6.「中性、透明、不在」
文学論というとなにか仰々しい感じで、研究者でもない人間がそれに触れるのは危険かもしれないが、より身近に引き寄せいろいろ考えるところはある。文学論で思い浮かべるものに、バフーチンの文学理論があるが、ここでは引き続きブランショの『終わりなき対話(Ⅲ)』で取り上げられた、主に文学論について、あるいはそこからインスピレーションを受けて、書いてみたい。しかし同書の特に第三巻目は、私にとっては何となく断片的でわかりにくいという印象で、どこまで理解しているかは自信がない。
ランボーから始まるこの編はキーワードとして「中性的」「断片的」があげられる。「中性的」という言葉から「中点」、すなわち「零度」を連想し、そこからバルトの『零度のエクリチュール』を連想するが、これとはまったく異なる論理である。ブランショは同書で以下のように書いている。
『排除と抹消を続けよう。中性的なものは言語活動によって言語活動にやって来る。とはいえ、中性的なものは単に文法上の性というわけではないーあるいは類や範疇としてみるならば、それは私たちを何か他なるもの、自らのしるしを負ったaliquid(ラテン語で「何か」を表す不定代名詞の中性)へと導く。第一の例として、自分が言うことに介入しない者は中性的だと言っておこう。同様にして、言葉(パロール)がそれを発する者や自分自身のことを考慮せずに発せられるとき、その言葉は中性的だとみなされうるだろう。その言葉はまるで、語りながら語っていないかのようで、言われるべきことのうちでは言われないえないことを語るがままにしているかのようである。だとすると、中性的なものは私たちを、曖昧で無垢ではない位置が帯びているような透明性へと見事に送り返すことになるだろう。そこには透明性の不透明性、あるいは、不透明性よりも不透明な何ものかがあるのだろう。というのも、不透明性を抑えつけるものも、あの透明性の根底、不在という名目のもとで透明性を狙い、透明性を存在させるあの根底を抑えつけることはできないからだ』。
ブランショは文学やフィクションといった限定した領域における思考ではなく、言語活動一般にわたって言葉の「透明性」を『曖昧で無垢ではない位置が帯びる』ものに私たちを引き戻すと考え、さらに「不透明性」を抑えつけるものも「不在」という名目で「透明性」を狙う、とし、すなわち「透明性」という概念を決して肯定的な概念で捉えていない。一方バルトは『零度のエクリチュール』のなかで、明確に肯定的に「透明」、そして「中性」を捉えている。バルトは、『文語から解き放たれようというこれと同じ努力にはまた、今ひとつ別の解決法がある。それは、言語の痕跡をもった秩序への一切の隷属から解き放たれた白いエクリチュールを創造することである』(R.バルト著『零度のエクリチュール』みすず書房刊より)と、文学における言語の問題に触れ、さらに『零度のエクリチュールとは、要するに直接法的、あるいはそういった方がよければ法に関係のないエクリチュールのなのである。(中略)あたらしい中性のエクリチュールは、それらの叫びや裁きのいずれにも加担せずに、それらのただなかに位置している。それはまさしく、そういったものの不在でできている。しかし、その不在はトータルで、いかなる避難所も何も秘密もふくまない。(中略)むしろそれは無垢のエクリチュールなのである。ここでは、生きた言語からも、いわゆる文語からも距った、一種の基礎的言語に依拠して文学をこえることが問題なのだ』と、「零度のエクリチュール」を定義している。
そして『こうした「透明」な言葉は、カミュの『異邦人』によって創始された』とし、『それはほとんど文体の理想的な不在といっていい不在の文体を成就した』と結ぶ。つまりバルトにとって『異邦人』は「叫び」や「裁き」から解き放たれた、不在の、透明で中性的な、という意味で理想的と考えている。あくまで文体として理想的ということではない。さらにカミュという作家自体を言っているわけでもない。しかし『異邦人』が本当にバルトの言う通り、「創始」だとすると、カミュの他の作品はどうなのか、『ペスト』も「零度のエクリチュール」なのだろうか。翻訳を通してしか読むことが出来ない私にとって、どちらもバルトの言うところの「零度」のニュアンスは感じ取れる。『ペスト』はパニック映画やノンフィクションを背景とした劇場的フィクションの様相のかけらはないし、ジャーナリステッィクでもない。扱われている題材からしても『ペスト』の方が「零度」を感じることができるように思う。しかし、この問題を結論づけるには思考が足りず、他の問題に移り、再びここに戻ってきたい。そこで先に挙げたブランショが『不透明性を抑えつけるものも、あの透明性の根底、不在という名目のもとで透明性を狙い、透明性を存在させるあの根底を抑えつけることはできない』とした指摘に対し、それを独特の感性で表現した作家、作品としてイタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』を例に、「不在」と「在」のエクリチュールを考えてみたい。
・・・12へ続く