TEXT プルーストの「その時」―1

小説の中でも、長編を読むという行為は読書の最大の楽しみの一つともいえる。例えば文庫本で4巻以上もあるような大きな小説というと、トルストイの『戦争と平和』、ミッチェルの『風と共に去りぬ』、スタインベックの『エデンの東』など他にも上げたらきりがないが、これらの小説は長いにも関わらず非常に読みやすいという点でも共通していて、それが長く読まれている理由の一つでもあるようにも思われる。しかしとりわけ群を抜いて長い作品がプルーストの『失われた時を求めて』ではないだろうか。この有名な作品は、有名であるにもかかわらず、全部を読み切った人は一体どれだけいるのだろうかと考えてしまう。私もこのあまりに大きさゆえ、もう30年ほど前になるが、エクストレ版で読んだくらいで、それ以来全部を通して読んでいない。しかし9年ほど前に岩波文庫から全14巻の刊行が始まり、それを機会に1巻目から読み始め、1年に1冊かせいぜい2冊しか配本されないものを、もう9年にわたって読み続け、ようやくあと1冊の配本を残すのみというところまできている。かつてこれほど長い期間にわたって読み続けた小説はない。昨年暮れに配本された第13巻目は『見出された時Ⅰ』で、物語としては第1巻目からもう20年ほど経過した状態で、主人公「私」を巡る出来事の長々しい描写を経て、「私」の文学論が展開される。「私」の文学論は「プルースの」文学論に置き換えることが出来る。しかしそれは文学論というより、彼の思想、哲学といっていいものであり、胸に響くエクリチュールが展開する。

『一時間はただの一時間ではなく、さまざまな香りや音や計画や気候などで満たされた壺である。われわれが現実と呼んでいるものは、われわれを同時にとり巻いているこうした感覚と回想とのある関係のことであり、-この関係は単なる映画的ヴィジョンでは抹消されてしまうから、映画的ヴィジョンは真実だけを捉えようとしてなおのこと真実から遠ざかる-、この関係こそ、作家が感覚と回想というふたつの異なる項目を自分の文章のなかで永遠につなぎ合わせるために見出すべき唯一のものなのだ』。(第13巻 岩波文庫 吉川一義訳)

  プルーストは、「現実とは感覚と回想との関係のことであり、作家は文章のなかでこれらをつなぎ合わせるために見出すもの」として、作家の在り方を説いていて、『失われた時を求めて』とはまさにこの思想を体現した、いわば「媒体」のような存在である。私が9年にわたって読み続けられたのも、おそらく時代も場所も、風俗や文化も、時代背景や日常も大きく異なるものに対しても、自分の日常に沿って、自己の環境や境遇との照合と対比のなかで、いわばもう一つの日常として物語が傍らを静かに歩いていたからではないかと思う。単に面白いストーリー展開や結末を期待していたのでは挫折してしまうだろう。またまとまった期間に、たとえば1か月集中的に読もうと思っても、やはり頓挫してしまう、おそらくそういう小説であろう。先述した『風と共に去りぬ』、『エデンの東』などは、物語として壮大で、感動を呼ぶ小説だが、その一方で一度読んだきりで、また読みたいと思うのにかなりの時間を要する。しかし何度も繰り返し読んだ小説というのは、やはりストーリーテリングだけではない。例えば長編のなかでもジョイスの『ユリシーズ』は読むたびに新たな発見がある。しかし『失われた時を求めて』は、その最後までたどり着くのに相当な時間がかかるため、読後また読み返したいとすぐに思っても、なかなか難しいのが現実なのだろう。

先ほどの抜粋した文から発展し、「私」が文学論を展開している。『・・・しかし真実がはじまるのは、作家が異なるふたつの対象をとりあげ、科学の世界における因果律という唯一の関係に相当する芸術の世界における関係としてこの両者の関係をうち立て、この両者を美しい文体という必然的連環のなかに閉じこめるときだけである。(中略)・・・自然自体がそもそも芸術のはじまりではあるまいか?・・・自然は、ある事物の美しさを、しばしばずいぶん後になってから、べつの事物のなかでのみ、ようやく私に教えてくれたからである。』

  プルーストは感覚と回想の関係を説き、そしてそれだけは文体としての芸術に到達していないと考える。ここでは「真実」という語で必然的連環のなかで、異なる2つの対象を捉え、『両者をひとつのメタファーのなかに結びつけて両者に共通するエッセンスをとり出すとき』真実がはじまるとする。

この長大な書物が100年も読み続けられた最大の理由は、この『見出された時』における、「私」に語らせたプルーストの文学論の存在ではないだろうか。私がこれまで読んだ小説のなかでも、このように物語のなかで、しかも最後に登場人物が作家や小説について論ずるという構造は記憶がない。なにか長い眠りの夢から突然現実に引き戻されたような不思議な感覚である。そしてこの感覚がもう一度最初に戻って、読み直したいという欲求につながっていく。「見出された時」にいたる経過は、決して失われた時ではなく、プルーストが求めた真実のとらえ方、エクリチュールの在り方を現前化させる長い長い舞台であるように思える。

TEXT アントニオーニの質感

以前のテキストでG.ヘルンヴァインを取り上げた。経験と体験を巡る内容の回で、森有正の思想を受けて「特に貴重な経験」として、ヘルンヴァイン展がその後の人生において固定化された「体験」となったことを書いた。その「体験」は私が30歳になる直前のことだったが、さらにその10年前の大学1年の頃の経験が固定化された「体験」となって、それが現在までつながっている対象がミケランジェロ.アントニオーニである。アントニオーニは20世紀の半ばイタリアで活躍した映画監督で、フェリーニと並ぶネオリアリスモの巨匠である。私の「出会い」は、先述したように大学に入学してまもなくのことで、彼の映画は、それまで高校時代から好きで見ていたいわゆるハリウッド映画とは全く異質なものだった。当時テレビで深夜に放映されたアントニオーニの『太陽はひとりぼっち(原題L’eclisse』)をたまたまビデオに録画していたものを観た。その時の印象は、まず単純に面白くないという感覚しかなかった。しかしその後繰り返し観ていくうちに、次第に惹き込まれるようになった。そしてその後アントニオーニの他の作品のみならず、フェリーニやゴダール、ベルイマンなどヨーロッパの映画をよく観るようになった。これらの経験は先の回に書いたヤン・シュヴァンクマイエルやP.ボカノウスキー、セルゲイ・パラジャーノフといった商業映画とは一線を画す作品に触れるようにつながっていったが、いわばその嚆矢が私にとってアントニオーニだったといえる。アントニオーニの映画の中のシーンや画面の構成、空気や役者の表情などから発せられる、いわば像の質感などは、私のその後の仕事や日常の中で常につきまとうというか、自分を支配している覆いのような存在になっている。その覆いのようなものを最初に具体的に表現した例としては、大学院修士設計で、いわば漠然とした空間における「質感」のようなものを、そのアントニオーニから影響を受けた感覚を契機として、全体と部分の考察を基本とした様々な思想、理論の助けを借りながら論と設計を展開した。(それは本HPのWORKで「Representation1」として掲載している)。建築という仕事を基本とした日常の中で出くわす、主に視覚的体験としてアントニオーニの映像が根底にある。

具体的なシーンとして挙げると、『情事』(L’avventura 1960年)では、小島で行方不明となった女性の恋人とモニカ・ヴィッティ扮する友人との関係を象徴するような、建造物の石の壁面が画面の半分を占める二人の背景。『夜』(La notte 1961年)では、特に後半、早朝のゴルフ場で二人が歩くシーン。時間の感覚を失った空と芝が広がる中に樹木が点在するなかを並んで歩き、芝に座りこむ二人。ジャンヌ・モローの美しく暗い表情と、夫への愛が冷めたことを口にする妻としての悲しみがそのまま風景と同化する。そして先述した『太陽はひとりぼっち』では冒頭の男女の別れ話のシーン。何度も話し合った後、早朝の男の部屋から出ていくモニカ・ヴィッティが、住宅地の脇の草むらを抜け、自宅マンションへ入って窓から揺れる樹葉を見つめるシーン。証券取引所で、ある証券マンが亡くなったというアナウンスのあと1分間の黙とうを捧げる中、太い円柱を挟んで立つヴィッティとドロンのシーン。そしてなんといっても最後の数分間の映像。二人が待ち合わせ、歩き、話しが繰り広げられた場所の、二人の不在のシークエンス。『赤い砂漠』(Il deserto rosso 1964年)はアントニオーニ初のカラー作品であるが、特にこの作品は、工場とその排気ガス、港の霧など前作までの都会的な情景とは異なる陰鬱な様相が全編通して作品を覆っている。

今取り上げたシーンは私のその後の生活の中で、ふとした瞬間に訪れる。大学時代の室蘭の風景・・・いつも吹いている風、道路脇に箒で掃かれた跡のような雪、新日鉄工場群と鉛色の空。あるいは札幌での、時間や季節の感覚を失う、何でもない街の風景。仕事で偶然通りかかる団地の画一的な形と小さな公園。あるいは具体的場面でなくても、例えば安部公房の作品で描かれる身近な街の普遍性など。これらの感覚は単に視覚的な経験が「体験」として積み重ねられ、現在に至るまでの自分の心象風景として固定化したもとのとなっている。タイトルに挙げた「質感」とは、マテリアル、すなわちものの物質性というか、具体的な手触りの感覚を、いわば空間をキャンバスにみたてたような手触り感覚を「質感」として捉えたものだ。それは学生時代に出会った「アントニオーニ」から得られた逃れられない感覚となっている。