TEXT レクチュール1題

筒井康隆の現在新刊として入手できない長編や短編集をまとめた〈筒井康隆コレクション(全7)〉を購入して、そのまま手を付けず1年以上経ってしまい、この連休を利用して第1巻を読んだ。第1巻には全部で4作収録されおり、どれも初期のもので、SF作品だ。そのうち『48億の妄想』は筒井康隆らしいユーモアと知が詰まったもので、しかも内容が面白いだけでなく、半世紀後の今現在書かれたものではないかという錯覚に陥る。編者である日下三蔵による解説を抜粋すると、『『48億の妄想』の世界では、テレビがすべての価値観を左右している。有名人には無線式のテレビカメラ「カメラ・アイ」が張り付いていて常に演技を要求されるし、一般人でもひとたびテレビに出演することになれば、タレントとして大げさな振る舞いをするのが当然という社会だ。この作品の世界と我々が暮らす現代社会との類似に驚くしかない。都会では町中いたるところに監視カメラがあるのが普通である。何か事件があれば一般人が携帯電話で動画を撮影し、それがインターネットにアップされて拡散する。昨日まで無名であった人が、マスコミに取り上げられると、有名人の仲間入りだ』、というように、読んだ者誰もが現代の作品である感覚に陥る。

具体的に興味深い文を2つ取り上げる。

 

『どうしてなのかしら?私、今の社会って、お芝居みたいな気がしてしかたがないの。いつからそんな気がしはじめたのか、自分じゃぜんぜん、わからないのよ。本当の社会生活ってものが、別のどこか遠いところにあって、現実の社会生活は、本当の社会生活をカリカチュアライズしたものに過ぎないという気がするの。人間的なものがなくて、皮相で、嘘みたいに思えるの。あなたはそんな気がしない?一度も、そう感じたことない?』

 

『大昔は、旅をするのは死地に赴くことだった。そしてそこから不穏な思想を、自分たちの安定した社会に持ち帰り、それによってその社会を進歩させた。だが今では、戦争に行くのさえ観光気分なのだ。観光旅行社クーポン券さえ買えば、エキゾチックな局地戦の光景が簡単に楽しめるはずだとさえ思っているのだ。現代では旅行者はいない、あるのは観光客だけだ・・・と、折口は思った』

 

半世紀も前の記述だ。一つ目の『あなたはそんな気がしない?一度も、そう感じたことない?』という言葉は、自分に問いかけられているようだ。SF作品とはいえ、いや優れたSFだからこそ、突飛で唐突、非現実というものを超えて、ある時代を共有した人たちの枠組みを外すことなく、共通言語で過去と現在を結びつける。

 

TEXT ハードボイルドと言葉

この年末年始にまとめて本を読んだ。前回TEXTの続きではないが、長く入手できなかった本で昨年復刊されたものでロス・マクドナルドの『動く標的』という作品がある。ロス・マクドナルドといえば、登場する探偵リュー・アーチャーが有名で、この探偵が初登場する作品がこの『動く標的』である。学生時代からこの作家が好きで、特に『さむけ』、『ウィーチャリー家の女』はイギリスのミステリーとは違った魅力とリアリティがある。他の作品も翻訳されているものはほとんど読んだが、この『動く標的』だけはやはり絶版状態が長かったということもあり、この記念すべき作品だけ読んでいないという不幸な状態が続いていた。読んでみて、やはり先に挙げた二作品よりは面白味は薄いが、それでもあらためて気づかされたことがあった。それは登場人物、この場合とくに探偵であるリュー・アーチャーから発せられる言葉である。具体的に取り上げはしないが、その確信に満ちた言葉、あるいは自身を含めた人間の弱さに対する慰めと勇気づける言葉、それらはハードボイルドというジャンルに括られた先入観の枠を取り外し、時代と国を超えた普遍性を読者に訴えかける。ハードボイルド、つまり“かたゆでたまご”、“カタブツ”のような人物から思いもかけない、人の心を揺さぶる言葉を発することがある、ということを再認識する。以前別のTEXTで書いたが、漱石の『明暗』で、『露西亜の小説、ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってる筈だ。如何に人間が下賤であろうとも、又如何に無教養であろうとも、時としてその人の口から、涙がこぼれる程有難い、そうして少しも取り繕わない、至純至精の感情が、泉のように流れ出して来る事を誰でも知ってる筈だ。君はあれを虚偽と思うか』(原文ママ)と書いている。リュー・アーチャーは架空の人物であるから、リューの言葉はそのまま作者であるロス・マクドナルド本人の言葉である。マクドナルドは『カタブツ』でもましてや『下賤』でもないが、設定した人物に語らせることで、私たちは漱石が作品で語らせたようなことを認識させてくれる。

この『動く標的』のロス・マクドナルド以外の作品、とりわけハードボイルドやミステリーでも、このように作中の人物が語る言葉に胸をうつという経験が少なくない。

例えば、これは作中人物の言葉ではないが、文の書き出しが美しいものに、ウィリアム・アイリッシュの『幻の女』は有名だ。

『夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった』。(ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』早川書房刊、稲葉明雄訳)

またこれも有名だが、様々な場面で使われるフレーズで『人間はたくましくなければ生きてゆけない。しかし優しくなければ生きる資格がない』といった言葉は、レイモンド・チャンドラーの『プレイバック』の中の一節で、実際にはもっと軽い、男女の関係の中で発せられる言葉で、女が探偵に『あなたのようにしっかりした男がどうしてそんなにやさしくなれるの?』という問いかけに、探偵が以下のように答える。

『しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない』。(レイモンド・チャンドラー『プレイバック』早川書房刊、清水俊二訳)

その他こうした言葉に加え、ユーモアも含み、更にハードボイルドの探偵のイメージから少し離れた人物にロバート・パーカーのスペンサーがいる。作品『初秋』では依頼者の息子を自立させるためにボクシングや大工仕事など、不器用でおせっかいともいえる行動をとる。ミステリーやサスペンスといったジャンルを超えた、一種の教養小説にもなっているというのが今でも色褪せない作品の魅力となっている。

私たちは基本的に言葉を通して日常を生きている。言葉で人を動かし、説得し、説明し、納得させる。そして相手の言葉を聞き、時に反論し、同調し、話を前に進める。時に意外な人物から意外な言葉を聞くこともある。大半は固定観念から、その人物から得られる情報を自ら枠内に押し込め、それ以外の言葉を聞こうとしない。しかし本当に思いもかけない言葉に出くわしたとき、それをきちんと受け止めるこということを忘れてはならないと、自分に言い聞かせる。