TEXT  「建築は対象関係論である」 -1

レヴィナスは『貨幣の両義性』と題する講演の中で、「聖潔の価値論」に触れ、以下のように述べている。

 予測不能ではあるがつねに閉じられている、この経済という広大な秩序の閉塞と監禁に対立するのは、唯一者から唯一者への超越であり、まさに異邦人であるがゆえ類の共同体を持たない異邦人たちのあいだの超越である。ひととひととの関係は異邦人との関係であるが、それは外在性において関係する仕方であり、類の共同体以上に良き共同体であり、一者が他者に対して無―関心 ―ならざることである(レヴィナス著『貨幣の哲学』法政大学出版局)。

閉じた円環―とりわけ経済における閉じた円環は、同族社会に外在する秩序であり、その外在性との関わりにおいて内在存在の利害は「交換」によってつながっている。他人との関わりは、いわばこの「交換」作用のドライな法則のなかで相手の顔を読み取ることで成立する。レヴィナスはこの関係のなかで、他者が自分の存在と結びつく以前に、他人に責任を負うということ ― これを新しき価値論「聖潔の価値論」 ―として、この価値が自身を呼ぶ、と説いている。更にそれは「無私無欲・没利害」であり、「つねに存在するべく存在するのではなく、内存在性の利害を超越」する。彼のこの講演は1980年代のもので、こういった考え方を私のような者が字義通り捉えることは危険ではあるが、何かを媒体として他者と関わるという点において、大きな示唆を与えている。「交換」の媒体として「貨幣」があるわけだが、今村仁司氏(故人)は、自己の暴力論の重要なキーワードとして「第三項排除」を掲げ、そのひとつが「貨幣」であると説く。様々な経済活動における「貨幣」の存在は、いわばvictim(犠牲者)として排除される存在であり、従来の「暴力論」の幅を拡大した。

建築の生成過程において、依頼人と設計者、施工者の三者がその代表者を果たす。建築 ―不動物― を介して、それをvictimとして空間を占拠する。元々占めていた空間性を、よくもわるくも排除することになる。一般的に取られる生成過程の多くは、最初は依頼人と設計者の関係である。設計者は(狭義の)設計技術を武器(道具)に依頼人に接する。その接し方を「点」として捉えるとすると(設計者は個人とは限らず組織も含めるものとする)、施工者と依頼人との関係はむしろ「面」といえる。施工者の関係は様々な内在性を含有する。それはピラミッドや円錐などの立体を想像してもよいが、それは決して業界の権力構造を示すものではない。しかしここでその構造を持ち出せば、結論として設計者は施工者の面的構造を理解しないという「問題」と、「解決法として、その構造は三角柱や円筒になるべき」などとなってしまう。私がここで言いたいことは、この生成過程の構造(あるいは閉じた円環でもよい)のなかで、設計者の自己完結した論理を依頼人が知らず、ましてや施工者も知らない、知っていたとしてもあくまで設計者の個人的な思索としてかたづけるという現状を踏まえ、建築が価値をもつひとつのあり方として、様々な立場の内在性を「建築」という媒介を通して共有すること、そして設計者は施工者の内在性にも深く関与すること(施工者と一体的に仕事を進めるという意味ではない)、更にこのピラミッド、あるいは閉じた円環に外在する領域に積極的に関与するという働きが求められる、ということである。

例えば自動車の生産を例にとると、デザイン(設計)と製造は大抵は一体で、一メーカーの商品として売り出している(例外もある)。以前何かの冊子でとりあげられていたが、日産自動車の設計側の姿勢として「事前にできることはすべてやる」ということが書かれていた。従来の生成過程は設計から試作、また設計、そして製造側での検討、また設計側へのフィードバック、その繰り返しを経てようやく製品化される。これは当たり前ではないかとおもわれるが、このようなシステムは時間とコミュニケーションにかかるコストが膨大で、結局製品の価格に転嫁されるということである。設計の段階であらゆることをシミュレートし、それがそのまま製造でも問題なく、コストもクリアーされる。このシステムはもちろん時代の要請でもあるからであろうが、やさしいことではない。建築は一般的にこのような過程を経ることは希だが、設計者は少なくとも施工者の内在性へ積極的に関わることが、依頼人、更にはその外に存在する他者に対しても責任をもつということになるのではないか。