再びドゥルーズの「力の複数性」に引き戻すと、ブランショがその隔たりの差異をニーチェの「力への意志」との関係でとらえたことを、さらに今度はマラルメの思考を引用して、差異を次の三段階の過程を経て結論付ける。すなわち「差異は空間である」、とする(ニーチェと同時代の)マラルメの発見は、すなわち『それが自らを間隔化して間が開き、[種子の散布のように]散種されて散在する』かぎりにおける空間である、とブランショが敷衍し、そして『生成の、方向づけられた同質性という意味合いではなく、こう理解される生成としての時間である』とする。それはすなわち『それが自らを区切って拍子を打ち、自らを通告し、自らを中断するときの生成、さらには、こういう中断のなかで、自らを連続的にするのではなく、むしろ不―連続的にするときの生成としての時間なのである』、と展開させて以下に結論する。『時間と空間の戯れ=作動である差異は、諸関係の黙した戯れ=作動であって、エクリチュールが宰領する「多数の、引き出された空き地」であるが、このことは結局のところ、大胆にもこう言明することに帰着する、すなわち差異は、本質的に言って、書き込むのだ(エクリール)、と』(『』内:ブランショ『終わりなき対話(Ⅱ)』より)。
差異とは時間であり空間である。そして両者の戯れであり、エクリチュールが仕切る「空き地」に対して「書き込む」という行為を与えることが本質である。こうした読み取りはあくまで「エクリチュール」の問題として処理し、他の領域に無理に拡大することをやめなければならないだろう。
しかしブランショは差異について述べる。『差異の「違う=異なる」は、エクリチュールによって担われ運ばれているが、しかしけっしてエクリチュールによって登録されてはいない。(略)極限的には、エクリチュールが登録しないよう求めるのであり、そして、登録のない生成にほかならないエクリチュールが、ある不規則的な空白=不在を記すことを求める。それはいかなる刻印によっても安定化させられることのない、また、かたちを授けられてさだめられることのない、不規則的な空白=不在であって、こういう空白=不在は、刻印なしにただ痕跡づけられているだけであり、ひとえにそれを決定するものが絶え間なく消えゆくことによってのみ、初めて輪郭の描かれるような何かである』(ブランショ同書より)。
「空き地」においては定まった何かが埋められるのではなく、「登録」されていないエクリチュールが不規則に、しかも「刻印」なしに「痕跡」づけられる。これらのブランショによる独特で難解なエクリチュールは読者の視点に引き戻して次のように章を終える。
『差異―それは言葉の差異以外ではありえない。(略)差異自身は、ダイレクトなやり方では、言語活動(ランガージュ)へとやって来ることはない。あるいは、そこへとやって来るのなら、そのとき、私たちを、中性的なもの(略)の奇異性へと送り返す。すなわち、和らげるままにはならないものへと送り返す。言葉つまり、刻印のない描線、転写のないエクリチュール。それゆえエクリチュールの描線=特徴は、けっしてひとつの描線の単純性では、すなわち、その刻印と混ざり合うことで引かれ、書き記されることのできる、ひとつの描線の単純性ではないだろう。そうではなく、エクリチュールの描線=特徴は相違しつつ分岐することであり、まさにそこから発してあの追及―断絶が始まるー始まりなく始まるーのである』。
・・・私たちは、「空白」を怖いと感じる。とめどなく発せられる言葉は「空白」への埋め合わせであり、エクリチュールは痕跡を留めているように錯覚する。発せられる言葉は、その言語活動において刻印もなく、転写もない、と考える。しかしエクリチュールは何らかの描線を描き、「空白」を固有の描線で埋め尽くす。しかしそれもそこに留まり続けない。私(たち)は、エクリチュールはそこに留まっていると思っている。しかしけっしてそうではないということを、私はここから読み取りたい。プラトンのエクリチュールはプラトンのものであって、プラトンのものではない。それはソクラテスのものという意味ではなく、プラトンと同時代のプラトンのエクリチュールが多くの痕跡を残しつつ、何者かが痕跡を奪って、登録から外してきた歴史があるということを認識しなければならないだろう。そうして、今の私たち、今の時代の膨大なエクリチュールは、同時代のものであって、同時代のものでなくなる、さらに痕跡は消され、残され、未来にそのまま、あるいは転写され、形を変え、退屈で怖い「空白」を埋める作業に没頭することになるだろう。
4.「経験」―森有正、そしてブランショ
高校時代に英単語を暗記した記憶はあるだろう。唐突だが、「experience」と「experiment」はそれぞれ「経験」と「実験」であり、意味は異なるが「字面」と音は似ているので、混同してしまうこと多かった。ブランショの同書(『終わりなき対話(Ⅱ)』)の後半は「限界―経験」と称する章で、言葉の定義を解説で訳者(西山達也)が書いている。その解説から感じたことなど、森有正の「経験」と関連して考えてみたい。
・・・6に続く