『あらゆる言葉は暴力である』(この引用でのみすべてを了解することは危険である)。前回のテキストで引用したブランショの記述で、私は「言葉」を「会話」に置き換えて「暴力」の問題を考えることがある。特に二人による会話において、両者の立場の力関係の差の大小にかかわらず、すべての会話が暴力的であるととらえている。力関係、例えば同じ年齢の子供同士、あるいは社会人になってからの同僚同士、上司との関係、あるいは親子や教師と学生の関係、様々な場面での会話がある。特に友達同士のような一見公平な立場であるように思われる関係でも、そこには公平はなく、ましてや会社や仕事上の関係において公平性を求められる場においてさえも公平など存在しない。その不均衡の中で、会話はあるルールを承知の上で行われる。一人が話しているときに相手が同時に話すことは基本的に違反であるため、交代で話すだろう。そうでなければ会話は成立しないだろう。ということを経験上誰もが知っている。交代で話すとはどういうことか。一方が話すことに関連したことを一方が受け継ぐ場合に会話がうまく運んでいるように錯覚する。つまり全く関係のない話をされると不快になるだろう。あるいは互いにお構いなく自分の話したいことを話すことで満足する関係も多い。どちらにしても会話といえるだろうが、やはり「同時に会話が進行」することはないといえるだろう。それが起こりえる場合は、それは単に自己主張、言いたいこと、をただ単に言うだけに終わってしまう。独り言と同じである。問題にしたいのは会話というものは「言葉が交代で行き来するものだ」ということである。そしてその変わり目で一方が目論んでいた企みが、進行が一時的に一方に譲られる隙に弱められ、間隔をおいて企みが復活するということだ。元通りに復活することもあれば、全く違うもの、あるいは正反対のものに変わることもある。つまり交代の間際で企みの一部が排除される。排除される一方で新たな企みが発生することもある。この瞬間に「暴力」が現前する。(ここであらためて言いたいが、暴力は腕力の問題、しかも否定的な言葉として扱っていない)。この交代をブランショは「中断」あるいは「中休み」と言っている。
『彼らが担う一貫した言述は、いくつかのシークエンスで構成されており、話し手が変わると、それらのシークエンスは、たとえつながるように調整されるにしても、中断される。(略)言葉を話すという能力は中断され、そしてこの中断は副次的に見える役割、まさしく従属した交替の役割を演じる。しかながらこれはかくも謎めいた役割なのであって、言語活動の謎そのものを担っているものと解釈されることができる。文章間の中休み、ひとりの対話者から別の対話者へと移行する中休みであると同時に、注意深い中休み、聴き取りという中休みであって、それは話すこと=語り方の力を二重化する』(同書より)
話し手の交代を「謎めいた役割」とブランショは言い、さらには「言語活動の謎」、と思考の次元を上げている。私はこの謎を一種の暴力の介在ととらえ、対話者の間に、犠牲者の蓄積をみとめる。その犠牲者とは何か。言語活動で犠牲となった余韻(必然ではないもの)である。余韻のなかにその人の主張のかなりの部分が含まれていることが多いだろう。それを排することを負っても対話という交代と中断の暴力をすんなり受け入れることが会話であろう。
2.ニーチェの災難
死後も生き続ける人、ニーチェ、ドゥルーズ、マラルメ、それぞれ生まれが、19世紀半ば、20世紀初め、そして19世紀半ば。ドゥルーズが亡くなったときの記憶はまだ残っている。ドゥルーズ含め、現代でもこの三者は様々なテキストで引用される。
ニーチェは『悲劇の誕生』から後年の『ツァラトゥストラ』までその思想は変化している。初期は芸術のおかれている問題、つまり純粋な創作活動から商業的で俗的なものに堕ちたとする現実からその純粋性をもう一度再生させようという、いわば希望の思想から、後年は理性というものに対する挑戦と、さらに「永遠回帰」という「肯定の思想」に変化していく。しかしその後年のニーチェのニヒリズムを、打開できない現状への受け入れと解釈、ととらえるような誤った認識が一方に存在することも現実だろう。ブランショはニーチェのニヒリズムについて以下のように記述する。
『永遠回帰の思想は、その古くさい不合理性という意味では依然として奇妙なものである。それが表わすのは論理的な眩暈である。ニーチェはそこから逃れることはできなかった。それはすぐれてニヒリズム的な思想であり、ニヒリズムが自らを決定的な仕方で乗り越え不可能なものにしながらも、絶対的に自らを乗り越えていくような思想である。それゆえ永遠回帰は、精神が臆せずそれに立ち向かうときにこそ、ニヒリズムという、この罠のようなものが何であるのかを私たちにもっとも明らかにしてくれるのだ』。(ブランショ『終わりなき対話(Ⅱ)』より)
永遠回帰は、「時間」という概念、回帰という逆の方向への時間の概念を孕みながら、ニーチェはそのニヒリズムという罠を受け入れながら、自らを乗り越える、臆せず立ち向かう、という生の思想を提示する。つまり単なる言葉として、あるいはスローガンとして「永遠回帰」などと主張するのは、腕力による暴力と同じである。いわば健全な暴力的思考とはニヒリズムとともに極端な思考を、それこそ中断することだろう。
ニーチェの「超人」は、決して「宗教」的ヒーローではない。さらにブランショの引用。『・・・人間はその時間の次元においては、再生不可能な過去と不可逆の時間という必然性によってはもはや限定されないということでなければならない。人間は完全な成就としての時間を必要としているのだ。しかし、時間が背後へと回帰するというのは、可能なるものの埒外にあること、つまりは不可能性であり、それはここでは次のような最大の意味を帯びている。すなわち、それは力への意志としての超人の挫折を意味しているということだ。超人は決して極端なものを可能にはしないだろう。永遠回帰は、権力の領界には属さない。永遠回帰の経験がもたらすのは、あらゆる遠近法の転倒である。無を望む意欲は、永遠を望む意志となり、そしてその意志において意欲もなく目的もない永遠が自分自身へと回帰する。(略)価値という概念がその領界へと適用されるのをやめるような、ひとつの領界へと私たちを到らせるのである』(同書より)。戻れない時間のなかで、人間は極端なものを可能にしない。無を望む意欲が永遠を望む意志となり、意欲も目的もない永遠が回帰する。暴力的思考は、あくまで自分自身への回帰のなかで、「問い」という未完な言葉の転倒と、そして決して転倒されない時間の認識のなかで存立するであろう。
・・・3へ続く