半世紀も前に発表されたコーリン・ロウの『透明性(Transparency)』という論文は、私が学生時代の80年代に『a+u 』の75年のバックナンバーに掲載されたものを目にして以来、しばらくは建築設計の一つの手掛かりとして私の頭の隅にあった。「透明性」を物理的で「実」のものと、知覚的で「虚」のものとの2つに分け、建築に対してバウハウスやル・コルビュジェを例にセザンヌやキュビスムの「透明性」の論理を適用して論が展開されている。今の時代にこのようないわば建築理論をそのまま適用するには少し無理があるように思えるが、この「透明性」を喚起させる建築として私が個人的に思い浮かべる建築は二つある。池原義郎の「早稲田大学人間科学部所沢キャンパス」と槇文彦の「慶応義塾湘南藤沢キャンパス」である。池原の「所沢キャンパス」の方は池原義郎のデザインを象徴するつくりとなっているのがわかる。すわなち「襞」的な表現による壁の何層もの積層による奥行きと複雑さを表す手法、それがいわば「虚」の透明性を喚起しやすい構成となっているが、一方槇の「藤沢キャンパス」の方は一般的には「透明性」とは関係のないような感じを受ける。「所沢キャンパス」に対してガラスによる直接的で現実の、つまり「実」の透明性ということではなく、キャンパス全体、つまり各棟の配置により、近景~遠景へと「虚」の透明性が確保されているように捉えるのだ。しかしこれら二つの例は、ロウが挙げたバウハウスやル・コルビュジェの建築例の分析とは異なるものであり、むしろ絵画的で知覚的な透明感とでもいうようなものに近いものである。つまりわざわざ「透明性」などという言葉を出す必要もなく、建築単体とそれを取り巻く空間の全体と部分の関係から如何にデザインをするかという観点から捉える、手法としても当たり前で基礎的な手法の選択肢でもあるだろう。
この論文で紹介されているロウのモホリ―ナギに対する解釈は、もはや建築とは関係ない。
『歪曲、再編、懸け言葉というプロセスを経ることによって言語学上の透明性・・・すなわちケペッシュの「視角的な断絶のない相互貫入」にあたるもの・・・が生れるということと、ジョイス的な「言語膠着」に出会った人は、一つの言葉の意味の裏側にもう一つの意味を探る喜びを味わうことになるという事実に気づいたように思われる』(訳 伊東豊雄、松永安光)。
ロウによるこの記述はエクリチュール上の問題を扱っているだけで、その後の展開でそれを建築という三次元の物体に結びつけることに違和感をおぼえる。すなわちロウのこの記述のような解釈は、単に「透明性」という言葉の表面上の上澄みを表したものと考えてもいいのではないだろうか。ジェイムス・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』に「多重言語膠着」を見出すこととバウハウス透明性とは結びつきの平面が違うのではないかと考える。ジョイスのことを敷衍すると、言語膠着をどのように解釈しているかは分からないが、おそらく一つの意味に様々な要素を付加・結合させ文法的な役割や関係に差異を与えるということだと勝手に解釈すれば、それはニュアンス的には言語的な透明性としてそれこそ何にでもあてはめられそうな印象を与える。しかし一般的に文学上エクリチュールの透明性などと表現した場合に受け取られる印象は、おそらく言葉単体のもつ透明さ、すなわち「きれい」、「みずみずしい」など、直接的な透明性を指すのではないだろうか。
ここまでの論でも明らかなように、私にとってはすでにこの「透明性」はあまり重要ではない言葉になっている。二次元の絵画、三次元の建築、文学上の言語、これらを貫通させようとする多義的なようで一義的、一義的なようで多義的な発想はむしろ不幸を招くだけだろう。もちろん外部に対する論としては無意味なひとりごとであり、内的にも私にとっては拡大不可のワードとなっている。