家である藤倉大がアレンジを施した作品で、基本的にシルヴィアンのボーカルはほとんど変わっていないが、新しい曲もあり、中でも「A Certain Slant Of Light」は「September」を思わせる、静かで彼独特のメロディラインが際立つ小品も、最後にリストに加えたい。
私が中学生の頃、NHKFMで放送されたJAPANのコンサートを、当時モノラルのラジカセで録音したテープを以降何年にもわたって聴き続け、今から数年前にそのテープをCD化し、今でも楽しんでいる。それはジャパンの最後のアルバム『TIN DRUM』発表前のコンサートで、初期の曲も多く収められたもので、よりポップな色合いのもので、自分のなかで大変貴重なものとなっている。「Swing」からはじまり「Gentlemen Take Polaroids」、「Quiet Life」など。シルヴィアンがどんなに進化しようと、それも今のものと同じ感覚で聴くことができる。
私は日常のなかで、傍らにはシルヴィアンの音楽の進化が同時に流れていて、特に仕事上困難な場面に遭遇しても、傍らにそれがあると常に乗り越えられてきたように思うのだ。これはシルヴィアンを長く聴いてきた人皆にいえることだと思っている。音楽は最初にあげた言葉、『すべての芸術は音楽の状態を憧れる』ように、日常のなかで即時的に憧れの存在に、直接耳を通して出会うことができ、しかも深い感動を味わうこともできる。それによって多くのことが救われることも人は体験する。そしてその音楽性が変わらないということも人にとっては大事だし、一方で進化し続けるというのも、大げさに言えば自分の人生に照らして、とかくマイナス思考に陥りがちな気持ちをプラスに向かわせてくれる一助となる力もある。音楽には根本的に人を励ます大きな力がある。だからそれに対する憧れも生まれるのだろう。
視覚、聴覚・・・個人的な嗜好性から再びエクリチュールの問題への転化・・・ブランショへと戻る。
・・・11へ続く