「ファウスト」を主題とした作品を書いた作家はゲーテの他、ドイツの劇作家グラッペとイギリスの劇作家マーロウがいる。ヤン・シュヴァンクマイエルは「ファウスト」の撮影日誌のなかで、先の回にあげた「不正操作」という言葉を書いている。撮影後のある日帰宅途中で自分の「ファウスト」が、実際に何についてのものなのかをじっくり考えたという。つまりそれは「不正操作」について他ならない。マーロウの「ファウスト」を下敷きとしたシュヴァンクマイエルの作品はゲーテとグラッベのそれと何が違うのか。ゲーテとグラッベのそれは『反乱を起こす「巨人(ティタン)」であり、知識の万能さをめぐるロマン主義的な考え方』であることに対し、マーロウの方は『神への反抗と瀆神にたいする罰が問題になっている』としている(『』内は日誌文中から引用)。しかしシュヴァンクマイエルの「ファウスト」に対しては、マーロウのそれを下敷きにしているとはいえ、一方で現代における現実的で乾いた思想で解釈している。作品そのものが語り回答していることを、彼はあえて言葉にしているといった感じだ。それはファウストという伝説とそれを担わされた「人物」、そして「ファウスト」を題材とした映像の創造においては演じる役者と役柄の関係、台詞とリハーサル、現実ではなく芝居であること、それらは「ファウスト」という伝説の表象の在り方のシュヴァンクマイエルという一創造者の手法と表現という解釈、つまり伝説のファウストの役柄を与えられた悲劇的な対象、それは芝居の役者という意味ではなく、ゲーテ、グラッベ、マーロウが「操作」した架空の「人物」、それがシュヴァンクマイエルの「ファウスト」では、それに加えて台詞を暗記させられた「役者」、「舞台」という「操作」という更なる表象の舞台としての「ファウスト」の解釈を、彼独自の言葉(翻訳を通してではあるが)で日誌に綴っている。そしてこの「操作」を一貫して「不正」として捉えていることが興味深い。
彼は日誌の中で語る。『不正操作の対象となって悲劇的な立場(役柄)におかれ、そこで死ぬまで忠実に演じていく「偶然の」人間なのだ。これはまさにある明確なパラドクスだ。ひとは不正操作されてファウスト(反逆者ファウスト)の悲劇的な立場におかれ、この不正操作にたいしては反抗さえしない。これは現代のアクチュアルな問題だと思う』。日誌以外でもインタビューのなかでも、やはりこの「不正操作」について触れている。『撮影の最中、私にとって強迫観念となっているテーマ、すなわち不正操作というテーマを作品のなかにもちこみたいという強い衝動を感じていました。不正操作は全体主義体制の原理にはとどまりません』。『逆説的なことに、ファウストは、知らず知らずのうちに不正操作の犠牲になっているのです』。
『現代のアクチュアルな問題』。シュヴァンクマイエルはこの「不正操作」の解釈を単に自作の創造行為にのみあてはめているのではなく、現代が抱える様々な矛盾や権力・暴力にまで拡大して、引き上げて捉えているだろうことは容易に想像できる。
TEXT 「不正操作」とファウスト-2
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