TEXT 「作る人は自然存在ではない」

映画『燃えよドラゴン』の中でブルース・リーが自らの哲学を述べるシーンがある。有名な『Don’t think !』のシーンではなく、ディレクターズカット版で本編から削除されたシーンでの師との応答の場面である。師から『究極の技とは何か』という問いに対し『型をもたぬこと。優れた闘いとは遊戯のようなもの。しかし真剣に闘うべきもの』、続けて『敵が押せば引き、引いたら押す。好機が訪れても“私”は攻撃しない。流れに従うまでです』と答える。ブルース・リーは中国人ではあるが、アメリカ生まれでワシントン大学の哲学科を卒業している。専攻など詳細は知りえていないが、おそらく西洋の思想・哲学を習得する一方で彼は自らの思想を武道、少林寺を通して確立させたと推測される。学問が彼の思想に影響を与えたというよりは、武道家でありながら大学の哲学科へ向かわせた彼の志向そのものが、彼独自の思想を生み出すに至る強い意志を示している。この映画でのシーンによる彼の思想には、力があるものがその力(時にその力が凶器にさえなる)を誇示するのではなく、いかに制御するかということが含まれているように思われる。私たちの身の廻りでは、それとは反対に力を見せつけ、それを強引に押し付ける情景がいたるところで見受けられる。その力に説得力、理屈があってもなくても、あるいはそこに政治性があってもなくても、あるいは「そこには全く何の力もない力」といったもの、そういう「力」を様々な場面で振るう、あるいはそれを受けるということを多くの人が経験する。そしてその状態は普通化、日常化され、「力」の行使に慣れてしまっている。生活においても、仕事においてもそういえる。とりわけ仕事においては、利益、あるいはそれなりの企業にとっては貢献といったものを生み出すこと、成果が日常的に求められる。つまり何かを「作る」、「新しい発想をする」などといったことが求められる。

19~20世紀の思想家、田辺元は「力」について著書で書いている。

『他を作り変えるとか他を新しくするということは、かえって相手方を生かして、相手方を通じて、相手方自らが自らを新たにするように仕向けるということでなければならない』(岩波文庫『田辺元哲学選Ⅲ』より)。

田辺は「作る」という行為の中に「他者」という媒介をもちだす。他者を生かし、他者が自らを新たにするよう仕向ける。これは「私」自身が一人で力を行使するのではなく、他者との関係で、「彼」に力を託し、「彼」が力を発揮するということにつながる。そしてさらに「彼」は別の「彼」に力を託す。そのように「力」は広がり、「私」の容量をはるかに超えた「新」を生み出す「力」につながる。田辺の思想を穿ち、自分はそのように解釈したい。さらに続けて以下のように同書の中で書いている。

『力ずくで無理やり、へし折り押し曲げて自分の思うように作るということは真に具体的な意味において作り変えるとか創造するということではない。作る人というものは、もはや単なる自然存在ではない筈です。自然はどこまでも内在的な原理によって生成変化している。しかし作るものはそういう自然に対立して自然を支配することができる原理をもつものでなければならない。自然を支配することのできるような自己でなければならない。しかし自然を支配するといっても、それはわれわれが勝手に自然を支配するのではない。自然を支配するものはまず自然に従わなければならない。自己を自然に与える、自然に委ねることによって自己を媒介にして自然が新しく変わってくるということがすなわち私が自然を作り変えるということなのです』。(中略あり)

「作る人」という言葉を用いて、その彼は「自然存在ではない」とされ、そして彼は「自然を支配することができる自己」であり、「自然に委ねる」ことが大事であるとする。つまり先述した「他者」とはここでは「自然」に置換されている。「私」が力を発揮し「他者」である「自然」を生かし、「自然」が自らを新たにする。そしてそこには「力の関係」があるとする。

『力は不思議なもの。力というものは反対が、抵抗がなければ現れない。そこに不思議なことがある。力というものはいわゆる力ずくで、強い方が弱い方を滅却してしまおうとする、それが力の本性。しかし反対の力、抵抗を潰してしまったときには、同時に自分も無くならなければならない。だから力が働いているということは、力が自分自身抵抗を受容れているということがなければならない。抵抗を潰してしまって、反対を押切ってしまったら同時に自分の働きも止むのです。だから力学的な力の存在として自分があるということは、いつでも抵抗、すなわち自分に反対するものを認めてかかり、それを許しておくということがなければならない』。

田辺は「力」とは不思議なものであると前置きし、反対や抵抗があって力が出現し、つまりそれがなければ「自分」もなくなる。すなわち「自分」は反対や抵抗を受け入れなければ「自分」(の働き)もない。そして反対や抵抗を認めるということが大事なことだと説いている。

ブルース・リーに戻ると、彼の哲学、あるいは武道には、一般のスポーツにはない特殊な関係がある。一対一において、自己と他者は単に闘う関係ということだけではなく、まして単なる勝ち負けということが力の証明ということでもない。他者がいてはじめて自己があり、他者がいなければ、すなわち自己にとって反対の者がいなければ関係(試合)は成り立たない。だから試合が終わっても互いに礼をし、相手を敬う。例えば日本の相撲がわかりやすいが、勝敗は白星、黒星で表わされる。これは勝ちが白で負けが黒であることは間違いないが、むしろ白と黒は一体であり、「陰陽」に置き換えて考えられる。あるいは光と影ともいえる。光がなければ影もない。誰かにスポットライトがあたるということは、そこに影ができる。しかしそれは悪い意味の影ではなく、結局はその人を支える影の存在が浮き彫りにされるということにつながる。ブルース・リーは『敵が押せば引き、引いたら押す。・・・流れに従うまでです』という。この思想の根底には究極的には「他者」、「自然」に力を発揮させるという関係性を孕んでいるように思われる。

田辺の言葉を続けると、『自分を否定して、そうして自分に反対する相手方を許しておくということがある限りにおいて、同時に自分が力であることができる。人を制するとか、物を圧迫するとかいうような力というものは、単にそれだけでは本当の力ではない。真の力は何かといえば、自己を制する自制の力が本当の力である』(中略あり)。

武道に限らず、『自己を制する力が本当の力である』という田辺の言葉を、いつでも胸に留めておきたいものであるが、なかなかそうならないのが現実なのだが。

TEXT 「第三項排除から運動としての貨幣」

『自然とは運動変化あるいは変化一般の始原である』と、アリストテレスが『自然学(第3章第1章)』の冒頭で書いている。この章の眼目は運動変化が2つの在り方で規定されるということ、すなわち「そのものの在り方を発現しきった状態であること」、そしてもう一つはそれとは対称的に「別の在り方への可能性をいまだ発現しえていない状態であること」ということを論述している点である。そして前者を「終極実現態」、後者を「可能態」と名づけている。一方別のアリストテレスのテキストでは「蓄財術」について、財の使用には二通りの仕方があるとしている。つまりそれ自体として使うその仕方が同じではないというのである。それを「固有」と「固有でない」と二つに区別している。具体的な例として「靴」を取り上げ、靴を使用するにしても、『靴を必要とする者に貨幣や食料と引き換えに靴を与える者でも、靴を靴として使用しているからである』(『』内岩波書店刊『アリストテレス全集17』より)としている。靴の製作は貨幣や食料との交換のためではなく、靴を履くために制作しているはずである。そして『蓄財術に属する売買術が自然にもとづくものではないことは明らかである』としている。

この「運動変化」と「蓄財術」に関するテキストの関連を,倫理学や哲学史が専門の学者、熊野純彦氏が『マルクス 資本論の哲学』(岩波新書)という本のなかで取り上げていて、経済学の立場ではなく哲学の視点でマルクスを捉えている。マルクスに関しては、個人的には若い時に第一巻(岩波文庫3巻分)を読んで、どうもよくわからなかったという印象だが、今その本を開いてみるとアンダーラインとそれらの文節を結びつける記号やメモ書きなどがあって、理解しようとした痕跡がある。つまり読んだ当時は丹念に読み込めば理解はできていたということはわかった。しかし一方でマルクスがこの本を書いてもう150年以上経ていてもなお読まれていて、あるいは例えばマルクス・レーニン主義という言葉から政治、とりわけ革命との関係からもいまだに様々なテキストで引用されているのは何故だろうとも思ったのも事実だ。『資本論』は副題が経済学批判ということからも、実践としてのテキスト(ロシア革命におけるマルクス・レーニン主義)であるとともに思想書としても取り扱われる。なぜ今でも『資本論』なのか、という漠然とした思いでいたなかで、この本に出会った。

今の時代、広い意味での貨幣の変化は急で大きい。電子マネーはいうまでもないが、仮想通貨まで存在する。仮想通貨の発想は昔からあったようだが、その問題も多いのも報道を見て誰もが知っている。またマイナーでは地域通貨のようなものもあり、そのどれも信用を失えば何の意味もないものに転落する。経済学者の岩井克人氏が『貨幣論』(ちくま学芸文庫)のなかで、『壱万円という数字が印刷されている一枚の紙幣をながめてみよう。それは、もちろん日本中どこでも一万円の価値をもつ貨幣である。だが、今度はその一万円を貨幣としてではなくたんなるモノとしてながめてみよう。そうすると、それはその立派な印刷にもかかわらず、それ自体としてはなんの価値ももたない一枚のみすぼらしい紙切れとして立ちあらわれてくるはずである』と書いているように、貨幣はその価値を失えばたちまち全く何の価値をもたないものに転落する。観賞用にでもなくトイレットペーパーにも使えない。(ちなみに本書でもマルクスの資本論が下敷きとなって論が展開されている)。

一方、故今村仁司氏の著作からキーワードとして「第三項排除」という思想があげられる。貨幣とモノとの交換の際に、第三項におけるスケープゴートの存在として貨幣を捉える考え方。また最初に戻って、アリストテレスの自然学と政治学から発展して、貨幣を「運動」として捉える考え方。この二つはマルクス、あるいは資本論を経済学ではなく思想・哲学として捉える考え方であろう。「運動」として例を挙げた「靴」を「貨幣」に転化させて考えると、靴は靴の機能をもったものとしてつくられるのに対し、貨幣は貨幣のためにあるのではなく、出来上がった靴がその人に機能的に満足された場合に交換可能な媒体、つまりスケープゴートとしてはじめてその機能を発揮するという点で「運動」においては「可能態」が「終極実現態」へ移行する、つまり運動の中にあるということがいえる。自然における運動はこの貨幣のみでなく、様々な状態で起こりえる現実がある。つまりそこにあるものが、そこにあるだけでは機能を発揮せず、何らかの状態にはまったときにのみ「発現」する。アリストテレスの『自然学』のなかでは、建物の建材についてもわかりやすく例をあげている。建材は建物の一部となって初めてその価値を発揮した状態になる。しかし建材はスケープゴートとして製作されたものではなく、その意味で貨幣は極めて自然の状態ではない状態が自然の状態であるし、その運動状態が極めて激しいモノであることが貨幣の特殊性を際立たせているといえる。