TEXT 「像の此岸」-1

 バルトの言葉を悪用すれば「オイディプス的な快楽」とでもいうか、「物語」が「父」を登場させることで全ての辻褄を、「出現―消滅」の暴露を、求めようとすると私はこの快楽を拒否しようと思う。そういった類いの快楽を否定するもの。「父」、そして「一族」とその「生活」を、その内的な活動を露わにする行為を拒否した創造者たちは、限りない暴力とメタファーに関心のない表象を眼前にぶつけることを唯一の快楽とし、それを受け入れようが受け入まいが画面のサイズに関係なしに人の心を振るわせる。映像の全体性は徹底した健全な暴力論を孕む場合にのみ価値ある部分を内包する。
 次の言葉の無意味さと野暮さは責めることのできない政治性と直感的な表われである。
「これは映画だろうか?アートフィルムだろうか?ジャンルは何だろう?」
「ドキュメンタリーみたいだが、一方で映画的でもある」
 映像を言葉に置き換えようとした結果の空虚さと、いわゆる評に対しての限界と諦めを感じることが多いだろう。しかし彼方に突き放した論を素直に手近に引き寄せたい。

 創造者と創造物。これら2つの例として、P.ボカノウスキーの『天使』(原題L’ANGE)とダニエル・シュミットの『今宵かぎりは』が挙げられる。どちらもストーリーや一般的な評はここでは避ける。またどちらも私がこの20数年、機会あるごとに見続けてきたもので、2つの作品が頭の中で混ざっては分離することを繰り返してきたものだ。

 『天使』は、全体が7つのシークエンスにアーティキュレイトされた構成で、更にそれらが更に微分化され、細切れに切り刻まれ小刻みに震えている。「父」をもたない各一族単位において、さらに子をもたない一族を形成している。そしてその画面構成は舞台性などという小さな言葉の範疇に納まらず、余計な辻褄合わせのスケールさえもたない、しかし実はリアリティのある、手ごたえのあるアナログ空間内の高度な技術空間として不安と安定の間の中を往来する。辻褄もなければ当然「出現―消滅」も存在しない。そこにあるのは画像と動きと「音」の全体性と、一般的な快楽を捨てた快楽の極地である。言いかえれば悲劇としてのオイディプスが発生しようのないものなのだ。

 『今宵かぎりは』は『天使』とは異なり、長い「静」のシークエンスが延々と続き、スローな一つの一族を形成している。ここでは微分化はなく、むしろ全てがゴーレムか能のような動きと空間性を生みだし、要素がアメーバのように気味悪く連結していく。城の中で繰り広げられる逆転の行為は、祝祭のなかの一部の暴力のように、辺りを気にすることなく快楽へ向かう。つまり「父」をもたない構成は一族の構成要素が逆転しても、オイディプス的結果も逆転しない。

 この二つの映像は商業的にも成功している。1984年に公開された『天使』では、ボカノウスキーはセット作りと撮影に2年、特殊効果と編集に3年要している。また『今宵かぎりは』は1972年に劇場公開され、ダニエル・シュミットはその後も多くの作品を発表していて、1995年には大野一雄の舞踏のドキュメンタリー作品も手掛けている。大野一雄の舞台は、私も1996年頃、『わたしのお母さん』という題の舞台を生で観たことがあり、なるほどダニエル・シュミットが彼を取り上げた理由が分かったような気がした。
 「物語」が「一族」を孕むことに否定的な感覚はないし、細部まで計算されたストーリーテリングはそれだけでも感動することがあるし、映像表現が見事なものも当然多い。計算と映像、そして「映画性」とでも言いたくなるような見事な舞台性。それらすべて合わせ持ったものではヴェルナー・ヘルツォークの『ノスフェラトゥ』を挙げたいが、当然B.ストーカーの『ドラキュラ』が原作であることからも、ある「父」の存在は確認できる。しかしその快楽は前述の2つの作品に劣らない。
 映画論をくだくだしく述べることには抵抗があるが、私個人にとっては仕事上大きな影響を与え続けてきた媒体ではあるのだ。