TEXT レクチュール1題

なぜ今までこういう本に出会わなかったのか、と思わせるような経験はそう多くはない。黒川創の編集による『〈外地〉の日本語文学選2:満州・内蒙古・樺太』という本を読んだ。前回のように最近再読した本で『インドへの道』が収められた『E.M.フォースター著作集』第四巻に挟まれた「月報」に触れたことがきっかけだった。「月報」には黒川創による文章で、谷譲次の『安重根』という戯曲を読んで感じたことが書かれていた。彼は室譲二による優れた谷譲次論『踊る地平線』の一節を以下のように要約し、続けて日本文学についてのある問題点を指摘している。

『安重根は、近代・現代の日本人作家にとって、もっとも表現しにくい場所に位置してきたという。もし、日本人作家が、安重根に一体化することで伊藤博文・日本を全否定しようとするなら、そこには欺瞞が滑り込む。しかし、日本の立場を作家が全部背負って、安重根と朝鮮を否定することにも、文学の自立性はありえない。こうした困難は、かつての植民地支配に対する受け止め方を「謝罪」と「恐縮」ですませてきた、“戦後民主主義文学”のなかでも続いている』。

黒川はこの問題の所在を韓国のある文芸評論家の一文からはっきりさせられたという。それは『近代日本の文学が、フォースターの『インドへの道』にあたる作品を残すことがなかったという点、そしてもし文学が「個人単位または民族単位のもっとも繊細な触覚の一つ」、すなわち「モラルの尖端」だと言えるなら、それは加害というその事実自体によって、「モラルのある側面の崩壊または拘束」から免れられないはずだという点』である。つまり『侵略された側の「傷」とは別に、支配した側の「傷」、それに対する日本文学の想像力の欠如』に気づかされたという趣旨が、この数ページしかない月報に掲載されている。(『』内は月報から引用)

黒川創はこの問題への対処の一つの試みとして戦時下に「外地」と呼ばれた地域で書かれた日本語の文学を再発見する観点から、シリーズとして三巻分の選集としてまとめ上げている。私はその一つ、第二巻目にあたる「満州・内蒙古・樺太編」を読んだ。最初に「なぜ出会わなかったのか」ということに対して、いわゆる戦争文学に興味がなかったわけではなく、むしろ多くの作家、作品を読んできたつもりだった。例えばまとまったシリーズで十年くらい前に刊行された集英社版の「戦争と文学(全20巻)」は、多くの作家による、テーマ別にうまく選択されている。当時毎月配本され、そのときにすべて読み切ったが、先に指摘されたような視点で選択された作品はなかったように思うし、あるいはあっても気づかないということもある。例えば『〈外地〉の・・・2』に収録されている平林たい子の作品は『敷設列車』というものだが、『戦争と文学』シリーズでの「戦争の深淵」というテーマの巻で他の作品が掲載されている。実際この作品よりも『敷設列車』はこの巻に掲載された14作品の流れの中で、あたかもその一編であるかのような感覚で読むことができ、より胸に迫るものがある。この作品が発表されたのは1929年で、平林は1924年に約十か月間大連で過ごしたが、彼女が作家として満州に渡ったわけではない。彼女の生涯をここで要約するにはあまりにも無理があるので省くが、黒川の解説を引用すると『実作にあたっては、彼女が見知っていた馬車鉄道の苦力の労働と、鉄道の敷設というジャーナリスティックな素材とを、統合しながら創作されたものだろう』と書かれているように、現地での体験が作品に現実味を増している。

最初に取り上げた谷譲次の『安重根』については、まず安重根とは1909年にハルビン駅で、当時韓国統監であった伊藤博文を暗殺した朝鮮人であるが、黒川創は同月報で『この戯曲が私には面白かった。谷譲次は、ここで、いわば「英雄」ではなく「弱い」安重根、「憂鬱な」安重根を描いている。その弱さを通して「人間化」された安重根を描いている』と書いている。実際この戯曲を読んでみてそれがよく伝わってくる場面がいくつもある。安重根の台詞に以下のようなものがある。

『僕が伊藤を憎むのも、つまりあいつに惹かれている証拠じゃないかと思う。何しろこの三年間というもの、伊藤は僕の心を独占して、僕はあいつの映像を凝視め続けて来たんだからなあ。三年のあいだ、あの一個の人間を研究し、観察し、あらゆる角度から眺めて、その人物と生活を、僕は全的に知り抜いているような気がする。まるで一緒に暮らして来たようなものさ。他人とは思えないよ。この頃では、僕が伊藤なんだか、伊藤が僕なんだか・・・』(『〈外地〉の日本語文学選2:満州・内蒙古・樺太』黒川創編 新宿書房刊より)

私はこの戯曲の中で最も印象深く、またより現実感が伝わってくるのが、冒頭の場面で、ウラジオストックの田舎の朝鮮人部落で安重根が演説をしている場面である。周りに農民が集まり、ぼんやりと、倦怠そうに路上に立ったりしゃがんだりしているという設定で、安重根が力説している最中、女性や青年、子供などの個人的な会話が行き交っている。ある青年が『水か。待ってた。飲ましてくれ』と言うと女がそれに対し『冗談じゃないよ。お炊事に使うんだから』と返す。それに対しまた青年が『咽喉が乾いて焼けつけそうなんだ』とまた返す。こういったやりとりが、安重根の演説とは関係なく飛び交い、それでも彼は演説を止めず、またあまりにも雑音が多くなったときなど所在なく静まるのを待つ姿などが描写されている。戯曲は創作ではあるが、安重根という一人の人間像がくっきりと浮かび上がっている。それに加えて当時日本の占領下だった満州の社会の日常の一面も、安重根とは関係ない、政治的にも無関心な一般の農民の姿も、声を通して伝わってくる。今挙げたような例はこの戯曲を通して全場面で繰り広げられる。それは暗殺を企てる一人の狂気な孤独な人間像ではなく、彼とその周りの人たちの様々な声の上で、彼の姿が彼の意志の強さよりはむしろ弱さや周囲の一般の農民の感覚、人間らしさというものと同化している感覚すら抱くことができる。しかも本書では黒川創による細かい注釈があり、また後半は彼による詳しい解説があるため、当時現地で使われていた言葉や時代背景、歴史、あるいは作家自身のことなど知ることができる。それも各作品の面白さを高める重要な役割を果たしている。

本書での他の作品で樺太を舞台とした譲原昌子の『朔北の闘い』では、日本領時代の南樺太でのアイヌの暮らしの一端を知ることが出来る描写がある。

『柳やたもの茂った川っぷちからいつか虎杖の蔽い被さっている野の道へ出た。(中略)全くうんざりするほどの遠い道。いつかの日の暮れ方に外川の爺っこに連れられて帰った事のある道だ。この内淵川畔に、魚を捕ったり獣を撃ったりして暮らしているアイヌ達の所へ、部落の和人達は焼酎や黒砂糖を携えて行っては、彼らの鮭だの毛皮だのと取り替えるのであった。内縁川における鮭や鱒の漁獲は、樺太庁の特殊な土人保護法によって彼等アイヌにのみ許されてあった。しかしアイヌのいわゆる和人達は、みすみす指を舐ってひっこんではいない。そこで密猟が行われるのであった』。

文中の「和人」は「わじん」ではなく「しゃも」と発音され、アイヌ語でシャモルンクル(隣国の人)の略語で、非アイヌ系の「日本人」を指して言う言葉であるということも注釈されている。

また満州・内蒙古編では日向伸夫の『第八号転轍器』では、『なあに構うもんか、満語がいけねえんなら露西亜語はどうだ。なあリカベさん、その方がおめいにも解っていいだろう』という台詞のように、中国語のことを「満語」と言い、中国語という呼称は一種のタブーであったことも注釈されている。

同じ満州・内蒙古編で長谷川濬(しゅん)の『家鴨に乗った王』では、冒頭の書き出しが『王(ワン)は乞食である。王は生まれつきの乞食で、彼には両親は勿論、兄弟、その他肉親と名乗る者は一人もなく、文字通りの天涯孤独である』で、それに続いて王の身なりや生活など描写される。一見こういった書き出しだと、その後は様々経験を経ながら成長し、貧しさから脱却し、地位や金など何かしらのものを獲得してゆく一種の教養小説を思い浮かべることもあるが、これはそれに当てはまらない。変わらぬ王(ワン)の姿が映像として残る。黒川の解説によると、作者は満州映画協会の社員だったこともあり、『映像的、シナリオ的なイメージが、この作品のモダンな雰囲気を支えている。ことに終盤、王が末期の幻想に入っていくところで、家鴨の丸焼きのシルエットが、一転、よちよち歩きはじめるくだりは、一場のアニメーションとして描かれていると言ってもいい』。

他に詩もあり、また占領時の現地の暗い背景のなかでも、そこで暮らす人々、言葉が生き生きと描かれている作品ばかり収められている。

本書の編纂の基本として、植民地の現地人作家が日本語で書いた文学作品であること、植民地及びそれに準ずる地域に居住していた日本人作家の文学作品であること、植民地などへの滞在は一時的だが、その経験が作家の文学に深く根づいていると思われる文学作品、という三つの原則から構成されていることが編者である黒川による序文で明らかにされている。この第二巻の「満州・内蒙古・樺太編」の他、第一巻で「南方・南洋/台湾編」、第三巻の「朝鮮編」という全三巻でまとめられている。私は第一、三巻は未読だが、近いうちに読んでみたいと思う。

私はここで過去におかした日本の過ちと、現在におけるアジア諸国との向き合い方について何かを発する意図はない。戦争なら戦争というテーマにおいて、『〈外地〉における』という視点は、「与えられる」まで意識の上に上ってこない。日常生活において大きな出会いというのは、振り返ればいくつかあるが、それが人であれモノであれ、それによってモノの見方が変わったというより、それまで何か欠けていたものに気づかされるという程の出会いもある。本との出会いはもちろん偶然の場合も多い。今回取り上げたような「月報」という、ほとんど読まずに栞代わりか無視するか捨てるかくらいの扱いだったものから、その関連をたどって一つの意味に行き着くことも経験する。このような些細なことから自らの意識を引き上げるような出会いというものを、本から得られることが多いということも改めて実感した。

TEXT 痩せた「便宜的」デケイド

近年読む本の半分近くは再読で、しかも30年以上前の学生時代に読んだものも多い。D.リースマンの『孤独な群衆』もその一つである。今になってこれを手に取ったのは、これも学生時代に読んだ山崎正和の『柔らかい個人主義の誕生』と『曖昧への冒険』を最近再読し、前者でこの『孤独な群衆』が取り上げられていることがきっかけである。『柔らかい個人主義の誕生』は、前半は『おんりぃいえすたでぃ‘70』と題されていることからわかるように日本版『オンリー・イエスタディ』の試みである。『オンリー・イエスタディ』はF.L.アレンによるアメリカにおける1920年代のアメリカ史について書かれたものであるが、『おんりぃ・・・』は書かれた当時の70年代の日本の同時代を扱っている。この章で日本の60年代、70年代という十年単位、つまりア・デケイドについて触れ、20世紀の先進国における、十年ごとの時代としての社会のとらえ方の関心の強さを論じている。ちなみに『オンリー・イエスタディ』は1920年代の十年間、その後発表された同じ著者による『シンス・イエスタディ』はアメリカの1930年代の十年間を扱っている。『孤独な群衆』はアメリカで1950年ころ出版されたもので、当時のアメリカ社会を、「性格」、「政治」、「自主性」の三つの章に分けて分析し、「他人指向」と「内部指向」をキーワードに、各章でそれぞれに該当する対象の比較で主に構成されている。著者が日本版の序文で、「アメリカ全体のことを書いているわけではないし、日本に当てはめて捉えてほしくない」と書いているとはいえ、それでも世界で現在でも版を重ね、読まれ続けているのは、読者がやはりそこに一定の普遍性を見いだしている故であろう。

20世紀はたしかに年代ごとの特色があり、また日本は世界の流れとは異なる特色もある。それらは周知のことでもあるので詳述しないが、では今世紀に入って2000年代、2010年代という各デケイドをそれぞれ一言で言い表すことができるだろうか。20世紀の動向とは異なる新たな世界的な問題も多く表面化され、また別次元の情報化の明暗も顕著になっている。これも誰もが周知のことである。では十年という単位を今世紀の現在で当てはめるのにはどうかというと、そこには少し違和感があるように思う。それにしてもなぜ20世紀はデケイドという「時代区分」がしっくりくるのか。いやここで「なぜ」という問いを発するのではなく、現実にそれが「機能」していたという事実から何が考えられるだろうか。

前述の『曖昧への冒険』で山崎正和は「歴史主義」という言葉から歴史のとらえ方について書いている。つまりランケとマイネッケ(両者とも歴史学者)によって名づけられた「歴史主義」とカール・ポパー(哲学者)によるヘーゲルとマルクスを代表とする新しい「歴史主義」を比較して、前者を「水平的」(多元的、個別的歴史像)、後者を「垂直的」(一元的、統一的歴史像)としている。つまり前者は『個々の歴史上の時代に最大限の独自性と固有性を認める立場』であるのに対し、後者は『歴史をひとつの全体として捉え、個々の時代をその一連の発展過程の段階とみなす立場』と捉える。山崎は本書で『「歴史主義」者は人間が第一義的にこの時代の子であることを主張し、行動の道標も判断の尺度もすべて具体的に時代の内側にあることを強調』していると書いている。先に「機能」という言葉を用いたのも「歴史主義者」に向けた言葉である。「歴史主義者」という言葉が本当に該当するものがいるのか、それが「水平的」であれ「垂直的」であれ、検証可能かどうか不問だが、たしかにその時代の枠組みから抜け出したり、時代の影響を全く受けずに行動したりすることは誰もできないだろう。思考や行動の背景に時代性があるのは否定できない。しかし例えば今年2020年になって、個人的にはともかく、社会として「これからの十年は何をしようか」と考えなければならない立場の人はそう多くはないのではないだろうか。あるとすれば顕著化した地球温暖化の弊害に向き合いながら各国がどのように進行の阻止のための対策を立て実行するかという世界的な取り決め、そして約束を果たしていくかということに対面する為政者、また彼らだけでなくもはや人類全体、特に先進国の人間、彼ら(われわれ)自身が該当し、大きな、また世界共通の克服しなければならないテーマとして前に立ちはだかるが、ただそれは時代区分としてのデケイドとはあまり関係はないし、これからの十年何をしようかなどといった悠長なテーマではない。時代区分は山崎の言葉を借りれば『人間が技術的にひとつの目安として有効でもある』。しかし『そうした時代概念は人間が生きるための便宜的な手段ではあっても、生きるための気力をかきたてる、精神全体の原動力となるものではない』。今振り返って2010年に、21世紀に入ってからの十年間のことをある特定の特色ある区分として考えた記憶はないし、一つの節目として捉え次の十年に向かって進む一歩などと考えることもなかった。それは個人的に学生時代を80年代から90年代に過ごした期間においても同じで、当時世界情勢は劇的に変貌し、それが精神的に、思想的に次に進む方向の指針になったということはない。つまりその渦中においてその時代を「垂直的」に俯瞰し、時代区分として確定化することなどできないし、あるいはその時代の雰囲気みたいな漠然とした空気を感じているに過ぎないなかで、来たる次の時代への気力として「時代性」が押し上げるということは少ないのではないか。

山崎正和は同書で次のように書いている。

あまりにも技術的な思想は価値観について無邪気であり、それゆえにかえって特定の理念を標榜する思想よりも一層熱狂主義に傾くという逆説を見せる。いつしか手段が目的となり、作業計画が至上命令と化して、人間の精神全体の大動員が進められたのであったが、現代はこの疑似的な熱狂主義の急速に冷却した時代だといえる。(『曖昧への冒険』新潮社刊より)

これは70年代後半から80年初めのころの文章である。つまり60年代、70年代の「熱狂主義」の時代と訪れた冷却時代を言っている。90年代は世界的にも情報化が急速に加速し、世界の勢力の構図も変化し、かつてのエキソチシズムは消滅し、世界共通の負債をかかえる一方でゆきすぎた愛国主義も横行している。60年代の高度成長期に馬車馬のように働いた社会が70年代で新しい価値を手にし、次のデケイドで消費を謳歌したという「機能」を経て、「では次の十年は」という意味でのデケイドはあまりにも無邪気な思考だ。

本書で山崎は以下のようにも書いている。

・・・交通災害も、過度の競争の弊害も、全体の社会問題としては将来に解決の道があるとしても、それがけっして自分にとって本質的な救済にはならないことを、現代人は感じ取ってしまったといえる。災禍の総量が減れば減るほど、例外的な奇禍にみまわれた個人は一層不幸なのであり、しかも、その犠牲者がほかならぬ自分である可能性は、誰にとってもいささかも減じたわけではないからである。そして、それを感じ取った人間は、もはや、時代の共同の理想に酔えないのはもちろん、たんに共同の苦痛をわけあうことを通じてすら、ひとつの同時代に参与して生きている実感を覚え難いのは、当然であろう。

今この80年当時に書かれた文章を読んでいると、現在「災禍の総量」は減るどころか、年々増加し、国内だけの問題ではなく、世界中で起こっている災禍のますますの脅威にもはやなすすべもなく、どこかで誰かが何かを毎日訴えている。この脅威は誰か特定の不幸ではなく、万人の不幸に陥っていることを感じ取っていながらこの時代の理想のたてまえと思惑、駆け引きにため息をつきながらも、それを次の瞬間には忘れ、同時代性とは関係ないレベルで同じことを繰り返しているのも現実だ。

今世紀に入って特に、いわば前世紀的デケイド観みたいなものに対する意識が薄くなってきても、前述した「垂直的」に上昇する「歴史主義」の構図のなかで、危機的な時代の位置づけをし、自己の存在との連関で日常の些細な自他の行動に各自が敏感にならざるをえない時代であることはいえると思う。それはもはやいわば「便宜的」なデケイドとの必然でなし崩し的な決別であるともいえるのではないか。