映画作品に原作がある場合、私の場合映画を観た後にその原作を読むか、観る前に読んだか、あるいは読まずに今に至るかのいずれかである。若いころに観た映画で、例えば『ジャッカルの日』はその後すぐにフレデリック・フォーサイスの原作を読んだ。しかし同じ作者で『オデッサ・ファイル』は本が絶版になっていて、古書で入手はできたであろうが、そこまでする気はなかったため、原作を読まずにいた。また他にはベルナルド・ベルトリッチ監督の『シェルタリング・スカイ』はその前の『ラストエンペラー』で、坂本龍一が音楽を担当したということもあり、関心はあったが、結局映画自体は観ていない。原作を読んでみようとも思わなかった。他に列挙すると、ヴィム・ヴェンダースの『アメリカの友人』はP.ハイスミスの同題の原作、ヒッチコックの『レベッカ』、『鳥』はデュ・モーリアの同題の原作があり、他にも多数あるが、この3作品については映画観賞後に読んだ。原作は今でも割と簡単に書店で手に入る。しかし最初に挙げた『オデッサ・ファイル』と『シェルタリング・スカイ』は今でも絶版状態で、新品で入手が出来ない。そこで仕方なく図書館で借りた。図書館で本を借りるのは学生の時以来、30年ぶりである。それで、この年末を利用して読んだ。
かつて読みたいときにそれが絶版状態で、復刊を待った本を挙げると、ドストエフスキーの『未成年』があり、岩波文庫でも新潮文庫でも長い間手に入らなく、ようやく新潮文庫で復刊されたのが10年くらい前だろうか。ようやくそれを手にすることができた。ドストエフスキーの五大長編のなかの一つであるにもかかわらず、絶版状態が長かったのは意外だが、私はこの10年で何度か読み返している。他にラヴレーの『ガルガンチュアとパンタグリエル』の岩波文庫版(翻訳が渡辺一夫)、また『千一夜物語』の岩波文庫版、この2つも復刊まで時間がかかり、復刊前にともにちくま文庫版で購入し、読んだ。(『ガルガンチュアとパンタグリエル』ちくま文庫版は宮下志朗訳である)
『シェルタリング・スカイ』はアメリカの作家ポウル・ボウルズによるもので、1949年に発表されている。この小説を読みたいと思ったきっかけは、今年(2018年)発表された坂本龍一の『async』に、ボウルズ自身による朗読がコラージュされた曲(『fullmoon』)があったことがあげられる。ボウルズは日本ではあまりなじみがない作家であるように思うが、読後もう一度読みたくなるような作家である。作品の内容は簡単にいうとアメリカ人がアフリカに旅立ち、そこで苦難に満ちた生活を送るというものだが、アフリカの自然の描写と文明人の文明の世界では通用しない不安定さが、地味ながら丁寧に描かれている。具体的な言葉に作者の主張が表れている。作中、主人公の男が妻に向かって言う。
『君は決して人類なんかじゃない。君はただ、君自身の貧乏ったらしい、どうしようもなく孤立した自我にすぎないよ。(中略)おれは、そんな幼稚な手段でおれ自身の存在を正当化する必要を認めない。おれが呼吸しているという事実が、おれの正当さの証拠なんだ。人類がそれを正当さの証拠とみとめないなら、おれをどうなりと好きにするがいい。おれは、自分がここにいる権利を証明するために、存在への旅券(パスポート)を持ち歩くつもりはない。おれはここにいる!おれは世界のなかにいる!だが、おれの世界は、人類の世界なんてものじゃない。自分の眼で見る通りの世界なのだ』。と(新潮文庫版 大久保康雄訳)。
抽象的な、概念上の「人類」という言葉に対して、男は実感としての人の存在を説く。それは文明を離れ、それが通用しない世界で獲得した一つのヒューマニズムともいえる。
蛇足だが、大江健三郎の『個人的な体験』という作品で、主人公(バード)の愛人が、二人で企てたアフリカ行きを阻まれたことを嘆くシーンがあり、それに対し主人公が、『それはぼく自身のためだ。ぼくが逃げまわりつづける男であることを止めるためだ』と言って、自身にふりかかった不幸から逃げないことを宣言する。アフリカ行きが未知の世界への憧れというよりは、やはり逃避という要素も大きかったということを悟ったのではないか。
『一口にしていえば、砂漠の強烈な圧力の下で、アメリカ的人間を内部から支えている文明人としての自信とか自意識といったものが、いかに崩壊してゆくか、その過程を追求した作品である』と、『シェルタリング・スカイ』の翻訳の大久保康雄があとがきで書いている。
『オデッサ・ファイル』は『ジャッカルの日』と同様、事実をもとにフィクションとノンフィクションが渾然一体となった作品で、フォーサイスの力量が十分に発揮された作品である。『ジャッカルの日』はド・ゴール暗殺計画をベースに“ジャッカル”が着々と準備を進めるという割とシンプルな構成であり、また映画では主役のエドワード・フォックスの魅力が存分に発揮され、非情な殺し屋を演じるイギリス紳士に完全にはまっていたのに対し、『オデッサ・ファイル』は映画自体は、全体的に地味な印象を受ける。しかし登場人物、ミラー役やロシュマン役の俳優は味わいがあり、リアリティを引き上げる。しかし映画と原作では、理由はわからないがラストで異なっている。映画ではロシュマンがミラーに撃たれ死亡するが、原作ではロシュマンは亡命している。オデッサというのはSS隊員の組織のこといい、SSとはヒトラーのもとハインリヒ・ヒムラーによって支配されていた軍隊の中の軍隊で、ナチス第三帝国で特別の任務を担っていた、いわば親衛隊である。(ちなみにこのヒムラーに関する優れた作品として、今世紀に入って発表されたローラン・ビネによる『HHhH』という小説がある)。『オデッサ・ファイル』も『ジャッカルの日』同様、どこまで真実でどこまでがフィクションかわからないが、フォーサイス特有のストーリーテリングと一級のエンターテイメントとして仕上がっている。
今年はノーベル文学賞が見送られたということで、実はこれまでほとんど受賞そのものには関心がなかったし、ましてやボブ・ディランが受賞するとなると、もはや文学賞の意味などないのではないかとも考えてしまうし、さらに村上春樹にしても特別ほしい賞の対象ではないのではないかとも思ってしまう。しかし過去には受賞で初めて知った作家も多く、知ってよかったと思う作家もいる。ドリス・レッシングがその一人で、作品は多様だが翻訳が限られていて、これからの翻訳を望んでいる。とくに『アルゴ座のカノープス』シリーズと『暴力の子供たち』シリーズである。『暴力の子供たち』シリーズは原書で何冊かは読んだが、やはり翻訳でないとなかなか理解に限界がある。
過去には現代作家の作品を読んで、読まなきゃよかった、と思ったものが数多くあり、以後あまり現代作家の作品を追うことはなくなったが、それでもトマス・ピンチョンの最新作や、コーマック・マッカーシーなど佳作が多い作家など興味ある作家はいるので、それらの翻訳を待つこともこれからの楽しみの一つでもある。