P.アイゼンマンによる『ホロコースト記念碑』(2005年ベルリン)は『a+u 』に掲載されているし、その用途の性格上からも一般によく知られているが、ウィーンの『ホロコースト記念碑』はあまり一般になじみがないのではないだろうか。このウィーンの記念碑はアイゼンマンによるものではなく、イギリスの美術家レイチェル・ホワイトリードによるものであり、案は設計競技で選ばれ2000年に完成したものである。ベルリンの記念碑の方は広大な敷地に多数の箱が整然と配置されたものだが、それとは対称的にウィーンの方は建物に囲まれたユダヤ人広場にあり、かつてそこにあったシナゴーグ(ユダヤ教の教会)の地中の遺構の上に建てられたものである。ここでは双方のデザインに対して書く意図はなく、ホワイトリードという美術家による作品についての印象について若干の考察を書きとめておきたい。
私の造語(?)としてmaterialscape について以前書いた線上で考えたことだが、ホワイトリードの作品は、もちろん美術館の展示室におさまる一般的な美術作品の規模のものもあるが、前述した記念碑のような、いわば構築物的な規模の大きなものある。記念碑は碑とはいっても外見上は博物館のような重厚な建築物である。7m×10mの箱型平面で高さが4m近くある。そこには私たちが建築であまり目にしないような外壁、それは一見コンクリートブロックの組積的なつくりのようにも見えるが、その表面の質感に特徴がある。遠目にははっきりしないがクローズアップすると縦に細かいリブが入っていて、触れるのをためらうような非常に荒々しい質感となっている。このデザインの意図は「書物の民」といわれたユダヤ人の暗喩として表現されたものだということで、つまりリブは本の背表紙を表現したということになる。この質感は背景の石造の建物群に負けないとともに調和した落ち着きを放っている。建築批評家A.ヴィドラーによるとこのデザインは「生命の記憶に依存したもの」と評している。実はアイゼンマンもこの設計競技に参加したらしいが、私はその案を知らない。しかしヴィドラーによるとアイゼンマンの応募案は「建築的客体の平行する記憶のなかの、その記憶の形象の模倣に依存したもの、つまり「記憶」のプロセスを模倣したものである」と評しているが、案を見ていないのでこの意味を理解するのは難しい(引用はA.ヴィドラー著『歪んだ建築空間』(青土社刊 中村敏男訳)より)。しかし建築家ではない美術家であるホワイトリードが案として選ばれたのだが、この記念碑以外に彼女の作品、すなわち「美術作品」のなかで興味深いものがある。それは「ハウス」と題されたもので、これも室内に納まるような規模ではなく、一般の住宅建築なみの規模で、屋外作品である。三層構成を思わせる階段の断面と、まるで建物を縦に切断し元々あった内部空間をコンクリートで充填したかのようなマッシブな表現は、詳細は不明だが取り壊し予定の建物を加工したものらしい。前述したヴィドラーの著作から引用すると、「この「ハウス」というキャスト(鋳造作業)は、空間を満たすという単純極まりない作業であり、かつてオープンであったものを閉ざす作業であって、そのことが「オープン(開かれている)」とは絶対的に正しいとは言えないにせよ、より良いことだとする一世紀にわたるドグマの常識的分別と真っ向から対立するのである。・・・そしてこれは、一人の彫刻家が物質的注意力を、複雑に入り組んだ格好の作品の鋳造に、注意深く、発揮した意思表示なのである」。さらに引用を続ける。「「ハウス」がそれまでの居住の記憶や住居の伝統的概念の痕跡であるとするならば、・・・ホロコースト記念碑は、「ハウス」を公共の場において完結させたものである」。またホロコースト記念碑について批評家ジャッスルウッドの解釈を以下のように記述している。「この「メモリアル」は、「ハウス」を論ずるコンテクストのなかでは、単純に彫刻を建築に転換するものではなく、むしろその両方を変貌させている。内部は外部となって、建物は建物「として」キャストされ、固有の内部をもち、さらにそのキャストはイマジナリー(虚として)で、タイポロジー(表象)としての形体以外では決して存在したことがない建物・・・棺とかザ・テンプル(法曹学院)・・・から作られ、彫刻としての基準と建築としての基準を重ね合わせて、何か別のもの、二つの「どちらでもない」ものを構成するのである」。
平たく言えば「記念碑」も「ハウス」も、建築と彫刻の境界を再考させる媒体として現前する。私は「ハウス」を見たとき、鈴木了二氏の仕事を連想した。建築としては「麻布EDGE」。そして70年代以降の「標本建築」は構築物ではないが、バラック建築のファサードを「標本」したもので、これも鈴木氏の「物質試行」の大事な一断面である。ホワイトリードの作品と同様、物質、特に表層の質感に思いを巡らし、言葉を超えて迫りくる力強さは、それが建築であるか美術作品であるかの解釈を寄せ付けない。