TEXT 「自分を知る」のアポリア

玄関を出て庭を眺め、例えば咲いている百合の花をみてきれいだと思うと同時に、『これは花であり、私ではない』、『なぜこれは私ではなく、花なのか』などと思う人はいないだろう。「きれいに咲いている」と思った瞬間、次の行動に移ってしまい、今みた花のことなどすぐに頭からはなれてしまう。そうして一日は、(そんな単純にはできていないとはいえ、)「そのとき」が次に迫っている事柄に追い出され、時間が過ぎていく。しかし子供の頃を思い返してみると、時間に余裕があったせいか、例えば友達の顔をみて、彼が自分ではなく彼であって、私ではないということを意識し始めるときがある(あった)。それは自分が自分であることを認識し、他人でないことを知る、ということなのか。自分を知る、知ろうとする、他人を認識し、知ろうとすることの始まり、なのだろうか。自己同一、ということの目覚めなのか。いや、そうではないだろう。話はかわって、『自分探し』という言葉を聞いたり目にしたりすることがときどきある。有名人に多いので、メディアで取り上げられることもあるからかもしれない。あるいはその目的のために、お遍路の巡礼や外国の遍歴を経験するなどといった人もいるだろう。はたしてそこで「自分を探すことができた」、「自分を発見した」などと実感した人はいるだろうか。そもそも自分を探すなどという言葉を発したり考えたりすることにためらいはないだろうか。

このように、自分を知る、あるいは探すなどといった言葉に触れたときに思い出すことがある。田中美智太郎の書いた本で『読書と思索』(第三文明社刊)という古い文庫がある。これは私が大学に入学したころ、もう30年以上前に読んだものだ。田中美智太郎というと、今では一昔前の人という印象が強く、ギリシャ哲学者であること、プラトンなどの翻訳者くらいにしか認識されていないように思われるが、ましてや彼の思想そのものに触れる機会は一般には少ないだろう。この文庫には、考えることについてや読書、教養などについてわかりやすく書かれているが、そのひとつに『自己を知る』と題された章がある。「自己を知るとは何か」という問いかけに対する一般的な解釈についてすこし長めに触れている。そしてその後その解釈を否定するが、一般的な解釈として『自己の分限を知る』ということを、エピクテトス(古代ギリシャのストア派の哲学者)の『自分だけでどうにでもなるものと、自分だけではどうにもならないものとの区別』という言葉を補足としながら取り上げている。そしてさらには『自己を知ることは、また自己の非を知ること』ということも挙げている。これらの思考はいつの時代でもよく耳にするし、ものわかりの良い話として耳に心地よく響く人もいるだろう。しかし、それは自己を知るということなのか、と彼は問う。「自分を知る」ということが「自分の限界を知る」ということと同じことだとすると、「自分」と「限界」とが同じ意味であることを意味することになり、さらには「自分」と「自分の限界」が同義であるということにもなってしまうだろう。

テキストではさらに続けて、『自己を何かであると知ることも、何かでないと知ることも、自己自身を知ることではない』とし、『自己自身について、他の何かを知ること』とする。『わたしたちは、自己の非をさとったり、人間としての自覚をもったりする前に、自己自身をただ自己自身として、直接にこれを知ることを考えなければならない』とし、それはいったいどのようなことなのか、さらに問いを投げかけ、以下にテキストを抜粋する。

『知られる自己というのは、それを知る者の自己でなければならない。すなわち知る者と知られるものとが、同じ一つの自己でなければならない。しかしながら、知り知られるためには、知るものと知られるものとが分かれなければならない。するとその場合、知られるのは知られるものだけであって、これを知るものは、ただ知るだけで、知られるのではないから、知るものは、知る自己を知ったのではなくて、知られる他のものを知っただけのことになる。これは自己を知ることではなくて、他を知ることなのである。(中略)すべては他をもって他を知ることになり、自己をもって自己を知ることにはならないだろう。全体が、知る部分と知られる部分を知るに過ぎなくなる。従って、自己を知るというのは、知るものが知るもの自身を知ることでなければならない。すなわち知の知でなければならない』。

ここまでで「知る」ということが知る主体と知られる他との関係、そして知る部分と知られる部分という関係から「自己を知るというのは、知の知でなければならない」ということを第一の結語として導かれている。さらに展開して『いくら知る自己を知ろうとしても、知られるのはいつも知る自己ではなくて、知られる他に過ぎなくなり、わたしたちは無限に同じことを繰り返して、結局自己を知ることはできないだろう』とし、第一の結語を補い、『知は、いつも他の知であって、自己の知ではないことになる』と第二の結語が導かれる。つまりこの思考の繰り返しは『古代のアポリア』であるとする。この章では、第三の結語として、『ではどうすればよいのか』と投げかけ、『もともと自知とはそういう矛盾を含んだものであって、そのような矛盾の自己同一がすなわち実在なのだと言おうか。これはアポリアを解くかわりに、アポリアをそのまま呑み込んでしまう仕方である』としている。しかしこれは結論ではなく、さらにつづいて『この自知のアポリアをどう取り扱ったらよいか』と問い、そのアポリアそのものを以下に再解釈している。

『全体が知るものと知られるものとに分かれるとき、両者は互いに他者となり、知る部分は知る部分自身を知るのではなくて、知られる他の部分を知るのであり、知られる部分は、知られる部分自身によって知られるのではなくて、知る他の部分によって知られることになる。これは他者による他者の知であって、自己による自己の知ではない』。

ここまでが自己を知ることのアポリアについて書かれた内容であるが、知る部分がその自身を知るのではなくその他の部分を知るということ、これが他者の知であり自己による知ではないということがわかる。またそこから自分が知ろうとするその対象が自分であるとき、それは自分を客観視するということが前提なのだろうか、と考えるとそこにも矛盾が生じることに気づく。よく「自分を客観的に見つめろ」などということを様々な場面で耳にする。本当にそんなことができるのか不明だが、しかしたとえそれが出来たとしても、自分を知るということとはいえないだろう。それは他者による知ということになる。しかしこういった思考は無意味なことではないことも気づかされる。テキストはさらに続いて、上記のアポリアの存在とその認識について確認し、そのうえで自知は不可能なのかとあらためて問う。以下にテキストを抜粋する。

『知るものの側に自己をおくとき、知るものはどこまで行っても知るだけであって、決して知られるものにはならないとすると、自己は決して客観化されることのない、絶対的主観の意味をもつと考えられる。このような自己は、決して無意味ではなく、むしろ知るものとしては、その純粋究極のかたちにおいて、かくのごときものでなければならないと考えられる。わたしたちのうちにあって、終始ただ知るだけで、決して知られることがなく、強いてこれを対象化して、知ろうとすれば、そこに無限進行のアポリアが生じ来たるがごときもの、それがつまりわたしたちの自己であると考えられる。したがって、自知のアポリアは、かくのごとき自己を不可能にするものでは決してなく、ただこれを対象化してとらえることの不可能を示すものと解される』。

「自己は客観化されること」がなく、「絶対的主観」の意味をもち、「自己」は無意味ではない。自己に意味がなければ、主観としての自己も存在しない。わたしたちの「自己」というものは、知るだけで知られることがない、自己を対象化して知ろうとすると無限のアポリアに陥る。ちなみにテキストではこの後もさらに論は展開され、上記が結論ではない。

「自分を知るということのアポリア」は、自己を対象化することが不可能であり、そしてもっと言うとこのこと自体(自己を知るということそのもの)を対象化してとらえることが不可能であるといえないだろうか。つまり「自分を知るということを対象化できない」ということになるのではないだろうか。私が冒頭に書いた「知る」ということ、特に「自分を知る」ということについての一種の違和感は、この本にであってもう30年以上経てもなお続いており、「知る」ということについてはますますわからないというより、文中にあったアポリアの認知に留まったままで、「自己を知るとは」などと問うことはないし、「対象化」しないようになっている。しかし上記で展開される「知る側」「知られる側」の関係、あるいは「自己」と「他者」との関係において、鏡に反射した鏡のごとく無限に繰り返される思考を無意味ととらえず、私自身としてその関係性をそのときそのとき思考する、あるいは自身の経験に照らし合わせて内省する。このような「自分を知る」ということが「知れば知るほど知らない自分に気づく」などという短絡的な解釈よりも、「知る」対象が自己であることとそうではないこととを余韻を含ませることなく自分自身に突きつけること、それ自体に何かしらの違和感を正直に認めるような状態でありたいと考える。つまり無限に繰り返される思考は、結局はナンセンスに行き着きがちだが、単にそれが無意味な思考ではないということをもちたいと考える。「自分を知るとはどういうことか」ということに対して、「そんなことを考えるのは意味がない」とか、つまりこういうことだ、などと割り切れるほど一度も「自分」や「知る」ということを深く考えないことは思考の停止を自ら選択することに陥りかねないからだ。