1988年に発行された二冊の『a+u』にA.ヴィドラーの短いテキストがある。その二冊とは、バーナード・チュミの「ラ・ヴィレット公園」が初めて紹介された9月号とP.アイゼンマンの作品集の臨時増刊号である。それぞれに掲載された論文を今改めて読んでみると、最初に読んだ88年当時には感じなかった違和感を覚えたので、それをここで少し述べたい。
まず9月号だが、(そこにはチュミ本人のテキストもあるが、)ヴィドラーはチュミの建築について『アーキテクトの快楽』と題して論文を掲載している。その内容のキーワードとして「快楽」を使っている。ヴィドラーの考えによるとチュミの考えというのは、「建築家というものは、古今の優れた作品について考察することに意図的に快楽を感じようとせずに、むしろそれを「解体」することに快楽を覚え、快楽を明らかにひねくれた方向へと確実に反らそうとするのである」(引用『a+u』9月号より)。そしてチュミの快楽の本質とは、「受け継がれてきた規範に関する計画的な逸脱、秩序の観念を疑ってみること、調和の概念を再検討すること、形式主義や機能主義の通説から離れること、建築の限界そのものを確かめること」、と記述されている。ここまではヴィドラーによる解釈であるから彼がどのように解釈しても構わないのだが、チュミの「快楽」の考えをバルトの快楽と結びつけていることに対して私は大いに首をかしげる。まずヴィドラーは、「チュミが「解体」で感じる快楽は、バルトが指摘した区別を用いれば「作品」の快楽ではなく、「テクスト」の快楽となるであろう」としている。これはつまりバルトによる「テキストの快楽」とチュミの考える「建築家の快楽」を無理に、あるいは無理解に結び付けているといえないか。ヴィドラーによるバルトのテクスト及び快楽とは、「テクストは作品のように「展示され」いつでも消費されるものではなく、論証されるべきもの」、及び「作品の快楽は優れた著作を読んだり、優れた建物を見たりといった申し分のない恩恵であり、消費の対象としての性格によって相変わらず限定されているが、テクストの快楽は読むことと同様に書く享楽、「快楽」に満ちている」、としている。
バルトの『テクストの快楽』は、全体を通して決して一義的でなく、上記のようないわば結論的で明確な定義では書かれていない。バルトが著書『テクストの快楽』で述べているテクストの原初的な意味のひとつに「織物」との関係で以下に記述している。「・・・われわれは今、織物の中に不断の編み合せを通してテクストが作られ、加工されるという、生成的な観念を強調しよう。この織物の中に迷い込んで、主体は解体する」。しかし本書は全体的に断章的に書かれていて、しかも前述したように結論めいたことは明確な解答などないし、曖昧な記述も多い。ヴィドラーはチュミの建築にどうしても「テクスト」という概念を取り込み、それに「解体」と「快楽」をもち込もうとした過程で、あたかもバルトの「テクスト」「快楽」が適切な解答を与えているかのごとくあてはめる行為は、バルトを知らない者にとっては誤解をあたえることにつながる。バルトのテキストに対する、それこそ「快楽」は、バルトの前述したような断章的で曖昧ともいえる言説からわれわれが何をどう読み取るかという行為から生まれるといってもいいのではないか。例えば「出現―消滅の演出」や「オイディプス的快楽」など身体や物語の生成との関係で捉えた概念など、分かりにくい部分ではあるが、われわれに豊かな解釈を促す役割を果たしている。ヴィドラーはキーワードとして「解体」を使用したいという意図がこのテキスト全般から伝わってくる。そうであれば、批評家の巨匠に対して失礼かもしれないが、チュミが使う「テクスト」という考えを超えて、もっと建築的で具体的な解釈で「ラ・ヴィレット公園」を例に論を構築してほしいと感じる。「ラ・ヴィレット公園」そういう意味では格好の素材なのだから。