TEXT 「A Passion Play」 – 暴力と舞台装置 – 9

森有正の「経験」は「体験」の概念と両輪をなす。著書『生きることと考えること』の中で、その関係を書いている。
『人間はだれも「経験」をはなれて存在しない。人間はすべて、「経験を持っている」わけですが、ある人にとって、その経験の中にある一部が、特に貴重なものとして固定し、その後の、その人のすべての行動を支配するようになってくる。すなわち経験の中のあるものが過去的なものになったままで、現在に働きかけてくる。そのようなとき、私は体験というのです』。(『生きることと考えること』講談社現代新書より)

「特に貴重なものとして」の経験は、誰にでも多かれ少なかれあるだろう。私が幼少期からまとわりついていた「暴力」の感覚に関連して、成人してから最もインパクトが強かったアート経験がある。もう二十年くらい前になるが、当時小樽にペテルブルグ美術館という、石造りの歴史的建造物(銀行)を改修した美術館があったが、そこで「ヘルンヴァイン展」が催された。ヘルンヴァイン(ゴットフリート・ヘルンヴァイン)はウィーンの芸術家で、70年代ロックが好きな人なら、スコーピオンズの「ブラックアウト」というアルバムジャケットの絵といえば覚えがあるかもしれないが、それがポップな部類では有名な作品である。ジャケットの絵は頭に包帯を巻いた男が両目にフォークをメガネのように覆って、口を開けて振り向き叫んでいるようなショットを表現したものだ。全面にはガラスが割れて飛び散る瞬間を効果的にかぶせている。かなり異常な絵である。スコーピオンズのジャーマンロック、ジャーマンメタルにふさわしい、「遊び」のないハードコアなものを内包した狂気とよく合ったものだ。もともとこの絵は、彼(ヘルンヴァイン)自身がそのモデルとなり撮られた多くのスチールのショットがあり、その一つを当時のスーパーリアリズム、ハイパーリアリズムの手法を使って、すなわちエアブラシも駆使しながら書いたもので、写真のような質感だがリアリズム絵画とわかる作品だ。展示会でもこの絵を見たが、思ったほど大きなサイズではないことにむしろ驚いたが、それよりも他の作品を通して観たのは初めてだった。美術館は一般の美術館とはつくりが違い、内装も非常に凝ったもので、ヨーロッパの様式に倣ったような重厚で様式的なつくりで、絵画を一層引き立てる役目を果たしているというより、絵画と同等の作品性を維持している。(私は現代の白一辺倒の内装の美術館に違和感を覚える)。
ヘルンヴァインの初期の作品、パフォーマンスには、キーワードとして「包帯」、「血」、「少女」、「フォーク」、「ナチス」などを作品集から読み取ることができる。先のスコーピオンズの「ブラックアウト」も含まれる。作品集というスチールでしか享受できなかった当時、その中の異常とも思えるパフォーマンスに魅力ある「暴力性」を感じた。自己表現が今まで見たこともない「図」として現前し、それと卓越したドローイングの技法の迫力は、例えると稚拙なメソッドで作ったデスクトップミュージックのような素人的で甘い感性など寄せ付けない迫力が伝わる。展示会とともにそのとき購入した作品集のインパクトはもう20年経た今でも私を突き動かす原動力になっている。
迫害にあった少女たちの顔の絵が迎える建物の小さな入り口を入ると順路に従って作品を鑑賞できるようになっているのは他の展示会と同じである。歩を進めると、様々な作品が観者を迎える・・・徹底的な「暴力性」をもって。2畳分くらいあったろうか、2枚の絵と写真が並んで配置されていた。それはゴルバチョフのモノクロの「顔」である。どちらが写真で描いたものか、10㎝まで近づいて視てもわからない。ナチスの腕章をつけた作者自身の血に染められたパフォーマンスの写真。他、今思い出すとミッキーマウスなどよりポップなものを題材としたものもあったが、順路の最後にまさに時が止まったかのような瞬間で作品は完結する。『少女の頭』。息をのむ圧倒的な迫力で、縦横4~5mくらいはあるだろうか、目を閉じた少女の顔のスーパーリアリズムが迎える。建物の吹き抜け空間を利用した巨大なこの作品に私は理屈を超えて胸をうたれ、そしてこの言葉をもたず語り掛ける圧倒は、まさに理想の「暴力」であった。なんの前触れもなく、空間と感情を完全に支配した完全性に、今後の自分の仕事に対する姿勢、大げさに言えば生き方を暴力的に方向づけられた。この「暴力性」に対して、今まで漠然と考えていた「暴力」の概念を入れ込む作業が今後できると確信した。私は仕事を通して「これ」を作ろうと決意した、ことを忘れないように生きてきた。誤解のないように念を押すが、私の言う「暴力性」とはあくまで腕力のそれではない。
こういった経験は、もう20年余経て今に至るので、過去とはなっているが、森有正のいう固定した「経験」、すなわち「体験」と化している。しかし森有正は先の本の引用の続きで以下のように書いている。

『それに対して経験の内容が、絶えず新しいものによってこわされて、新しいものとして成立し直していくのが経験です。経験ということは、根本的に、未来へ向かって人間の存在が動いていく。一方、体験ということは、経験が、過去のある一つの特定の時点に凝固したようになってしまうことです。(略)これは一種の経験の過去化というふうに呼ぶことができましょう。過去化してしまっては、経験は、未来へ向かって開かれているという意味がなくなってしまうと思うのです』。(森有正 同書より)

確かに私の「体験」は固まってしまって、拘泥しがちに陥るが、この言葉をもって、より柔軟に仕事をするよう心がけるようになっている。いや柔軟という言葉は適切ではないが、建築に限らずどんな仕事でもこだわりをもっていては社会で排除されるだろう。こだわりは本来「いい意味」ではない。拘泥することなのだから、それを捨てなければ誰もついてこなくなるだろう。経験を過去化し、固まった体験を常に更新するよう開かれた、そして発見と実験の精神を持ち続けることが、特に私たちの世界ではよりクリエイティブな仕事をするうえで大事になってくるのではないだろうか、ということをよく考える。

再びブランショに戻り、主に文学論で構成されたテキスト『終わりなき対話』(Ⅲ)へと進めたいが、その前に視覚から聴覚へ、ヘルンヴァインからデヴィッド・シルヴィアンへ・・・進化する音表現について。
・・・10へ続く