TEXT 「貧」 痕跡から

前回a+u レヴューとして取り上げたテキストで、カントの『理論と実践』から引用した『理論と実践とのあいだには、両者を結びつけて一方から他方への移り行きを可能ならしめるような中間項を必要とする』という文章は、これもその前の回で取り上げたマンフォードの翻訳で知られる生田勉による『私は、マンフォードにくらべて神秘主義めいているが、美的なるものを成立させるのは、なにかそこに介在する触媒的なものの役割を考える』という発言と並置して、「中間項」と「触媒」という語を同じ平面で考察できる。

この二つの言葉を巡る両者の立場は異なる。カントは理論と実践の架け橋として、生田勉は美を成立せしめるためのスパイス的な働きとして捉えている。しかしどちらも表象に先立つ思考において、抱いたイメージが考えた通りに進むかどうかには、あいだに何かが必要だという考えだ。成果としての表象はその産出過程の途中で、その過程そのものがにじみ出てくるものが感じられる場合がある。それは何かといわれると説明が難しい場合がある。つまりカントや生田勉がいうところの「中間項」「触媒」にあたるものなのかどうかはわからない。しかしその「過程」における何かしら「ザッハリヒ」的ではない、むしろ理論を超えた「原初的」な感覚を抱くような体験というものをすることもある。また「ザッハリヒ」的なイメージをもち、しかもそれ単体として内包された意味を見いだすことがかなり難しいと思わせるような体験もある。〈アルテ・ポーヴェラ〉運動もこうした感覚に似ている。

前回テキストで取り上げた磯崎新の対談集『建築の政治学』(岩波書店刊)では、アルテ・ポーヴェラの中心人物であったジェルマーノ・チェントとの対談も掲載されている。アルテ・ポーヴェラは、訳すと「貧しい芸術」ということになるが、チェントはアルテ・ポーヴェラの「ポーヴェラ」、つまり「貧しさ」の意味について問われたときに、以下のように答えている。

『もちろん、政治的な意味合いで用いていた。(略)第二に、それは安価でプアーな素材を意味した。(略)まずは基本的な感受性それに通常(バナール)の感覚とかかわり合いのあることがわかるだろう。だけどこの通常という言葉はドイツでは権力を意味していた。つまり、バナールを分解すると硬貨を持つものという意味になり、結局権力者ということになる。貧乏で普通が、最後には権力者になる。この堂々めぐりも知っておかねばならない。だが何よりも、これは、空気、煙、風景、紙、といった誰でもみつけることのできる、それでいて深い背後の記号にささえられた素材だ』。

「通常」は「権力」、「カネをもつ者」に微分化され「権力者」へとたどる。つまり「普通」は結局「権力」への始まりともとれる解釈である。チェラントは「普通」と「貧しさ」を並置していることとともに、彼が「通常」をドイツ語の語源から派生させたことともあわせて、独特で興味深い思考過程のように思える。「普通」、「貧しさ」から「権力」へという、一見極端な思考過程のなかに入り込んでみると、人の思考のなかには、普通や貧しさに対する現状を受け入れがたいが受け入れざるを得ないといった共通の無意識が潜んでいるように思える。そしていわば抑圧された感覚を普段は糊塗し、権力に対しても特段反発せず、多少の不平を言う程度で日常を過ごす。それは一端立場が反転し、権力側に、あるいはカネ持ちになったとたんに「普通」、「貧しさ」を嫌悪するという豹変に、人々は多少は自覚していることもあるからだろうと思われる。いつも私が頭の中にある漱石の言葉を思い出す。以前テキストで取り上げたが、漱石の『こころ』の中で、「先生」が次のような言葉を発する。
『かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬をしりぞけたいと思うのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代わりに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立を己れとに満ちた現代に生まれた我々には、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう』。

跪いた「記憶」がその後人の頭の上に足をのせようとする。「記憶」が無意識に、自然なかたちで行動に移す。

また「ポーヴェラ」、すなわち「貧しさ」ということ単体で考えてみても、先述したチェラントの言葉による「安価でプアーな素材」というものと、物理的に「お金がない」という経済的な側面、カネの欠乏に直結することと、また「貧層だ」という必ずしもカネがないとは限らない状態に多少の違いはある。「貧しさ」の定義は簡単ではない。ではその反対に「豊かさ」はどうだろうか。これも「貧しさ」の分解された概念の反対語が羅列されるだけかもしれない。

磯崎によるこの本を読んだ30年前にはじめて、このアルテ・ポーヴェラという過去のイタリアにおける芸術運動を知って、もっと深く知りたいと思い関連する本を探したが、当時は見つけることができなかった。今から4年前に池野絢子氏による『アルテ・ポーヴェラ -戦後イタリアにおける芸術・生・政治』(慶応大学出版会刊)という、かなりまとまった専門的で論文調の著作が出て、はじめてその全体を知ることができた。この本のなかではチェラント以外のメンバーの発言も掲載されている。例えばミケランジェロ・ビストレットは『何故この言葉(「貧しい」)なのかは、チェラントに聞かなければいけないよ。僕はいつもこのことに関して困ってきた。個人的に言えば、それがどういう意味なのかはさっぱりわからない。僕たちに共通しているのは客観性であって、それは表象にも、個人的な表現にも、社会的テーマにもないものなんだよ』とあるとおり、「ポーヴェラ」とはメンバー全員におけるコンセンサスではないことがわかる。具体的な彼らの発表の場、つまり展覧会の例が挙げられているが、例えばルチアーノ・ファブロの「床 – トートロジー」(1967年)は、『新聞紙を床に広げただけの作品で、新聞紙が覆い隠している床が、床に他ならないという同語反復的な状況を示す。ここからわかるように「貧しい」とは当初、作品が何か別のものを指示しないことを意味していた』(『 』内は本文より抜粋)。口絵の写真を見るとその通りの、ただ新聞紙を広げて全体に大きな正方形になるように床に置いただけのものである。これをみて思い出すのがマルセル・デュシャンである。有名なレディ・メイドの「泉」が例として挙げられる。しかしこれは小便器を逆さにして、「泉」という名付けをし、「便器」としての用途とは異なる意味として「展示」していて、「便器」そのものであるにもかかわらず、「便器」ではない意味を、芸術の領域として、あるいは既存の芸術へのアイロニーとして「表現」している。しかし「床 – トートロジー」は覆っているものをめくっても、そこにあるのはただの「床」であり、「床」そのもの以外に意味はないことを示しているという点で、全く違う立場にあることがわかる。また本書では当時のアメリカにおけるポップアートにおける反発や資本主義へのアンチテーゼによる運動としても論じられている。他にもメンバーによる多くの作品が論評されている。例えばボエッティによる「双子」、「政治的平面球形図」、ウォルター・デ・マリアによる「1マイルのドローイング」など、どれも写真付きで、このモノクロの画像だけでも興味を引かれる。

またテクノロジーとの関連で発言しているメンバーの言葉も紹介されている。バリッリによる発言『「貧しさ」とは、今日与えられるあらゆるものを迎え入れる姿勢として了解されるものだ。それは、選り好みをして昇華へむかうことも、平凡な世界やテクノロジーの地平も、どう扱えばよいかがわかれば、天国かもしれない・・・』は、いわば資本主義の産物である、貧しさとはかけ離れたテクノロジーを、否定するどころか受け入れる態度である。また他にボニート・オリーヴァは貧しさと身体性の関係を、『作品の「貧しさ」は、歴史的な状況の条件づけを反映して、強いられた貧しさになる。つまりそれは、芸術家の意図的かつ漸進的な清貧化だ。芸術家は、徐々に世界を放棄しながら脱いでいき、ついには自らの身体の文法だけを利用するようになる』として、「清貧化」を芸術における「貧しさ」に結び付けている。他にもメンバーではない、例えばイタロ・カルヴィーノやルネ・マルグリッドなどの作品を題材に論評しているところもあり、論の展開が広域にわたっているところも興味深い。

この「貧しさ」という状態、概念を、このアルテ・ポーヴェラというある時代の芸術運動を手掛かりとして考えてもひとくくりにできないというこがわかる程度で、ましてや明確に定義できるものではないだろう。

村上春樹の初期の短編で『貧乏な叔母さんの話』というおもしろい作品がある。内容には触れないが、村上春樹自身がのちに自作を語った文章で、『僕としてはかなりの意欲作だったのだが、あまりにもテーマが大きすぎて、駆け出しの作家の手にあまる部分があった』とある通り、単に貧しい叔母という存在を書くというだけなら、「叔母」という女性の幾通りかの人生経験を描写すればいいのだろうが、身内という存在でもある「叔母」は甥や姪、兄弟の関係や人生、生活そのものであるということからも、経済的に困窮している身内の過去と現在を表現することの難しさを想像するだけでも予想できる。

この「貧しさ」を「豊かさ」と比較して身近に考えてみると、例えば建築の表現として「豊かな空間」などという言い方がよくされる。それはたしかに高価な素材でつくられたものを指すわけではなく、空間性においてよく練られ、素材の扱い、構成、視線、広さ、高さなど、外と内との関係なども含めよく考えられた空間を指すことが多い。こうした空間に出会った経験は少なからずある。また自分で設計した建物でもこのように実感したこともある。いずれも設計の過程で格闘した「痕」みたいなものを感じているためといえるのではないか。反対に「貧しい」というより「貧相な」、あるいは「チープな」という言い方をよくするが、こうした空間はたとえ高価な素材を使用していても多く存在する。むしろこちらの方が圧倒的に多いといった方が正しい。このような空間に対しては、設計過程での短絡さが露出し、「痕」がまったく表出していないと感じるものである。それは実際にその空間を体験しない、雑誌に掲載されているものにおいても感じることはある。私はこうした「痕」、「痕跡」というものをよく考える。なかなか表にあらわれにくいものであるが、アルテ・ポーヴェラについて考えるときも、この「痕跡」という言葉が浮かんでくる。実際この著作のなかで、「痕跡」について触れられている箇所がある。

現代芸術において外すことができない1969年スイスで開かれた「リブ・イン・ユア・ヘッド -態度がフォルムになるとき」と題された展覧会で監修を務めたハラルド・ゼーマンが、この展覧会に寄せた文章があって、以下に引用する。

『作品、概念、過程、状況、情報は「フォルム」である。この芸術的態度は、そのフォルムのなかに表れているのだ。前もって考えられた造形についての観念ではなく、芸術的プロセスの経験から発生したのが「フォルム」なのである。芸術的プロセスは、身振りの延長としてのマテリアルの選択と、作品のフォルムをも規定している。この身振りは、私的なものでも、内密なものでも、あるいは公的なものでも、外に開かれたものもあり得る。しかし常にプロセスが本質的なものに留まり、それは同時に「手書きの筆跡であり、文体」である。したがってこの芸術の意義とは、芸術家の全世代が、自然なプロセスにおいて「芸術と芸術家の自然」を「フォルム」にならしめるよう、着手することにあるのだ』。

「手書きの筆跡であり、文体」、すなわち「痕跡」は、プロセスそのものである。先述の空間性において考えると、「豊か」と感じるとすれば、おそらくそこには目に見えにくいプロセスによる「痕跡」を感じ取っているからであろう。アルテ・ポーヴェラが投げかけた「貧しさ」という概念は、反対の「豊かさ」の概念の広がりと同じ拡がりをもつ。それゆえ村上春樹を「手にあまる」と言わしめた「貧しさ」は、反対に豊かにその思考の拡散をもたらす。

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TEXT a+u レヴュー-2

バーナード・チュミは私が大学2年、80年代の中頃に、a+uで「ラ・ヴィレット公園」が掲載され、私を含めた多くの学生が大きな刺激を受けた。当時他にダニエル・リベスキンドやザハ・ハディドなどいわゆるペーパーアーキテクトによるドローイングや計画案が次々と同誌に発表されたこともあり、私たち当時の学生はそれまで参照してきた近代建築の巨匠たちから興味の対象が移行していった。彼らのテキストや論理よりもそれまでとは異質のデザインのインパクトに学生のみならず多くの人が影響を受け、その一方で彼らのテキストにはあまり大きな関心が向かなかったというのが現実ではないだろうか。つまり論理以上にその現前としての作品に集中し、どうしたらこのようなデザインができるものかと自分なりに考え、多くの学生は設計演習などでまねようとしたものだ。

前回のテキストで最初に触れたように、a+u7月号は「70年代の建築」全般についての特集だったが、8月号は磯崎新の70年代に絞った特集が組まれている。副題は「実務と理論」となっている通り、実作と主に実施設計図の青焼き図面が掲載されている。実務と言えば、設計業務全般を示すものと思われるが、ここでは理論と実践という関係に置き換えて考えてみたい。設計においてよくあることだが、基本計画と実作では大小にかかわらず違いが出ることはよくあることである。実作において基本計画で盛り込まれていた要素が欠落していたり、あるいは基本計画の原型をとどめていないもの、まったく違う案になっていたりすることもある。しかし基本計画が承認され、それがそのまま実作として実現しない、という状態においては、その大きな理由に工事中に工事費が膨らみすぎたか、あるいは着工前に予算オーバーで実施設計の変更という事態になるかであろうが、他に施工上無理な計画だったか、無理ではなくても費用がかかりすぎるという理由もある。顕著な例が数年前に問題になったザハ・ハディドによる国立競技場だろう。結局国立競技場も事実上コンペのやり直しという事態になった。しかし計画案としてまとめ上げる、あるいは承認される前に廃案になるか、設計者が諦めるか、ということが多い。つまり最初に発想した案が、計画を進めていく途中で、あるいは社内でプレゼンした段階で廃案にされることも多い。発案者はほとんど諦めてしまう。しかしそこでその実現可能性を説得し施工上も予算上も、さらには施主の理解をクリアできるよう仕事を進めることは、かなりの困難を極める。しかし多くの人を説得し、動かし、それをやり遂げる人が本当のデザイナーともいえる。上記の建築家はそれができた人たちである。身近にも稀だがそういった人は存在する。「アイディアはいいものだが、実際には無理ではないか」という状況は、その程度の差はあれ、どこでも起こりうる事態だ。この理論と実践ということを考えた時、私はカントの著書『啓蒙とは何か』(岩波文庫)に収められている『理論と実践』が思い浮かぶ。完全な題目は『理論では正しいかも知れないが、しかし実践には役に立たないという通説について』というもので、以下に本文から一部抜粋する。

『実践的規則を総括して、この総括そのものを理論と呼ぶのは、これらの規則がある程度の普遍性をもつ原理と見なされるような場合である。なおこの場合には、かかる規則の使用に必然的影響を及ぼすような多くの条件は無視されるのである。これに対して実践というのは、何によらずただ仕事をしさえすればよいというのではなくて、なんらかの目的を実現するための行為を指すが、しかしその場合にもこの行為は、目的実現の仕方に関してなんらかの一般的原理に従うのである』。

さらに『理論と実践とのあいだには、両者を結びつけて一方から他方への移り行きを可能ならしめるような中間項を必要とする』(カント著『啓蒙とは何か』岩波文庫 篠田英雄訳)。

訳者が後記で『「理論が全体として厳密に構成されていれば、それは的確に実践と一致する」というのがカントの主張である』と書いているように、実現不可能な状態に陥れるのは理論の厳密さの不足があるということが読み取れる。

磯崎新の、これは70年代ではないが、80年代の終わりに実施された「奈良市民ホール」のコンペで1位を獲得した実作を、私は今世紀の始めに体感した。なぜこの作品を持ち出したかというと、二つの思い入れがあるからだが、一つは私が学生時代に所属した研究室で参加したこのコンペの一員としての経験があることと、もう一つは実作を見学した時の驚きにある。建物全体のデザインの他、特殊なタイルの外壁材と、なにより大・小二つのホールのデザイン。特にガラスの小ホールには大きな驚きを抱いたとともに様々なことを考えされた。舞台と客席のあるホール、こうした用途で建物の外観や構成の単なる意匠ではなく、一番重要なホールそのもののデザイン、しかもそこに画期的なアイディアが盛り込まれたデザインに対して、様々な思いを抱く。音が反響しやすいガラスを構成要素として、しかも壁面に使用することに対する高いハードルが予想され、ほとんどの人は周囲からの「無理だ」という声に諦めてしまうのではないかと私など考えてしまう。それを現実のものにする過程で、確かな理論と言説が必要だし、誰でもできるわけではない。優れた建築家に限らず優れたデザイナーとはこういうことが出来る人なのだと改めて思い知らされた。

磯崎新は著作も多いので、テキストを通して理論を享受できる。もう30年くらい前に読んだ対談集『建築の政治学』を今改めて開いてみると、アイゼンマンとの対談『過激さは中心からの距離』で、自己の世代について論じあっている。

アイゼンマン:俺たちの世代の精神、イデオロギー的な精神は、モダニズムの後にあらわれた真の意味でのポスト・モダンの世代のものだ。様式上ではなく、真に概念としてなんだ。俺たちは、1945年以後の戦後に、世界の大部分が再建されねばならなかったという事実によって、過激にさせられてしまった。アメリカも日本と同じように完全に再建されねばならなかった。だが、その再建は、協調した過激主義とでもいうべきものだった。モダニズムには、社会的・政治的イデオロギーを排除するところがあったためだ。日本の全土をおおっているこの空虚なモダニズムをみてみたまえ。俺たちの世代はそれに与するには若すぎたし、68年の学生革命に加担するには年をとりすぎていた。(中略)だから、俺たちは、ある意味で、年寄りの過激派でもある。(中略)68年の過激派たちは、建築を破壊した、その世代の連中はなぜか消えちまっている。失われた世代だよ。自滅してしまった。

磯崎:彼らは、デザインの廃棄を叫んでいた。デザインをさけた。

アイゼンマン:「建築」に正面から立ち向かおうとしなかった。『建築の政治学』(岩波書店刊より)

この対談を読むと、以前のテキストで書いたジョン・ケージと武満徹の対談を思い出す。分野は異なるが、現代音楽における二人の立場は、「ジョン・ケージは音楽を構築しなかったのに対し、武満徹は音楽を構築した」ということに通じる。磯崎もアイゼンマンも、「建築」に正面から向き合った人物だからこそ今でもその影響の大きさが現在につながっている。

a+u8月号に戻ると、北九州市立中央図書館(1974年)において、実施設計図の平面詳細図、矩計図の青焼き図面ほか基本計画図としての透視図(外観と内観)が掲載されている。前回テキストでグンナー・バーカーツのGAギャラリーの冊子に接したのと同じように、大学図書館でこの図書館のたしか単体のGA特集か磯崎の作品集をいつも見ていたことを思い出す。ライトやカーンあるいはミース、コルビュジェなど近代建築の巨匠以降の建築で、入手しうる情報として「a+u」や「GA」など限られた建築雑誌による少ない写真を何度も見ながら、その「形態」をまねて設計製図の課題で自分なりの精一杯の「いい感じ」を展開させた、そういった学生時代を思いだすと、情報量とプレゼンの媒体の変化の大きさにも思いがいく。

前回のテキストとあわせて、7月号、8月号で取り上げられた現存する建築は今もなお我々を魅了する。それはなぜなのだろうか。前回ルイス・マンフォードの講演『芸術と技術』を取り上げたが、あらためて一部を抜粋する。

『芸術作品は、単に目をひくものか単に衝撃を与えるだけのものなら、ひとの注意を長くとどめておくことはできず、いわば魅惑的でなければならない。そして、派手になりすぎないやり方で、意味をもつものでなければならない。しかもその意味は、意味内容をはっきり言いあらわす数字や記号のように、あまりあからさまでかつ一定内容に限定しすぎてはならず、むしろ反対に少しばかりあいまいで、少しばかり謎めいて、観客や聴衆がどのような反応を示すか不確定な余地をのこしておかなければならない。観客や聴衆がその創造行為に共に与ることができるように』。

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