以前新聞のコラムかなにかで、作家の井上ひさしだったと思うが、彼がかつて新聞の全紙面を一字一句残さず読んだことで気づいたことがある、ということが書かれていたことを記憶する。それは『(紙面の)言葉はすべて脅しの言葉(脅し文句)でできている』という彼の発言を紹介したものだった。「自分がそう思った」、ということに対してそれは個人の考えだから何を考えても自由なのだが、その発言すべてを承知していないということも踏まえても、井上ひさしが本当にそう考えたとするなら、そこには何か作家という職能の欺瞞のようなものを感じる。紙面の一部、例えばこの記事のこの政治家の発言に対して、あるいは記者のコラムの一部について、など部分を切り取っての発言ならわかるが、例えば読者欄の投書の内容にも「脅し」は感じられるのだろうか。4コマ漫画から「脅し」を感じるだろうか。作家という職業の人、為政者など言葉を重んじる人たちはその影響力を絶えず頭におくことが求められるのではないか。しかし一方、この発言の記憶を端緒に、この「脅し」ということを考えると、それはかなりの拡がりを展開する。
私の感覚としては、「日常生活」ということに関していえば、そのほとんどは「脅し」あるいは「脅し文句」で成立している、といっても言い過ぎではない。朝、目が覚めてすぐ、そして仕事が終わり就寝するときまで、それは成立する。目が覚め、まだ起きたくないと思っても、それは許されないのは多くの人が承知のことだ。なぜならそのまま寝てしまっては、会社に遅刻するか、仕事が遅れるからだ。出勤途中制限速度を大幅に超過して運転すること、バスレーンを走行すること。会社や組織での上司、顧客からの指示、依頼など。仕事が終わり帰宅し、ポストを開けると固定資産税の納付書が入っている。食事も好きなものを毎日食べるわけにもいかない。あまり夜更かしできず、いつもの時間に就寝する。これらのいわば生活の「日常」には、そのほとんどに「脅し」が内在する。つまり「もしそんなことをすると、こうなるぞ」・・・「遅刻すると・・・」、「固定資産税を払わないと・・・」、「好きなものばかり食べていると・・・」の続きの言葉は自明であろう。日常の大半はこのような状況のなかで過ぎていくと言っていいのではないか。この「脅し」という言葉に馴染めないとするなら、「仮言命法」と煙に巻く言葉を用いてもいい。カントの「定言命法」、つまり『意志のみを規定し、その際意志が結果を生むのに十分であるかどうかを問題にしない』に対し、仮言命法とは『作用原因としての理性的存在者の原因性の諸条件を、結果と結果をもたらす効力に関して規定する』こと(『』内はカント著『実践理性批判』(以文社刊)より)。上記で列挙した「脅し」の「主体」は何かというと、会社、国家、制度などであろう。例えば税金を払わなければ国が「罰」を与え、それでもそれに従わなければ国が強制的に、いわば認められた「暴力」を行使することができる。合法的に「暴力」、具体的で物理的な力を使うことがみとめられている。つまり力の「主体」は「脅し」の効力を知っているからこそ「仮言」が成立するといえる。またこの「仮言」が成立するための条件にそれを受け止める対象もまたその効力を承知していないと、この「脅し」としての仮言命法は力を発揮しないということになる。つまり「罰」も「合法的暴力」も恐いという認識を。反対に「定言」は無条件、すなわち「もし」ではなく、対象の結果を問わない、注目しない、ということであるならば、その「命法」とはどんなことが成立しうるのか。つまり対象がその効力を予見しえない事態、意志が結果を生むであるかどうかを問わないということはどういうものであろうか。経験的ではなくアプリオリにその表象をその都度現前させ、行動を判断することはかなり難しいことでもある。日常においては年を重ねるほど経験に頼り、露骨な「脅し」をうまくかわす一方で、その経験から事態を予測する能力が自然に身に着いてしまうのも現実だ。これらのことは何か姑息でやはり目に見えない「何か」に対して辻褄合わせ的な態度のような感覚になる。
現下のコロナ禍において、このウィルスに対しては世界的にも一致した感覚、恐れを抱いているだろう。程度の差はあれ、「もし人との接触が多ければ・・・」というのは、今の時点では一致した「脅し」にあたると思うし、その結果どうなるということも当然予測できる。つまり「脅し」は効力をもって発せられている。人の行動を制限する都市封鎖、あるいは自粛などで対策が取られてきたが、問題はそれが解除された時に、人は意外にもそれを素直に受け入れ、あるいは歓迎するという態度を、普通のこととして受け入れている。つまり解除されたから外出しても平気なんだ、という感覚。しかし何かそこに違和感はないだろうか。つまりウィルスを発生させ蔓延させたわけでもない国や権力側が自粛を要請しようが解除しようが、基本的にこのウィルスの恐さを認識していれば各個人が自ら判断し行動していいようなものだが、日本はもとより世界的にも、いや日本以外の国の多くが、あたかも敵が消えたかのように、自身の行動を緩めているような印象を受ける。マスクを外し、積極的にレジャーや会合を楽しむ姿が報じられる。日本ではたしかに自粛が解除されると、個人の意志とは関係なく、それまで在宅勤務だったものが、会社の命令で出勤ということになり、満員電車の生活に戻るということもある。オンラインで授業を受けていたものが登校ということになる。それはその対象者の意志というより、やはり「力」ある者の意志が働いて、対象者はそれに従わざるをえない受け身の状況にあるといえる。「脅し」は各個人の生命と生活両面に直接響くという点で効力を発揮し、従わなければ「暴力」が行使される。一方で行動が制限されることに対し、特に外国では「自由」という言葉を持ち出し、デモという現象も起きている国もあり、効力が十分発揮されにくいということもある。いずれにしても、様々な事象があってもなおこの状況は続いている。
今年、年が明けてすぐにはこのような事態になるとは予見できなかったであろう。今年マックス・ヴェーバーの没後100年にあたるが、彼は当時流行していたスペインかぜによると推測される肺炎で亡くなったとされている。記念行事など中止されているそうだ。(当時クリムトやエゴン・シーレも同様ウィルスで亡くなっている)。今年刊行された政治学・政治思想史が専門の野口雅弘による『マックス・ウェーバー』(中公新書)に、ヴェーバーの用語で有名な「エントツァウベルンク」、すなわち「脱魔術化」、・・・魔術から解放、魔法が解ける、という語の紹介を元にカントの著書からの主張を引き合いに、以下のような記述がある。『カントは他人の指示を仰がなければ生きていけない未成年状態から脱することを「啓蒙」と呼ぶ。もちろん啓蒙には「知る勇気」という主体的な側面がある。しかし、カントが強調するのは、公衆が自由に議論するというプロセスのなかで生じる、互いに開かれていく経験である。「このように個人が独力で歩み始めるのはきわめて困難なことだが、公衆がみずから啓蒙することは可能なのである。そして自由を与えさえすれば、公衆が未成年状態から抜け出すのは、ほとんど避けられないことなのである」(『啓蒙とは何か』)とカントはいう。エントツァウベルンクもこうしたプロセスにおける「避けられない」出来事であるとすれば、それは「魔法が解ける」ということになる』。
国家や権力側からの指示がなければ生きていけない「未成年」の状態を、私たちは今実践してしまっているか、それを目の前に突きつけられている。しかしそこから脱すること、啓蒙を獲得するために、カントのいう「自由」を私たちが履き違えると、それは単なる駄々っ子と同じ振る舞いによって、国家による「脅し」が本当に効力を失い、互いに何の意味もないやりとりを毎日繰り返す事態に陥ることになってしまわないか。
「脅し」は決して権力者のみが使うのではなく、私たちも日常的に利用しているという前提、つまり「仮言命法」の授受で生きている、ということをあらためて認識するという現在を生きている。「上の者が下の者に」という原則は必ずしもないし、そこには「法則」といったものは存在しない。カントの『実践理性批判』から以下に抜粋する。『欲求された結果に関してのみ規定するとき(仮言命法であるとき)、実践的指令ではあるが、法則ではない。法則は意志を意志として十分に規定しなければならない。なぜならこれらの指令には必然性が欠けているからで、この必然性は、それが実践的である場合、感受的な諸条件(意志に偶然的に付着する諸条件)から独立していなければならない』。