TEXT 「A Passion Play」 – 暴力と舞台装置 – 8

『読書する暇つぶし屋を、わたしは憎む』

様々な言葉、箴言が私を戒める。
ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』(岩波文庫版)の第一部「読むことと書くこと」で、氷上英廣が訳したのは「暇つぶし屋」で、他の翻訳では「怠け者」など、多少の違いはあるが、若い時代に出会ったこの言葉に、まともに字義通りに受け止めていたとしたら、少なくともこの30年はおそらく乾いた砂漠の中を歩いているような思いをしたか、あるいは逆に何も知らない無邪気で潤いのある生活を送っていたかもしれない。しかし私はこの言葉を胸にとめておきながら多くの本を読んだ、ように思う。本を読む、読書するという行為は誰にでもできそうだ、が、誰にもできない、誰にでもできるというわけではない、と思うようになっていた。私の経験に照らしても、読んだ本のほとんどはその内容は覚えていない。つまり読んだという確証がない。しかし、過去に読んだ本のページを繰ってみると、そのほとんどに付箋やアンダーラインをしている。さらにその箇所を眺めてみると、なぜこのときここに線をひいたのか、このページに付箋を貼ったのか、疑問に思う箇所も多い。しかしそれでも昔の日記を紐解くように、次第にその時何に敏感で、興味があったかなどがよみがえってくることもある。また一度だけでなく何度も繰り返し、何かの節目で読んできた本も多い。例えばドストエフスキーの『罪と罰』、『悪霊』、漱石の『吾輩は猫である』、『坊ちゃん』、あるいはフォークナーの『八月の光』や『響きと怒り』は何度読んだか数えられないくらいだ。それでも読むたびに発見がある。そうして、その発見した言葉、胸に響いた言葉を忘れないようにノートに書き留めておく、という行為をずっと続けてきたが、それはほとんど習慣というか、食事や歯を磨くなどといった日常のルーティンに近い感覚で続けていた。つまり大げさに言えば人生において必要な行為となっていた。本を読むという行為は、あるいはその行為から、様々な意味をくみ取ることができる。人によっては内容はともかく、その読んでいる時間そのものが大事であったり、集中力を養うため、あるいは気を静めるため、など目的はさまざまであろうが、やはり私にとっては前述のように、どんなテキストからも一つは胸を打つ言葉があるから、あるいはあるかもしれないから読書をやめられないのだ。「読書する暇つぶし屋」と皮肉られようがかまわず、むしろそれを積極的に受け入れることにし、そしてそれを戒めとすることも忘れないようにしてきた。
ニーチェの『ツァラトゥストラ』に戻ると、本テキストの冒頭の言葉の前後は、以下のようなものである。

『すべての書かれたもののなかで、わたしが愛するのは、血で書かれたものだけだ。血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。他人の血を理解するのは容易にできない。読書する暇つぶし屋を、わたしは憎む。読者がどんなものかを知れば、誰も読者のためにはもはや何もしなくなるだろう。もう一世紀もこんな読者がつづいていれば、-精神そのものが腐りだすだろう。誰でもが読むことを学びうるという事態は、長い目で見れば、書くことばかりか、考えることをも害する』。

この内容についてよりも、今はこれを契機として、「読書」経験とはつまり本を読んだということと同義ではない、つまり私にとって本を読んだ、ということはすなわち「書くこと」と同じ意味になるということだ。先述したように、本をよみ、何かを発見する、知らなかったことを知る、このことによってあらためて自分の無知を自覚する。そして闇の中から何か実態のつかめない、自分で枠にはめたものをとりだし、さらにその中から自分で咀嚼できるものを選ぶ。そして、日常のなかのなんでもない非日常を拾い出し、異化する。そうして無限の曖昧からかってに絞られた領域をつまみだす。こうした行為に対し衒学的でスノッブだと批判的し、馬鹿にし、むしろ超然としているのは簡単なことだが、恥を受け入れ、無限の無知を積極的に受け入れてこそ、無限と思われていたものが限界を意識するようになるのではないか。
このようなことを取り上げたのは、言うまでもなく森有正の「経験」とブランショの「限界」について、私が普段思っていたこと、つまり「経験」とは森有正の言うように、『ある根本的な発見があって、それに伴って、ものを見る目そのものが変化し、また見たものの意味が全く新しく』なり、『経験が深まるにつれて、あるいは進展するにつれて、その人の行動そのものの枢軸が変化する』、ということ。そして『この発見、或いは視ることの深化更新が、あくまで内発的なものであって、自分というものを外から強制する性質のものではなく、むしろ逆にそこから自分というものが把握され、或いは定義される』ということを。自分の身近な日常を契機に考えてみた。
またブランショの『終わりなき対話(Ⅱ)』の訳者、西山達也が指摘するように、『ギリシア語で「経験」を表すempeiriaにも、「試し」「実験」等を意味するperiaという語が含まれており、さらにこの語には「境界」「限界」を意味するperasと共通の意味等が含まれている』ということを考えると、私は「経験」「実験」「限界」という言葉が一体となって様々な解釈の、そして行動の動機付けとなる。「experience」(経験)は「experiment」(実験)を通して物事を実証しようと企て、その限界、領域、枠組みを見極めようとする。無限の曖昧さから限界のひとかけらをつかむ。そしてますますわからないことが多くなることを実感する。このような繰り返しを積むことそのこと事態が「経験」なのではないだろうか。
ブランショは『終わりなき対話』の中で、以下のように「限界―経験」について書いている。
『限界―経験とは、人間が自己を徹底的に問いのなかに投入しようと決意したとき、その人間が出会う応答のことである。こうした決意は人間の存在総体を巻き込むのであるが、この決意は、たとえどのような慰めであれ、どのような真実であれ、そこに足を停めることはできないという不可能性、さらには、行動のもたらす利得や結果であれ、知と信による確実さであれ、けっしてそこにとどまることはありえないという不可能性を表現している』。(ブランショ 『終わりなき対話(Ⅱ)』筑摩書房刊より)
実験を試みて初めて「応答」に出会うものだ。「問い」に身を投げる決意をもって、自分をとどめさせないというスリリングな覚悟をもって「経験」の薄皮を毎日はがす作業を繰り返す。
・・・9へ続く