ヤン・シュヴァンクマイエルの作品を初めて観たのは、もう30年近く前になると思う。札幌でアートフィルムかショートフィルムばかり集めた作品の上映だったと記憶する。その時シュヴァンクマイエルのみでなく、他にブラザーズ・クェイの作品も印象に残っている。ヤン・シュヴァンクマイエルはチェコの映像作家で、クレイのコマドリを始めとして人形のコマドリ、アニメと実写を組み合わせた映像を多く生み出している。私が初めて接してから数年後にシアター・キノ(当時まだ数席しかない超小型の映画館)で上映された『悦楽共犯者』(1996年)を観た時の強烈な印象はいまだに忘れていない。初めて観た作品は『男のゲーム』(1988年)だが、クレイで作られた人の顔がインモラルな方法でゆがめられ、破壊される。グロテスクだがユーモアも内包されている一方、構成が一定の法則に沿っていて、よく練られた創造物であることが伝わってくる。一方『悦楽共犯者』は、クレイの表現よりは実写のコマドリが多く、内容は男の「悦楽」のために工夫された、いわば他人には「無害」だが個人的な「装置」の創出の自由さが表現されている。ここで繰り広げられる「サド」と「マゾ」の交錯は、現代を生きる私たちの隠された「悦楽」表象に転化される。そしてブラックでグロテスクでありながら、ユーモアとタブーを同時に「湿った」画面に貼り付けられ、他では出くわすことのない圧倒的なオリジナリティを見せつけられる。
公開の場で観たのはこの二つの作品だけで、他はDVDで多くが入手でき、私もほとんどの作品を観ることができた。なかでも『ファウスト』は他とは若干趣向が異なるように感じる。多くの他の作品は「内的」あるいは「スタジオ的」印象だが、『ファウスト』だけはもう少し「開かれた」感じがある。この作品に絡めて、ゲーテの作品で良く知られるドイツの『ファウスト博士』の伝説、そしてシュヴァンクマイエルのこの作品におけるいくつかの言説、撮影日誌などから彼がキーワードとして頻繁に登場する「不正操作」という語を作品としての『ファウスト』を軸にしながら考えてみたい。・・・(続)
TEXT 「不正操作」とファウスト-1
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