stranger -客、他人、よそ者、見知らぬひと、また「未知の人への幾分不躾な呼びかけ」(研究社『現代英和辞典』)- またforeigner – 外国人- どちらもその土地の者にとってはよそ者である。しかしこの二つの語のニュアンスは異なるが、strangerは、一つはよそから来たひと、他に自国をもつ者。そして一つは出自が不明な者。-「生まれた土地」と「親が不明」- の二重の会に登場するひと。親が不明 -これは親という概念の欠損、そして血の欠損 - のどちらか(あるいは両方)意味する。
孤児院で成長したジョー・クリスマス。彼は中年の独身女バーデンの家に住みつくが(バーデンは自分の祖父と兄が黒人投票権の問題から南部軍の軍人だったサートリスに殺された)、そこでの会話。
クリスマス:『なぜあんたの親父はあの男を ― 何という名だっけ?サートリスだ- なぜあの男を殺さなかったのか、ということさ』
バーデン:『そのことをあたしも考えたわ。なぜ父がサートリスを殺さなかったか、ということをね。それは父のフランスの血筋のせいだったとあたし思うの』
クリスマス:『自分の親父と息子を同じ日に殺されてもフランス人は怒らないのか?あんたの親父は宗教を持ってたんだと思うな。まあ、説教師くずれ、といったふうなものさ』
バーデン:『あのときは何もかも終わってたのよ。軍服と軍旗を持ってする人殺し、軍服と軍旗を持たずにする人殺しもね。そしてそんなことでは何ひとつ善くならなかったし、いまもそうよ。何ひとつよ。それにあたしたちは他国者、ここの人たちとは違った考え方をもつよそ者で、それが頼まれも願われもしなかったのにこの国にやってきたのよ。それに彼はフランス人だった。半分はね。でも半分はフランス人だったので、人が自分の生まれた土地に対して持つ愛情を尊敬したのよ。人は自分の生まれた土地によって鍛えられたように行動するものだということを理解したのよ。そのせいだったとあたし思うわ』
リーナ・グローブとジョー・クリスマスの二つの物語を核とした、W.フォークナーの『八月の光』(引用文は中略)(新潮文庫、加島祥造訳)の一場面である。フォークナーの研究者 林文代氏が自著『迷宮としてのテクスト』で「『アブサロム、アブサロム!』を読まないという〈誤り〉を犯す人は幸せである。あるいは読んでしまっても面白かったとか面白くなかったと簡単に割り切れる人も幸せである。」と書いているが、確かにフォークナーの作品は一連のヨクナパトーファ郡を舞台としたものとそうでないもの、そのテクストは「迷宮」と形容しても異論はないが、フォークナーの魅力は、その「迷宮としてのテクスト」としてのフォークナーよりむしろ私は「アフォリズムの作家」としてのフォークナーに惹かれる。フォークナーの評論で彼を「アフォリズムの作家」と位置づけしているものを目にしたことはない。しかし私はそうであると認識する。フォークナーの作品を何度読み返しても、毎回新しい発見がある。それは「迷宮」の解ではなく、「言葉」である。私のそのときそのときの背景を照らすそれらのエクリチュールは、ナラティブを失い、単独で語りかけてくる。これはニーチェの『ツァラトゥストラ』と同じ読書体験である。上にあげたクリスマスとバーデンの会話は、「どこの国が何をするか、あるいはしないか」に結びつくのではない。strangerのもつ不安と、目の前に見えぬ自国、出身、出自―に対する一方的な契約と、そして決して道徳上の理由からではない、むしろ「見られている」ことへの恥の感覚、それらが混合したstrangerとstrangerの、一つの表象である。それを各自の中の出自経験の呼び覚ましとして、直感として捉えたときに、その会話は物語から切り放され、自身の問題へと変容する。 – 繰り返すがフォークナーは「アフォリズムの作家」である、と。