私が所属する業界、建築界では、設計、施工だけでなく、設計においても構造や設備、外構等の専門領域、他建物の規模にかかわらず多くの人がかかわっている。基本的に設計においては有資格者でないと設計はできないのだが、資格がなくても設計ができる能力を有する人は多い。逆に資格はあるが能力がない人も多いのが現状だ。どんな業界でもいえることかもしれないが、実務を多く経験した人は自信があり、説得力もある一方、経験したことのないことに関しては曖昧な対応をするか、経験に照らして予測して対応する人などによく出くわす。建築の技術的なことに関して単に経験のみに基づいて行動する人の話は、素人にはともかく専門家、特に有資格者には非常に怪しく感じることが多い。何も有資格者がすべてにおいて信頼できるという意味ではなく、資格を取ることはすなわち経験しないことの知識も習得しなければならないということを考えると、未経験の事態に出くわしても、経験からではなく、理屈で、あるいは技術や知識で判断することができる、と期待される。実際はそう単純な話ではないことではあるが、つまりここで「経験」ということを考えた時に、「経験」というのは、実務をすることのみで何か知識が知らず知らず身について、わかったような気分になっているということ、果たしてそれは経験を積んだといえるだろうか、とよく思ったものだ。
私はこのような疑問を抱くとき、いつも森有正の言葉が頭に浮かぶ。彼のエクリチュールのなかで、非常に重要な部分を占めるのが、「経験」と「体験」についてだが、『遥かなノートルダム』の中の『霧の朝』で以下のように経験について書かれている。
『経験というものが、感想のようなものが集積して、ある何だか漠然とした判ったような感じが出て来るというようなことではなく、ある根本的な発見があって、それに伴って、ものを見る目そのものが変化し、また見たものの意味が全く新しくなり、全体のペルスペクティーヴ(原文ママ)が明晰になってくることなのだ、と思う。したがってそれは、経験が深まるにつれて、あるいは進展するにつれて、その人の行動そのものの枢軸が変化する、ということをも勿論意味している。その場合大切なことが二つあって、一つは、この発見、或いは視ることの深化更新が、あくまで内発的なものであって、自分というものを外から強制する性質のものではなく、むしろ逆にそこから自分というものが把握され、或いは定義される、ということ、と同時に、それはあくまで自分でありながら、経験そのものは、自分を含めたものの本当の姿に一歩近づくということ、更に換言すれば、言葉の深い意味で客観的になることであると思う。(略)経験をもつということは、人間が人間であるための基本的条件であり、一つの経験は一人の人間だ、ということである。したがって、一つ一つの経験は互いに置き換えることの出来ない個性をもつと共に、人間社会におけるそれであるが故にそれが客観的に純化されるに従って、相互に通い合う普遍性をもって来るのである』(『森有正全集3』筑摩書房刊より)。
経験するということは「ある根本的な発見」がある、と彼は言う。それはこの章の始めに「experience」と「experiment」の意味を「経験」と「実験」と書いたが、この関係をブランショの『終わりなき対話(Ⅱ)』の訳者(西山達也)が以下にうまく表現している。
『経験とは、その定義上、限界に赴くこと、限界に触れること、限界領域に身を置くことを意味する。(略)経験とは、何か未知なるものや不確実なもの、リスクや危険を孕んだものに向かっていく運動であり、そこにはつねに偶発的な要素が前提とされている。ギリシア語で「経験」を表すempeiriaにも、「試し」「実験」等を意味するperiaという語が含まれており、さらにこの語には「境界」「限界」を意味するperasと共通の意味等が含まれている。こうした語源的な背景を念頭にいたうえで、ブランショは、限界―経験という表現を用いているのであり、つまり、経験とは、徹底した自己の問い直しを起点とするものであり、それは安定した境界に囲まれた領域の内部で自己を安全なまま維持することではありえないのである。』
この文からは、ブランショの「経験」に加えて語源から派生させた意味として「限界」との関係を西山は解説している。ブランショによる本書では副題が「限界―経験」であることからも、「限界」というキーワードが重要な位置を占める。
『経験をもつということは、人間が人間であるための基本的条件である』とする森有正の「経験」を、そしてブランショの「経験―限界」を、この先しばらく考察してみたいと思う。
・・・8へ続く