TEXT 「第三項排除から運動としての貨幣」

『自然とは運動変化あるいは変化一般の始原である』と、アリストテレスが『自然学(第3章第1章)』の冒頭で書いている。この章の眼目は運動変化が2つの在り方で規定されるということ、すなわち「そのものの在り方を発現しきった状態であること」、そしてもう一つはそれとは対称的に「別の在り方への可能性をいまだ発現しえていない状態であること」ということを論述している点である。そして前者を「終極実現態」、後者を「可能態」と名づけている。一方別のアリストテレスのテキストでは「蓄財術」について、財の使用には二通りの仕方があるとしている。つまりそれ自体として使うその仕方が同じではないというのである。それを「固有」と「固有でない」と二つに区別している。具体的な例として「靴」を取り上げ、靴を使用するにしても、『靴を必要とする者に貨幣や食料と引き換えに靴を与える者でも、靴を靴として使用しているからである』(『』内岩波書店刊『アリストテレス全集17』より)としている。靴の製作は貨幣や食料との交換のためではなく、靴を履くために制作しているはずである。そして『蓄財術に属する売買術が自然にもとづくものではないことは明らかである』としている。

この「運動変化」と「蓄財術」に関するテキストの関連を,倫理学や哲学史が専門の学者、熊野純彦氏が『マルクス 資本論の哲学』(岩波新書)という本のなかで取り上げていて、経済学の立場ではなく哲学の視点でマルクスを捉えている。マルクスに関しては、個人的には若い時に第一巻(岩波文庫3巻分)を読んで、どうもよくわからなかったという印象だが、今その本を開いてみるとアンダーラインとそれらの文節を結びつける記号やメモ書きなどがあって、理解しようとした痕跡がある。つまり読んだ当時は丹念に読み込めば理解はできていたということはわかった。しかし一方でマルクスがこの本を書いてもう150年以上経ていてもなお読まれていて、あるいは例えばマルクス・レーニン主義という言葉から政治、とりわけ革命との関係からもいまだに様々なテキストで引用されているのは何故だろうとも思ったのも事実だ。『資本論』は副題が経済学批判ということからも、実践としてのテキスト(ロシア革命におけるマルクス・レーニン主義)であるとともに思想書としても取り扱われる。なぜ今でも『資本論』なのか、という漠然とした思いでいたなかで、この本に出会った。

今の時代、広い意味での貨幣の変化は急で大きい。電子マネーはいうまでもないが、仮想通貨まで存在する。仮想通貨の発想は昔からあったようだが、その問題も多いのも報道を見て誰もが知っている。またマイナーでは地域通貨のようなものもあり、そのどれも信用を失えば何の意味もないものに転落する。経済学者の岩井克人氏が『貨幣論』(ちくま学芸文庫)のなかで、『壱万円という数字が印刷されている一枚の紙幣をながめてみよう。それは、もちろん日本中どこでも一万円の価値をもつ貨幣である。だが、今度はその一万円を貨幣としてではなくたんなるモノとしてながめてみよう。そうすると、それはその立派な印刷にもかかわらず、それ自体としてはなんの価値ももたない一枚のみすぼらしい紙切れとして立ちあらわれてくるはずである』と書いているように、貨幣はその価値を失えばたちまち全く何の価値をもたないものに転落する。観賞用にでもなくトイレットペーパーにも使えない。(ちなみに本書でもマルクスの資本論が下敷きとなって論が展開されている)。

一方、故今村仁司氏の著作からキーワードとして「第三項排除」という思想があげられる。貨幣とモノとの交換の際に、第三項におけるスケープゴートの存在として貨幣を捉える考え方。また最初に戻って、アリストテレスの自然学と政治学から発展して、貨幣を「運動」として捉える考え方。この二つはマルクス、あるいは資本論を経済学ではなく思想・哲学として捉える考え方であろう。「運動」として例を挙げた「靴」を「貨幣」に転化させて考えると、靴は靴の機能をもったものとしてつくられるのに対し、貨幣は貨幣のためにあるのではなく、出来上がった靴がその人に機能的に満足された場合に交換可能な媒体、つまりスケープゴートとしてはじめてその機能を発揮するという点で「運動」においては「可能態」が「終極実現態」へ移行する、つまり運動の中にあるということがいえる。自然における運動はこの貨幣のみでなく、様々な状態で起こりえる現実がある。つまりそこにあるものが、そこにあるだけでは機能を発揮せず、何らかの状態にはまったときにのみ「発現」する。アリストテレスの『自然学』のなかでは、建物の建材についてもわかりやすく例をあげている。建材は建物の一部となって初めてその価値を発揮した状態になる。しかし建材はスケープゴートとして製作されたものではなく、その意味で貨幣は極めて自然の状態ではない状態が自然の状態であるし、その運動状態が極めて激しいモノであることが貨幣の特殊性を際立たせているといえる。