TEXT ベケットの言語「快楽」

テクストをめぐる快楽の大きなものは、「オイディプス的」快楽であろうが、私にとってもう一つの快楽は非「オイディプス的」なものとの出会いである。「オイディプス」は「衣服」が避け、口を開いたところから垣間見える肌の「出現-消滅」である。まぎれもなくこのバルト的快楽とは、『物語が「父」を登場させ、起源と結末を裸にする、知る、認識する』ことであり、一方でその快楽を「非」的な現出で認識すること。ブランショとベケットの「フィクション」体験がその最も覚醒的な現出となり、すべてのアポステリオリから解放され、一時的に、あるいは終始表象の現前を拒否してくれる。そして「言語」の海へと導いてくれる。ドゥルーズはこのような体験を、いわゆる「ベケット論」として「言語Ⅰ」を、『言葉でもって可能なことを尽くすという野望をもつ以上、順列組合せは一つのメタ言語を構成しなければならない。この言語においては物の関係が言葉の関係に一致し、言葉はもはや可能なことを実現にみちびくのではなく、言葉自身が、まさに一つの消尽しうる固有の現実を可能なことに与えるのだ。ぎりぎりまで小さくなり。もうそれ以上はない。不在にむかって、無限が零に達するように一直線に』としたうえで、この切断されたものとしての言語を定義している。またこの言語Ⅰを「名詞の言語」とも言っている(『消尽したもの』ドゥルーズ著、宇野邦一訳、白水社刊より)。ここでいう「順列組合せ」とは、『可能なことを包括的選言命題によって尽くす技術あるいは科学』としていて、選択された可能性はメタ言語として、可能なことに消尽しうる固有の現実を与えるということになる。続けてドゥルーズはさらに言語Ⅱを「声の言語」とする。フィクションを可能にする様々な言語Ⅱ。これは『混成可能な流れによって作動する』。さらにドゥルーズは言語Ⅱについて同書で以下に述べている。

『言葉を尽くすには、言葉を発音する〈他者たち〉に、あるいはむしろ混合されたり区別されたりする流れにしたがって言葉を発し分泌する〈他者たち〉に、言葉を結びつけなければならない。この非常に複雑な第二の契機は、第一の契機と無関係なわけではない。つまり話すのはいつでもひとりの〈他者〉なのである。言葉は決して〈私〉など待望したことはなく、言語とはいつも異国語でしかないからである。それはいつも他者であり、みずから話すことで所有する物の「持ち主」である。あいかわらず可能なことが問題なのだが、こんどは様相を異にしている。他者たちは様々な可能世界であり、声たちはこの可能世界に、その声がもつ力にしたがってたえず変化しうる現実を提供する』。

「私」を待望しない「他者」、そして「他者」が発する「声」にしたがって、語り手が不連続と「立ち止まり」を続ける。そうした感覚は具体的に(ベケットの)作品の読むことで、より鮮明になる。

ベケットの小説三部作といわれる『モロイ』、『マウロン死す』、『名づけられないもの』が昨年、宇野邦一による新訳で刊行された。初めて三作を通して読んでみると、以前読んだ『事の次第』と『マーフィー』とともに、エクリチュールにおけるアプリオリな解釈の心構えと期待を超えた裏切りに、さらに思考の拡大と旋回という原初的な「眩惑」体験に陥る。あらためてそこに喜びを見いだすことができるのがベケットであることを実感する。これはブランショでも同様の体験を得ることができる。『モロイ』の一節を以下に挙げる。

『警官がやってきた。私がぐずぐずしているのが気に障るのだ。彼にしたって窓のほうから見られていた。どうやら笑われていた。私のなかにも笑っている人物がいた。悪いほうの足を手で抱え、自転車のフレームの上をまたがせた。私は出発した。行き先を忘れていた。思い出そうとして止まった。私には自転車をこぎながらものを考えるのは難しい。走りながら考えようとするとバランスを失って転んでしまう。いま現在形で私は語っている。過去のことは現在形で語ればやさしい。これは神話的現在というものだ』(『モロイ』河出書房新社刊、宇野邦一訳より)

全体を通してこのように具体的な行為、行動は描写されてはいるが、旅の途中で出くわす様々な事象のなかで、そのときそのときの言葉を継続する。ここには「私」という語り手が存在し、ぎりぎりのフィクションを成立せしめる「声」が存在する。先述の「言語Ⅱ」が成立する。

「言語Ⅰ」に戻ると、それは「語り手不在の名詞の連続」ともいえるもので、『事の次第』で顕著に表れる。以下に一節を抜粋する。

『わたしの人生最終版言いそこない聞きそこないに見つけそこないそして泥のなかでのささやきそこない顔面下部の束の間の動きいたるところで脱落だらけ

それでもどこかで記録はされそのほうがよいそのまま順を追いわたしの人生の一瞬一瞬わたしは百万番ではないほとんどすべてが失われ誰かが聴きそれからもう一人誰かが記録を取っているひょっとしたら同一人物(原文ママ)』(『事の次第』白水社刊、片山昇訳より)

句読点もなく、誰が何に対して言っているのか、いわゆる文章の法則を逸脱した表現といえる。このように一見支離滅裂な印象を与えるものの、小説は全体として三部から構成され、第一部は「わたし」が「ピム」を求めた旅の日記であり、第二部はその「ピム」と「わたし」の共同生活について、第三部は「わたし」の言葉、というように内容が破綻しているということではなく、物語が存在する。つまり一見小説の「語り手」が判然としないように見えて、それが省略されているか、背後に隠れているような構造がある。つまり「言語Ⅰ」、すなわち「語り手不在の名詞の連続」は決して語り手がいないというわけではなく、見えないだけという場合もある。隙間から覗くと確かに存在する場合がある。先に挙げたドゥルーズによる解釈のように、言語は『ぎりぎりまで小さくなり。もうそれ以上はない。不在にむかって、無限が零に達するように一直線に』展開する。

先述の『モロイ』の後に発表された『マウロン死す』も同様な手法で、『モロイ』よりさらに「不連続」が強くなる。以下に一節を抜粋する。

『現在の状況。ここは私の部屋のようだ。そうでなけれりゃ、ここにいられる理由がわからない。しばらく前から。なんらかの権力が仕組んでいるのでなければ。そんなことはありえそうにない。私のことで、どういうわけで権力が方針転換したのか。一番単純な説明ですませるのがいい、たとえそれほど単純じゃないとしても、たいして説明になっていないとしても』(『マウロン死す』河出書房新社刊、宇野邦一訳より)。

しかしその後発表された『名づけられないもの』では、ある一節を抜粋すると、『この前置きはもうすぐ終わりにして、そろそろ私のことでは決着をつけたいものだ。不幸なことに、いつものように私は一歩踏み出すのが怖い。なにしろ一歩踏み出すとは、ここから出かけること、自分を見出し、見失い、消滅し、再開し、最初は未知のものとして、それからおもむろに、いつものように、別の場所で、私はずっとそこにいたと言うだろうが、実は何も知らないし、知ることができず、見ることも動くことも考えることも話すこともかなわず、それでも少しずつ、こんな障害にもかかわらず、そこがいつもと同じ場所だとわかるのにはちょうど十分なだけわかってきて、そこは私のためにあるようだが、私は望まれず、私のほうは望んでいるようでもあり、望まないようでもあり、・・・』(『名づけられないもの』河出書房新社刊、宇野邦一訳より)というように、その後文が途切れずさらに続き、訳者である宇野邦一による解説に、『全編がひとつの「言語ゲーム」であるにはちがいない。むしろ「言語破壊ゲーム」というものだろうか』、と書かれているように、ここでは小説としての定石は拒否される。しかしそれは「破壊」ではなく、文としての構成は保たれている。よくあることだが、読んでいて、一体誰が語っていて、何についてなのか、何のことなのか、全くわからない小説は少なくない。特に現代の世界文学では多い。しかしそういった小説のなかで、単なる言語ゲームに陥っているものを見分けることは簡単なことではない。セリーヌの一連の作品において、その暴力的なエクリチュールに内包される一貫性と力強さを「言語ゲーム」と形容することは違和感がある。しかし一方で本当に単なるゲームに終始して、「何か高尚なことを言っている」という印象を与えようとしている小説も多いのも事実だ。少なくともベケットやブランショに関しては、その構造の解析において最も思考を要する部類に入ることは間違いない。ドゥルーズは『消尽したもの』のなかで、『可能なことを尽くすには、〈可能なもの〉(物あるいは「あれ」)を、それを指示する言葉に、包括的選言命題によって、まさに順列組合せにおいて結びつけなければならない』としている。

ベケットは『名づけられないもの』で、作品間で横断しマーフィー、モロイ、マウロンに触れ、『彼らのせいで時間を失い、無駄な骨折りをした』と書いている。そして、はじめて「私」について喋ろうとしている、とも言っている。「他者」としてマーフィー、モロイ等がもつ声が可能せしめる世界に、作品中「他者」であるはずの「私」が自分について喋る、すなわち喋る対象が「他者」である「私」であることで、作品はあくまでフィクションとしての領域を確認し、私を再び作品に引き戻す。