materialscape  物質景

 もはやシニフィアンには興味がない。構造的解釈にも意識が向かない。しかし、一方で私にとりつく強力な思考の道具からは解放されない。あらゆる道具の中で今まで私の手足とはならなかったもの。『顔』のデザイン手法がそのひとつである。建築の顔とは、一つは文字通り人や動物の顔に似たもの。建築のファサードを構成する窓や開口部などが目、鼻、口に見えるものを指す。今ここでとりあげたいのはもう一つの意味として「語る」顔である。
 「語る」とはどういう意味か。18~19世紀にかけて活躍したフランスの建築家ルドゥーの言葉で「語る建築」というのがある。哲学、思想史の研究者高岡佑介氏の言葉を借りると「ルドゥーにとって、建築の性格を表現する手段は、一つだけではなかった。彼は装飾芸術が建築物の「表情」を成し性格を体現すると説く一方で、「語る建築」と称される奇想天外な視覚的言語を編みだし、これによって「性格」を表現しようとも試みた」(月曜社刊『表象』2011/05号より抜粋)。例えばルドゥーが計画した『樽職人の仕事場』は、樽の形状を建築の形態にそのままあてはめ、住人の仕事と直接的に結びつけたものだ。この作品のほかにもルドゥーにはこのような例が多い。

 このような極端な「語る」建築は、現在私たちが普段街を歩いていて目にすることはあまりないだろう。街を形成する顔がこのような「語る建築」のみで構成されている街並みなど想像したくないが、しかし一方で何かを語りかけようとしているものには出くわすことはあるだろう。それは「顔」から切り放された何らかのメタファーとして現出されたものだが、例えば商業地などの人混みや街そのものの混沌を表現しようとしたもの、それは形態の複雑さや材料の複合的な使用などで体現したものかもしれない。農村地帯では牛舎やサイロなどを模した形態など例に挙げることができる。

 「建築」、「建造物」、「建物」はそこにあるだけでその場の空間性に影響を与えている。街並みを形成し、よくも悪くも都市の「顔」の一部となる。私たちが札幌の中心部を歩いていて、ここが札幌であるという感覚を抱くことがあるとすれば、赤レンガ庁舎や碁盤目の区画があることからしかないかもしれない。しかし名古屋市の中心部を歩いていても同じ感覚を抱くかもしれない。「ここは札幌によく似ている」といった感覚を。札幌駅と、駅から外に出て南に歩を進めて目に入る通りに面したビル群はおそらく名古屋にも、東京にもあっておかしくないデザインだ。これらガラスとパネルの単純な構成のいわば(古い言葉でいうと)インターナショナルスタイルはどこにでもあり、そして善し悪しを別にしてその街並みの顔となっている。ここで「北の玄関口」としてのふさわしさについて触れるつもりはない。

 20数年前、バブルが崩壊した直後の頃に東京の青山周辺を歩いたときの空間体験は、今でも街や街並み、あるいは街の顔、ファサードといった概念に対する思考の体験的な基礎になっている。地方にいる私のような者にとって東京は建築を見て回るというよりは街そのものを見るということに魅力を覚える。マリオ・ボッタ設計の『ワタリウム美術館』から歩いて、東孝光設計の『塔の家』、竹山聖設計の『テラッツァ青山』など個性的な建築物は、何かの比喩表現ではない。例えば『テラッツァ青山』のコンクリート打放しのその造形は、建築のデザインの質とは関係なく言葉を持たず訴えかける力をもち、設計者独自の美意識さえ感じることができる。都内を歩いていると、そのようなコンクリートの存在感、あるいは構成の複雑さ、一般的なマンションですら工夫を凝らしたデザインなどであふれている。目に見えない設計者の言葉が内在しているように感じる。私はとりわけ素材感に対して敏感で、前述のようなコンクリート以外にも、金属板、それもシルバーのスパンドレルから角波鉄板、特にコルテン鋼など、素材そのものに魅かれる。それらの建築への採用に関して施主に説明するための比喩は使うこともあるが、なにより言葉を超えた存在感をもつ。かつて前述した青山周辺の建築群に対して「アヴァンギャルドの風景」と表現した建築評論家がいた。バブル期に建てられた建築に多く見られるいわゆるデ・コン的な建築は、その多くが狭義でアヴァンギャルドといえる。それまでのモダニズムを基本とした手法とは異なるものだ。この現象は東京のような大都市だからということもある。札幌ではあまり見られない風景だ。前述で札幌の街並みに関して『「北の玄関口」としてのふさわしさに触れるつもりはない』と言ったが、例えば本物のレンガの素材感を、あるいは札幌軟石の重厚感など他の都市ではあまりなじみそうにないものを積極的に活かすこともあっていいだろう。しかしこれらの素材を活かすには徹底したディテールが必要で、ミースのようなあたかもイコンとでもいえそうな部分のディテールがないと全体としての存在も陳腐なものになってしまう。設計者の力量はこのディテールで証明されるといってもいいのではないだろうか。また一方でこれらの材料はもちろんコスト上、それらの材料を口にしただけで一蹴されてしまう厳しい現実もある。
 
 私はかつて商業地で店舗計画を依頼された時に、「物の素材」を街形成の一要素として捉える、という視点で計画したことがあるが、その際本テキストの題である『materialscape』としての都市、街を強く意識した。materialscapeはもちろん私の造語で、『物質景』と勝手に名づけたが、このような街並みがどこか都市の一画にあってもいいはずだと思う。現在、私が手掛ける設計のほとんどが住宅であり、住宅地で『物質景』を求めようとはあまり考えないが、住宅地以外の計画の際に少なくとも材料の扱いにはスタディを重ねたデザインをするよう心がけている。