構築物が存在し風景を形成する。様々な都市施設があり、建築物が建ち並び、規制に基づき都市の望む姿に誘導されていく。都市の公共的な空間はモノとそれを扱い関係するヒトで景として成立する。しかしこの都市における公共というなんとなく曖昧な概念は一体誰がどのような外力で企むのだろうか。私たちが住むこの街の姿は、どのような力が働いて今日に至り、そして未来を目指しているのだろうか。そこに働くモメントは公共性という漠然とした、得体のしれない何かにどのように内在しているのか。あるいはどのような外力が働くのか。
ハイデガーは『存在と時間』において、序説の前にプラトンの『ソフィステース』を以下に引用している。
「・・・というのは、君たちが〈ある〉〔存在する〕という言い方をするとき、一体それがどんな意味なのか、君たちはずっと前からむろんよく知っているのだ。僕たちも以前には、それがよく分かっているつもりだったが、今はてんで分からなくなって困りきっているのだ」。
ハイデガーはこれを契機に〈ある〉〔存在する〕という根源的な問いを提示し、「すべての存在了解一般が可能になる視界としての、時間を解明することが、この論文のさしあたっての目標なのです」(岩波文庫版 桑木務訳(以下引用同))と自著で論を展開していく(ちなみに著書は未完である)。
本書第一部第一篇の第四章「共同存在および自己存在としての世界・内・存在「ひと」」の「日常的自己存在と〈ひと〉の節で、公共性について自己及び他人、そして「現存在(ダーザイン)」をモチーフに論じている。「現存在(ダーザイン)」はここで簡単に定義はできないが、かっこつきで人間存在を表し、人間の在り方を指している。そしてこの章(第四章)は「現存在の予備的な基礎分析」の中の考察である。長い著述の中で一つのポイントとしてまとめられるのが、公共性は①差異性(ちがい)、②平均性(ありきたり)、③平坦化(ならし)で構成されるというものだ。
ハイデガーによると、「ひとが他人とともに、(また他人のためには、また他人に反対して)つかんだところのものを配慮する場合には、いつも他人となんらかの差異をめぐっての関心が存する。それが他人の差異を均すためのものであれ、自分の現存在を他人との関係において引き上げようとすることであれ、自分の現存在が他人より優位にあってかれらを抑えつけようと企てたりする場合であれ、いつも関心は差異に根ざしている」と論じ、現存在は差異性の性格をもっているとしている。さらに「ひとは自分独自の在り方をもっていて、このような差異性の傾向は相互存在そのものが平均性を配慮するものだということに基づく」と論じ、ひとは自分の存在において本質的に平均性に関わっているとする。またさらに平均性は「全て出しゃばってくる例外を監視する。どんな優位も抑えられる。全て深遠な根源的なものも一夜明ければとっくに知られたものとして滑らかになっている。およそ闘いとられたものはみな手ごろなものになり、このような平均性を目指す関心は現存在の本質的な傾向を露呈し、これを存在可能性の平坦化と呼んでいる」。ハイデガーが「公共性」をこのように概念として「差異性」、「平均性」、「平坦化」の三段階で分類しているところが興味深い。
差異は一個人の中でも表われるし、もちろん他人との関係で顕著になるが、いずれにしても公共性という巨大な怪物の前では平均化され平坦化されるというような一義的で狭義な思考ではないが、あらためて「ひとは自分独自の在り方をもっていて、このような差異性の傾向は相互存在そのものが平均性を配慮するものだということに基づく」という言説から「個」(部分)、「共同(相互)」を、「公共」(全体)という枠の中で、「すべてを曇らす」という現実の中で関心を持ち続けるかということが、ますます大事になってくるであろう。
蛇足になるが、公共は英語で「public」という。
よく自己PRという言葉を、特に学生の就職活動の面接練習で使う。たいていの学生は自分が中学、高校時代に経験したこと、例えば部活やバイトで頑張った経験を滔々と話す。その努力を社会、会社で活かすということを言いたいのだろうし、それはそれで別にかまわないのだが、採用する側の立場に立ってみればその経験は単なる思い出としてしか捉えられない。結局それが社会と学生個人との関係で考えたとき、公共という社会の中での自分の存在の在り方まで踏み込んだものであれば、「個」「公」のどちらにも偏らない、様々な関係性を意識しうる能力を今後育てることができると思えるようになる。(私は採用する側と学生を指導する側のどちらも経験したことがあるので、多少実感としての考えである)。自己PRのPRとは「public relation」の略であり、「広告」や「宣伝」のほか、字義通りに捉えると「公共的な関係性」といえる。話はハイデガーから逸れるが、最初の問いに戻って「公共性」における「力」というものの存在について、今後も考えてみたいと思う。