TEXT 「音楽の状態を憧れる」-6

アメリカのオリジナリティ

音楽を聴けば、嫌なことも忘れる、などということはないが、個人的なことでも、また社会的なことでも、心配事があるときにはなおさら、それらが傍らにありながらも音楽は一時心に潤いを与えてくれる。

ピーター・バラカンの言葉を借りれば、とにかく『変』なのだ。スティーリー・ダンの曲を思い浮かべると、この『変だ』という文字が浮かび上がる。初めて聴いたのはもう20数年以上前のことだが、72年にでた最初のアルバム『Can’t By A Thrill』の1曲目『Do It Again』に対しては、この『変だ』という印象はなかったし、その後聴いている間はこの『変』という意識は頭にない。しかし他のバンドの曲との比較で考えると、たちまちこの『変』というイメージが湧いてくる。何が変なのかということを説明するのは難しいが、それはメロディラインやその展開、あるいは独特なボーカルとの関係など、よく考えると何か変だという程度なのだ。しかしその一方でこれだけ長く聴き続け、私にとって最も好きなバンドの一つにまでなっているのは、それは非常に心地よく耳に響くということともに、強力なオリジナリティを感じるということからくるのだろうと思う。

彼らの特徴が最もよくあらわれていると私が感じるアルバムは73年の2作目『Countdown To Ecstasy』で、これは最も好きなアルバムだ。彼らの曲をもし『会話』に例えるとすると、それは「自分が何か疑問を投げかけ、それに対して自分自身が曖昧な答えをする」というような奇妙な印象をもつ。この2作目のアルバムの2曲目『Razor Boy』は特にこのような印象が強く、また彼らの個性が最もよくあらわれている曲のように感じる。また他の印象としては、ひとつの曲にいくつかのメロディが混在し、それらが互いに本来違う曲のメロディであるにもかかわらず、無理なくつながり、全体としてまとまった感じを与えているような印象だ。それが最も顕著に、魅力的に、また中毒的に聴かれる曲に同アルバムの最後の曲『King Of The World』があげられる。ボーカル部分の最後は、その後絶対に忘れられない印象を残す。このアルバムはあまり商業的にはよくなかったらしいが、ドナルド・フェイゲンはもっとも好きなアルバムだと後に述べているらしい。その後もフェイゲン、およびウォルター・ベッカーの主導でアルバムが製作されたが、共通するのは先述の『変だ』という印象から、それが「中毒性を帯び、癖になる」という経験に変化し継続されるが、一方でサウンドに注目すると、静かだがその緻密さ、テクニックは、2人の妥協を許さぬある確信みたいなものが感じられる。難しい演奏を要求されたスタジオミュージシャンたちはその後、80年代にはほかのバンドでも力を発揮していくようになる。この独特の彼等の『音楽』は、イギリスのバンドとはまったく違った個性を発揮している。

私がこれまで音楽のことで書いてきたロック・ポップスでは、そのほとんどがイギリスのものだったが、アメリカのロック・ポップスもよく聴く。といっても、そのほとんどは60~70、80年代のものだ。脈絡はないがジャクソン・ブラウン、ザ・バンド、レオン・ラッセル、マーヴィン・ゲイ、ジミ・ヘンドリックス、グレイトフル・デッドなど今でもよく聴いている。80年代前後は時代の変化に伴い、音楽も長尺の曲は敬遠され、MTVなどビジュアルも伴った新しいメディアも意識され、またドラムマシンや打ち込みも多くなったが、それでもTOTOなどは今聴いてもあまり古さは感じない。60年代最後の69年はビートルズの『Abbey Road』が出た年だが、この年は歴史的名盤が多いといわれる。またウッドストック・フェスティバルも69年だ。ジミ・ヘンドリックスのウッドストックのライブアルバムは、その音響や録音の良さに驚かされるとともにヘンドリックスのどのスタジオアルバムよりも彼のギターの醍醐味が伝わる名盤である。またこの年にリリースされたアイザック・ヘイズの『Hot Buttered Soul』は、当時のLPレコードでA,B面それぞれ2曲ずつという構成で、アメリカでは珍しい長尺な曲が占めているにもかかわらず、大ヒットを記録した。それはそれまでのソウルの枠を超え、ジャズやポップスなどの領域を横断する「新しさ」が込められているということも大きな理由だろう。A面1曲目の『Walk On By』はバート・バカラックが作曲したものだが、64年にすでにディオンヌ・ワーウィックによるバージョンですでに大ヒットとなった曲だ。ヘイズのバージョンでは彼独自の世界観を醸し出している。しかしその一方で、バート・バカラックらしさが存分に発揮されているともいえる。アメリカ人のみならず多くの人の心に深く染み入る、郷愁を誘うような独特のコード進行とコーラスは、彼の作曲による他の多くの曲にも共通し、多くのカバーが存在する。例えば『The Look of Love』のような曲を思い起こさせる。彼もまたアメリカのオリジナリティの代表するような存在といえる。彼と似たような存在で、日本人の心に深く染み入るような作曲家を挙げるとすると、筒美京平がそのような存在にあたるように思う。特に私のような50代以上の人たちにとっては実感としてわかるだろう。バート・バカラックは2006年に『At This Time』というアルバムを出していて、エルビス・コステロやルーファス・ウェインライトなどがフィーチャーされた曲などもあり、聴き応えがある。とにかくバカラックらしさは健在で、しかし一方でサウンドはドラムルーピングなどプログラミングを駆使したデジタルデバイスと生のオーケストラがうまく融合した、バカラックならではの高度な専門領域を十分味わうことが出来る。このアルバムでもう一つの目玉はバカラック自身が作詞も手掛けているという点である。特に1曲目の『Please Explain』は『There was a song . I remember said ‘What the world needs now… Where is the love. Where did it go…』という歌詞で始まる。つまり『こんな歌があった。僕は思い出す。「世界に必要なのは・・・愛はどこへいったのだろう・・・」』と。これは65年に発表された、バカラック自身が作曲しハル・デヴィッドが作詞した曲『What The World Needs Now Is Love』のことを取り上げているのだが、バカラック自身が今この年齢、時代にあの時代のことを、半世紀を経て今度は彼自身の言葉で振り返り、そして問いかけている、『説明してくれ』と言っている、ということに大きな意味を含んでいる。しかしこのアルバムは決して郷愁としてではなく、今の最先端、誰も追いつくことができないほどの質の高さを堪能でき、私はこの年のベストアルバムとしてこの十数年よく聴いている。

ロックに戻すと、スティーリー・ダンと並び、ある意味『変』という言葉も当てはまる存在にトーキング・ヘッズがいる。しかし彼らの音楽の魅力を一言で言いあらわすことは難しい。フロントマンのデヴィッド・バーンの才能は、その知的で少し病的なボーカルとともに、独特なサウンドで発揮されている。『アメリカの』ということで書いてきたが、実は彼はイギリス生まれのイギリス人なのだが、幼少からアメリカに住んで、学生時代に知り合った友人たちとトーキング・ヘッズを結成したアメリカのバンドだ。彼らの音楽はブライアン・イーノのプロデュースの力は大きいが、それ以上にメンバーの個性は際立っている。特にどのバンドよりもいち早くアフリカのサウンドを取り入れ、エイドリアン・ブリューやロバート・フリップの参加などで個性的で先進的なアルバムを出している。しかしメンバー以外の力も大きいとしても、例えば特にティナ・ウェイマスのベースはもう一つのボーカルのように独特のベースラインを構成していて、これだけでも聴くに値する曲も多い。79年の『Fear Of Music』は、翌年の全編アフリカを意識した名盤『Remain In Light』につながるアルバムで、ミニマム的で先進的なアルバムとして、個人的に最もよく聴くアルバムだ。デヴィッド・バーンは87年の映画『ラスト・エンペラー』で坂本龍一らと音楽を担当しているが、メインの壮大なオーケストレーションの坂本による有名な曲とは全く趣が違う、もう一つの中国らしさを表現したバーンによる軽快な音楽も魅力で、ある意味この映画で彼の才能を再確認されたかたちとなった。2年前にソロのアルバム『American Utopia』を発表したが、これはそのままトーキング・ヘッズの新作としてもいいくらいの印象で、バーンの個性は全く変わっていないことを証明していて、非常によくできたアルバムとなっている。バーンだけでなくメンバー含めた彼らの都会的でアーティスティックな魅力はイギリスにはあまり見られない存在として、やはりアメリカのオリジナリティとして私は強く意識する。

 

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