TEXT 「音楽の状態を憧れる」-4

West End girls/ Dig Your Own Hole / Get Ready

ペット・ショップ・ボーイズ(以下PSB)の『West End girls』は85年にデビュー曲としてリリースされた曲である(正確には84年リリースのリミックス再リリース)。当時日本のスズキ自動車のCMで使われていて、私はそれを聴いたことがきっかけに現在に至るまで、ほぼすべての作品を聴き続けて35年になる。これまで多くのアルバムが発表されたが、中でもやはりこの曲が一番好きだ。いわゆるダンス・ミュージック、あるいはディスコ・ミュージックの部類に入る一方で、ポップで親しみやすい独特のメロディラインとニール・テナントのハイトーンでクールなボーカルが最大の魅力で、このスタイルは35年間ほとんど変わっていない。しかしこのデビュー曲は、バブル期が始まる日本での自動車のCMソングで採用されているが、CMソングとしてはかなりシビアな歌詞であることは、曲調からはあまり想像できない。ラップ調で始まるこの曲の歌詞を覚えようと英語の歌詞とその対訳を見ても、その内容に当時は特別な感慨はなかったと思うし、うまくテンポと歌詞を頭の中で合わせることに終始するだけのことだった。しかし80年代の終わりから90年代、そして今世紀に入り、世界状況も劇的に変化していく中で、テロや暴力が横行し、情報が高度化された世界にあってポップスにおいても取り上げられるテーマもそれに沿ったものも増えたように思うこともあることを考えると、この曲も日本の状況とは違う何か漠然とした不安のようなものを歌いあげているように今なら感じることがある。この曲の歌詞は『Sometimes you’re better off dead・・・』で始まるが、以下に対訳を抜粋する。

ときどき死にたくなることがある        君はピストルを片手に持ち

銃口をこめかみに当てる       情緒不安定のあまり気が変になったみたいだ

ウエスト・エンドのレストランで椅子を蹴飛ばし      テーブルをひっくり返す

“警察を呼べ こいつは狂人だぞ“

そこで君は地下へ逃げ込み    ウエスト・エンドの安酒場に身を隠す

(対訳 内田久美子)

英語ということもあって曲を聴くとき歌詞の内容はあまり意識しないが、頭の片隅にはポップなメロディの裏側としてのシビアさはつねに残っている。ある個人の病的な部分にスポットをあてた歌詞で世界的な諸問題を象徴化したものではないけれど、日本人とはまた別の次元で若者が抱く普遍的な不安定さを露呈したものなのかもしれない。PSBの曲は90年代に入り、ますますデジタル・サウンドとアナログのボーカルが融合し、特に96年の『Bilingual』は個人的にデビューのアルバム以外では最もよく聴いたアルバムで、特に1曲目の『Discoteca』から次の『Single-Bilingual』への連続のサウンドは単なるポップ・デュオとは全く異なる非常にコアなものとなっている。その一方『Metamorphosis』のような70年代ディスコを彷彿とさせるようなアレンジの曲や、『Saturday Night Forever』のようないかにもPSBらしい曲もある。しかし基本的にはいわゆるブレイクビーツはほとんど使われていないため、サウンドにボーカルが負けることがなく、またクリス・ロウが手掛けるメロディは覚えやすく明確で、同時に常にテナントのボーカルがより際立つかたちとなっている。

一方90年代に登場したケミカル・ブラザーズは、ブレイクビーツとドラムンベースを基本としたクラブミュージックの、それまで一部の領域に限られていたリスナーをロック/ポップスの大衆リスナーにまで対象を拡大させたといえよう。そのきっかけのアルバムが97年リリースの『Dig Your Own Hole』である。特にシングルでリリースされた『Setting Sun』はノエル・ギャラガーがボーカルで参加していて、このこともメジャーに押し上げた大きな要因となっている。この曲はブレイクビーツというよりは、アナログの生音のドラムを意識させるような、しかもビートルズの『Tomorrow Never Knows』を彷彿とさせるサウンドが前面に出ていて、ギャラガーのボーカルが生きている曲となっている。しかしこの『Setting Sun』までの4曲の連続は強烈なブレイクビーツで、聴く者を圧倒する。クラブミュージックの枠さえ超えてしまっている。基本的にドラム部分のプログラムの細かい編集が基礎となり、それにサンプラーなどで組み立てたものを波形の編集やシーケンサーを駆使している。基本的にギターやピアノといった既存の楽器の音がないため、コンピューターで発生させた音かサンプラーで取得したものを加工した音が続く。しかしその基底には音楽の基本的なリズムがあり、いわゆる4回同じフレーズを繰り返すといった基本的で落ち着いた構造を内包させているため、聴く者に心地良い印象を与えている。しかもサンプリングされたヴォイスも含め全く狂いのない音と拍子が続き、音の迫力以外の余韻的なものが一切入らないという、いわばごまかしのきかないサウンドとなっている一方で単調になりがちなリズムが、逆にその単調が心地よい、既成の楽器音ではない音の繰り返しに陶酔するようなサウンドに仕上がっている。特に『Elektrobank』は彼らの曲の中では最もハードコアなものに仕上がっている。しかしその後のアルバムではもうこのようなハードさは登場しないし、普通のデジタルポップスの状態にとどまっているものばかりに感じることは個人的に残念だ。次のアルバム99年の『Surrender』では、『Out of Control』でニュー・オーダーのバーナード・サムナーがボーカルで参加している。この曲は前作の感じとは異質のハードさが残っている曲で、サムナーの影響が色濃く出ている。私は個人的にはこの曲で久しぶりにサムナーのボーカルを聴いた。90年代にニュー・オーダーのアルバムをよく聴いていたこともあり、その後あまり発表されなかったことから、次のアルバムを待ち望んでいたが、このような形で聴くことが出来たのは以外というより嬉しかった覚えがある。

そのニュー・オーダーの新しいアルバムは、『Get Ready』で2001年にリリースされたが、それまで聴いていたテクノサウンドとはうってかわってギターが前面にでたかたちで、しかもひずんだ低いギター音のベースラインが特徴となった重厚でハードなロック色に仕上がっている。特に1曲目の『Crystal』のキーボードと女性ボーカルの劇的な導入に割って入る強烈なドラムで始まる入り方は、それまでのニュー・オーダーにはないものだったと思うし、何度も繰り返し聴いてきた。その後も同じスタイルのアルバムが出ていて、特に目新しさはないが、変わらないという安心感で4年前にリリースされた『Music Complete』でも決して聴くものを裏切らない出来栄えとなっている。

ロック/ポップスのジャンルは70年代から80年代に入り、シンセサイザー、ドラムの打ち込み、極端なドラムの音が特徴で、全体的に曲調が軽く、当時MTVの登場でヴィジュアルを意識したものも多くあらわれたが、とにかく当時は新しい技術を面白がってパッチワークのように使っている印象だった。90年代になり、それらのいわば遊びが制御され、アナログとデジタルがうまく融合していった時代に感じる。そのころよく聴いた作品として上記のPSBの作品に加え、デヴィッド・ボウイの『Outside』、U2の『POP』などは、上記の「融合」という点では最もうまくいったピークの作品のように思う。しかし一方で融合というよりデジタルを極めたケミカル・ブラザーズの『Dig Your Own Hole』だけは彼らのアルバムのなかでは将来も残り、聴き続けられるものだと思う。上記に取り上げた3つのユニット、ペット・ショップ・ボーイズ、ケミカル・ブラザーズ、ニュー・オーダーは、80年代から90年代に登場したこともあって、自分自身に年齢が近いという同時代の感もあり、しかも時代の流行にうまく乗りながら独自性を発揮してきたユニットで、デジタル・サウンドを使いながらもそれぞれが全くことなる魅力をもち、それを今でも新しいサウンドを発していることを我々が享受できることを嬉しく思う。

TEXT 「自分を知る」のアポリア

玄関を出て庭を眺め、例えば咲いている百合の花をみてきれいだと思うと同時に、『これは花であり、私ではない』、『なぜこれは私ではなく、花なのか』などと思う人はいないだろう。「きれいに咲いている」と思った瞬間、次の行動に移ってしまい、今みた花のことなどすぐに頭からはなれてしまう。そうして一日は、(そんな単純にはできていないとはいえ、)「そのとき」が次に迫っている事柄に追い出され、時間が過ぎていく。しかし子供の頃を思い返してみると、時間に余裕があったせいか、例えば友達の顔をみて、彼が自分ではなく彼であって、私ではないということを意識し始めるときがある(あった)。それは自分が自分であることを認識し、他人でないことを知る、ということなのか。自分を知る、知ろうとする、他人を認識し、知ろうとすることの始まり、なのだろうか。自己同一、ということの目覚めなのか。いや、そうではないだろう。話はかわって、『自分探し』という言葉を聞いたり目にしたりすることがときどきある。有名人に多いので、メディアで取り上げられることもあるからかもしれない。あるいはその目的のために、お遍路の巡礼や外国の遍歴を経験するなどといった人もいるだろう。はたしてそこで「自分を探すことができた」、「自分を発見した」などと実感した人はいるだろうか。そもそも自分を探すなどという言葉を発したり考えたりすることにためらいはないだろうか。

このように、自分を知る、あるいは探すなどといった言葉に触れたときに思い出すことがある。田中美智太郎の書いた本で『読書と思索』(第三文明社刊)という古い文庫がある。これは私が大学に入学したころ、もう30年以上前に読んだものだ。田中美智太郎というと、今では一昔前の人という印象が強く、ギリシャ哲学者であること、プラトンなどの翻訳者くらいにしか認識されていないように思われるが、ましてや彼の思想そのものに触れる機会は一般には少ないだろう。この文庫には、考えることについてや読書、教養などについてわかりやすく書かれているが、そのひとつに『自己を知る』と題された章がある。「自己を知るとは何か」という問いかけに対する一般的な解釈についてすこし長めに触れている。そしてその後その解釈を否定するが、一般的な解釈として『自己の分限を知る』ということを、エピクテトス(古代ギリシャのストア派の哲学者)の『自分だけでどうにでもなるものと、自分だけではどうにもならないものとの区別』という言葉を補足としながら取り上げている。そしてさらには『自己を知ることは、また自己の非を知ること』ということも挙げている。これらの思考はいつの時代でもよく耳にするし、ものわかりの良い話として耳に心地よく響く人もいるだろう。しかし、それは自己を知るということなのか、と彼は問う。「自分を知る」ということが「自分の限界を知る」ということと同じことだとすると、「自分」と「限界」とが同じ意味であることを意味することになり、さらには「自分」と「自分の限界」が同義であるということにもなってしまうだろう。

テキストではさらに続けて、『自己を何かであると知ることも、何かでないと知ることも、自己自身を知ることではない』とし、『自己自身について、他の何かを知ること』とする。『わたしたちは、自己の非をさとったり、人間としての自覚をもったりする前に、自己自身をただ自己自身として、直接にこれを知ることを考えなければならない』とし、それはいったいどのようなことなのか、さらに問いを投げかけ、以下にテキストを抜粋する。

『知られる自己というのは、それを知る者の自己でなければならない。すなわち知る者と知られるものとが、同じ一つの自己でなければならない。しかしながら、知り知られるためには、知るものと知られるものとが分かれなければならない。するとその場合、知られるのは知られるものだけであって、これを知るものは、ただ知るだけで、知られるのではないから、知るものは、知る自己を知ったのではなくて、知られる他のものを知っただけのことになる。これは自己を知ることではなくて、他を知ることなのである。(中略)すべては他をもって他を知ることになり、自己をもって自己を知ることにはならないだろう。全体が、知る部分と知られる部分を知るに過ぎなくなる。従って、自己を知るというのは、知るものが知るもの自身を知ることでなければならない。すなわち知の知でなければならない』。

ここまでで「知る」ということが知る主体と知られる他との関係、そして知る部分と知られる部分という関係から「自己を知るというのは、知の知でなければならない」ということを第一の結語として導かれている。さらに展開して『いくら知る自己を知ろうとしても、知られるのはいつも知る自己ではなくて、知られる他に過ぎなくなり、わたしたちは無限に同じことを繰り返して、結局自己を知ることはできないだろう』とし、第一の結語を補い、『知は、いつも他の知であって、自己の知ではないことになる』と第二の結語が導かれる。つまりこの思考の繰り返しは『古代のアポリア』であるとする。この章では、第三の結語として、『ではどうすればよいのか』と投げかけ、『もともと自知とはそういう矛盾を含んだものであって、そのような矛盾の自己同一がすなわち実在なのだと言おうか。これはアポリアを解くかわりに、アポリアをそのまま呑み込んでしまう仕方である』としている。しかしこれは結論ではなく、さらにつづいて『この自知のアポリアをどう取り扱ったらよいか』と問い、そのアポリアそのものを以下に再解釈している。

『全体が知るものと知られるものとに分かれるとき、両者は互いに他者となり、知る部分は知る部分自身を知るのではなくて、知られる他の部分を知るのであり、知られる部分は、知られる部分自身によって知られるのではなくて、知る他の部分によって知られることになる。これは他者による他者の知であって、自己による自己の知ではない』。

ここまでが自己を知ることのアポリアについて書かれた内容であるが、知る部分がその自身を知るのではなくその他の部分を知るということ、これが他者の知であり自己による知ではないということがわかる。またそこから自分が知ろうとするその対象が自分であるとき、それは自分を客観視するということが前提なのだろうか、と考えるとそこにも矛盾が生じることに気づく。よく「自分を客観的に見つめろ」などということを様々な場面で耳にする。本当にそんなことができるのか不明だが、しかしたとえそれが出来たとしても、自分を知るということとはいえないだろう。それは他者による知ということになる。しかしこういった思考は無意味なことではないことも気づかされる。テキストはさらに続いて、上記のアポリアの存在とその認識について確認し、そのうえで自知は不可能なのかとあらためて問う。以下にテキストを抜粋する。

『知るものの側に自己をおくとき、知るものはどこまで行っても知るだけであって、決して知られるものにはならないとすると、自己は決して客観化されることのない、絶対的主観の意味をもつと考えられる。このような自己は、決して無意味ではなく、むしろ知るものとしては、その純粋究極のかたちにおいて、かくのごときものでなければならないと考えられる。わたしたちのうちにあって、終始ただ知るだけで、決して知られることがなく、強いてこれを対象化して、知ろうとすれば、そこに無限進行のアポリアが生じ来たるがごときもの、それがつまりわたしたちの自己であると考えられる。したがって、自知のアポリアは、かくのごとき自己を不可能にするものでは決してなく、ただこれを対象化してとらえることの不可能を示すものと解される』。

「自己は客観化されること」がなく、「絶対的主観」の意味をもち、「自己」は無意味ではない。自己に意味がなければ、主観としての自己も存在しない。わたしたちの「自己」というものは、知るだけで知られることがない、自己を対象化して知ろうとすると無限のアポリアに陥る。ちなみにテキストではこの後もさらに論は展開され、上記が結論ではない。

「自分を知るということのアポリア」は、自己を対象化することが不可能であり、そしてもっと言うとこのこと自体(自己を知るということそのもの)を対象化してとらえることが不可能であるといえないだろうか。つまり「自分を知るということを対象化できない」ということになるのではないだろうか。私が冒頭に書いた「知る」ということ、特に「自分を知る」ということについての一種の違和感は、この本にであってもう30年以上経てもなお続いており、「知る」ということについてはますますわからないというより、文中にあったアポリアの認知に留まったままで、「自己を知るとは」などと問うことはないし、「対象化」しないようになっている。しかし上記で展開される「知る側」「知られる側」の関係、あるいは「自己」と「他者」との関係において、鏡に反射した鏡のごとく無限に繰り返される思考を無意味ととらえず、私自身としてその関係性をそのときそのとき思考する、あるいは自身の経験に照らし合わせて内省する。このような「自分を知る」ということが「知れば知るほど知らない自分に気づく」などという短絡的な解釈よりも、「知る」対象が自己であることとそうではないこととを余韻を含ませることなく自分自身に突きつけること、それ自体に何かしらの違和感を正直に認めるような状態でありたいと考える。つまり無限に繰り返される思考は、結局はナンセンスに行き着きがちだが、単にそれが無意味な思考ではないということをもちたいと考える。「自分を知るとはどういうことか」ということに対して、「そんなことを考えるのは意味がない」とか、つまりこういうことだ、などと割り切れるほど一度も「自分」や「知る」ということを深く考えないことは思考の停止を自ら選択することに陥りかねないからだ。