タルコフスキーの映画で『鏡』か『ストーカー』のどちらだったか覚えていないが、冒頭でいわゆる吃音の青年が「治療」を受けるシーンがある。吃音は文学においては、三島由紀夫の『金閣寺』の主人公の特徴の一つとしても有名であるが、現実に自分の身の廻りでも存在した。その程度も軽いものから重度のものまであるが、いずれも言葉を発する際の何らかの障害となっている状態であるように受け止められる。しかし言葉を発する際に、なかなか適切な言葉が浮かばずに口ごもってしまうことは誰にでもある。それは特に子供の頃はなおさらであり、同年代同士よりは大人との関係で、いわば言い返せない状態となってやむなく言うことを聴かざるを得ない状態に陥り、そうして内部で不満が堆積していくようになる。それはその結果として吃音の状態を招くよりはむしろ長く失語的な状態に陥ることもあるといっていいのではないか。障害としての失語症(アフェイジア)というよりは一定期間の長い失語状態を招くとでもいうか、私は内面的にこの状態との闘いを受け入れてきたように思う。その闘いとは言葉を発する際に、適切な言葉を探し、選び、組み立てるという行為、思考のことである。
ロシアの言語学者ロマン・ヤコブソンは著書のなかで、「ことばにおいては、一定の言語的実体が選択されるとともに、それらがより複雑な言語単位へと結合されている。語彙レベルでは、これは一目瞭然である。話し手は語を選択し、それらを、自分が使う言語の統語体系に従って結合し文にする」と書いている。この文のみではいかにも当たり前のことを言っているようにみえる。彼によると「言語記号はどんなものもこの二つの配列の様式をもつ」とし、結合については、「どんな記号単位も同時により単純な単位にとってのコンテクストとなっている、および・またはより複雑な言語単位のなかで自身のコンテクストを見出す。そのため実際に言語単位を群にまとめると、つねにそれらの単位はより上位の単位になっていく。結合とコンテクスト化は、同じ操作の二面にほかならない」とし、選択については「交替要素のあいだの選択は、ある交替要素を、ある点では等価であり他の点では異なる別の交代要素の代わりに用いることができることを前提にしている。実際、選択と代置は、同一の操作の二面である」としている(文中の引用は平凡社刊『ヤコブソン・セレクション』より)。
諸記号は互いに結びつき、内部にコンテクストを構成する。また記号は等しい物と交換され、異なるものと交換され、さらに結びつきを選択しながら、あらたなコンテクストを構築する。幼いころから無意識のこの行為、思考を試みながら、挫折を繰り返し、頓挫し、また人によっては囚われの身のように自分を縛り、失語症のように内部に破滅的なコンテクストを閉じ込めてしまう。ヤコブソンは「失語症」について、その障害のあらゆる形式は「選択と代置の能力」か、「結合とコンテクスト化の能力」のいずれかの多少なりともの「損傷」としている。「選択と代置の能力」の損傷は「メタ言語的操作の低下」とし、「結合とコンテクスト化の能力」の損傷は「言語単位の階層制を維持する能力の損傷」とし、前者を「類似性関係」、後者を「近接性関係」、それぞれの抑制とし、「隠喩は類似性障害と相いれず、換喩は近接性障害と相いれない」としている。以下にこの「隠喩」と「換喩」について著書から抜粋する。
『言説は、二つの異なった意味的回線にそって展開しうる。すなわち、ひとつのテーマは、類似性を通してか、近接性を通してかのいずれかで、もうひとつのテーマへと移っていく。それらは、前者の場合は隠喩的方法、後者の場合は換喩的方法と名づけるのが、もっとも適当であろう。両者はそれぞれもっとも凝縮された表現を隠喩と換喩に見いだしているからである』。
ヤコブソンは類似性関係と隠喩的方法、近接性類似と換喩的方法を結びつけて、失語症はどちらか、あるいはどちらもが制限される状態であると説いている。つまり「メタ言語的操作の低下」は隠喩的方法において、「言語単位の階層制を維持する能力の損傷」は換喩的方法、それぞれの抑制と言い換えることができる。
会話の中で、ある単語に対して反応する場合、例えば「今日」という単語に対して、「今日は疲れた」、あるいは人によっては「TODAY」というタイトルの曲を連想したり、または「明日」や「昨日」といった「時間」を連想する。そうして発生したそれらが無意識に互いに反応し合って、内部で自分なりのコンテクストを構築する。内部で隠喩と換喩が交錯しながら会話が成立し、発展する。しかし言葉に異常に執着するような時期にその言葉ひとつにとらわれ、隠喩か換喩のどちらか一方にのみ突き進んでしまうということがある。また一つの単語の意味を深く考え込み、あるいは「本当にこの言葉は適切なのだろうか」と考え込んでしまうと、その先の会話がおかしなことになるか、あるいはまったく成立しなくなってしまう。そうして会話をすること自体を障害に感じてしまうということに陥る。しかしそれはある一時期、そういう経験を経て、その呪縛のようなものから脱すると、必ずしもその失語的期間は無駄とはいえず、むしろ有益であったことに気づくことになる。よく口八丁手八丁や軽々しく言葉を使う人を見かけることがあると思うが、表面的にはともかくコンテクストをよく吟味して、自分なりの言葉の置き換えと解釈をすることを通して、新たなコンテクストを発掘する操作ができるようになれば、個人的には会話における失語的状態に陥るような心配は必要ない、と自分に言い聞かせるにはかなりの時間を要した。