TEXT a+u レヴュー-2

バーナード・チュミは私が大学2年、80年代の中頃に、a+uで「ラ・ヴィレット公園」が掲載され、私を含めた多くの学生が大きな刺激を受けた。当時他にダニエル・リベスキンドやザハ・ハディドなどいわゆるペーパーアーキテクトによるドローイングや計画案が次々と同誌に発表されたこともあり、私たち当時の学生はそれまで参照してきた近代建築の巨匠たちから興味の対象が移行していった。彼らのテキストや論理よりもそれまでとは異質のデザインのインパクトに学生のみならず多くの人が影響を受け、その一方で彼らのテキストにはあまり大きな関心が向かなかったというのが現実ではないだろうか。つまり論理以上にその現前としての作品に集中し、どうしたらこのようなデザインができるものかと自分なりに考え、多くの学生は設計演習などでまねようとしたものだ。

前回のテキストで最初に触れたように、a+u7月号は「70年代の建築」全般についての特集だったが、8月号は磯崎新の70年代に絞った特集が組まれている。副題は「実務と理論」となっている通り、実作と主に実施設計図の青焼き図面が掲載されている。実務と言えば、設計業務全般を示すものと思われるが、ここでは理論と実践という関係に置き換えて考えてみたい。設計においてよくあることだが、基本計画と実作では大小にかかわらず違いが出ることはよくあることである。実作において基本計画で盛り込まれていた要素が欠落していたり、あるいは基本計画の原型をとどめていないもの、まったく違う案になっていたりすることもある。しかし基本計画が承認され、それがそのまま実作として実現しない、という状態においては、その大きな理由に工事中に工事費が膨らみすぎたか、あるいは着工前に予算オーバーで実施設計の変更という事態になるかであろうが、他に施工上無理な計画だったか、無理ではなくても費用がかかりすぎるという理由もある。顕著な例が数年前に問題になったザハ・ハディドによる国立競技場だろう。結局国立競技場も事実上コンペのやり直しという事態になった。しかし計画案としてまとめ上げる、あるいは承認される前に廃案になるか、設計者が諦めるか、ということが多い。つまり最初に発想した案が、計画を進めていく途中で、あるいは社内でプレゼンした段階で廃案にされることも多い。発案者はほとんど諦めてしまう。しかしそこでその実現可能性を説得し施工上も予算上も、さらには施主の理解をクリアできるよう仕事を進めることは、かなりの困難を極める。しかし多くの人を説得し、動かし、それをやり遂げる人が本当のデザイナーともいえる。上記の建築家はそれができた人たちである。身近にも稀だがそういった人は存在する。「アイディアはいいものだが、実際には無理ではないか」という状況は、その程度の差はあれ、どこでも起こりうる事態だ。この理論と実践ということを考えた時、私はカントの著書『啓蒙とは何か』(岩波文庫)に収められている『理論と実践』が思い浮かぶ。完全な題目は『理論では正しいかも知れないが、しかし実践には役に立たないという通説について』というもので、以下に本文から一部抜粋する。

『実践的規則を総括して、この総括そのものを理論と呼ぶのは、これらの規則がある程度の普遍性をもつ原理と見なされるような場合である。なおこの場合には、かかる規則の使用に必然的影響を及ぼすような多くの条件は無視されるのである。これに対して実践というのは、何によらずただ仕事をしさえすればよいというのではなくて、なんらかの目的を実現するための行為を指すが、しかしその場合にもこの行為は、目的実現の仕方に関してなんらかの一般的原理に従うのである』。

さらに『理論と実践とのあいだには、両者を結びつけて一方から他方への移り行きを可能ならしめるような中間項を必要とする』(カント著『啓蒙とは何か』岩波文庫 篠田英雄訳)。

訳者が後記で『「理論が全体として厳密に構成されていれば、それは的確に実践と一致する」というのがカントの主張である』と書いているように、実現不可能な状態に陥れるのは理論の厳密さの不足があるということが読み取れる。

磯崎新の、これは70年代ではないが、80年代の終わりに実施された「奈良市民ホール」のコンペで1位を獲得した実作を、私は今世紀の始めに体感した。なぜこの作品を持ち出したかというと、二つの思い入れがあるからだが、一つは私が学生時代に所属した研究室で参加したこのコンペの一員としての経験があることと、もう一つは実作を見学した時の驚きにある。建物全体のデザインの他、特殊なタイルの外壁材と、なにより大・小二つのホールのデザイン。特にガラスの小ホールには大きな驚きを抱いたとともに様々なことを考えされた。舞台と客席のあるホール、こうした用途で建物の外観や構成の単なる意匠ではなく、一番重要なホールそのもののデザイン、しかもそこに画期的なアイディアが盛り込まれたデザインに対して、様々な思いを抱く。音が反響しやすいガラスを構成要素として、しかも壁面に使用することに対する高いハードルが予想され、ほとんどの人は周囲からの「無理だ」という声に諦めてしまうのではないかと私など考えてしまう。それを現実のものにする過程で、確かな理論と言説が必要だし、誰でもできるわけではない。優れた建築家に限らず優れたデザイナーとはこういうことが出来る人なのだと改めて思い知らされた。

磯崎新は著作も多いので、テキストを通して理論を享受できる。もう30年くらい前に読んだ対談集『建築の政治学』を今改めて開いてみると、アイゼンマンとの対談『過激さは中心からの距離』で、自己の世代について論じあっている。

アイゼンマン:俺たちの世代の精神、イデオロギー的な精神は、モダニズムの後にあらわれた真の意味でのポスト・モダンの世代のものだ。様式上ではなく、真に概念としてなんだ。俺たちは、1945年以後の戦後に、世界の大部分が再建されねばならなかったという事実によって、過激にさせられてしまった。アメリカも日本と同じように完全に再建されねばならなかった。だが、その再建は、協調した過激主義とでもいうべきものだった。モダニズムには、社会的・政治的イデオロギーを排除するところがあったためだ。日本の全土をおおっているこの空虚なモダニズムをみてみたまえ。俺たちの世代はそれに与するには若すぎたし、68年の学生革命に加担するには年をとりすぎていた。(中略)だから、俺たちは、ある意味で、年寄りの過激派でもある。(中略)68年の過激派たちは、建築を破壊した、その世代の連中はなぜか消えちまっている。失われた世代だよ。自滅してしまった。

磯崎:彼らは、デザインの廃棄を叫んでいた。デザインをさけた。

アイゼンマン:「建築」に正面から立ち向かおうとしなかった。『建築の政治学』(岩波書店刊より)

この対談を読むと、以前のテキストで書いたジョン・ケージと武満徹の対談を思い出す。分野は異なるが、現代音楽における二人の立場は、「ジョン・ケージは音楽を構築しなかったのに対し、武満徹は音楽を構築した」ということに通じる。磯崎もアイゼンマンも、「建築」に正面から向き合った人物だからこそ今でもその影響の大きさが現在につながっている。

a+u8月号に戻ると、北九州市立中央図書館(1974年)において、実施設計図の平面詳細図、矩計図の青焼き図面ほか基本計画図としての透視図(外観と内観)が掲載されている。前回テキストでグンナー・バーカーツのGAギャラリーの冊子に接したのと同じように、大学図書館でこの図書館のたしか単体のGA特集か磯崎の作品集をいつも見ていたことを思い出す。ライトやカーンあるいはミース、コルビュジェなど近代建築の巨匠以降の建築で、入手しうる情報として「a+u」や「GA」など限られた建築雑誌による少ない写真を何度も見ながら、その「形態」をまねて設計製図の課題で自分なりの精一杯の「いい感じ」を展開させた、そういった学生時代を思いだすと、情報量とプレゼンの媒体の変化の大きさにも思いがいく。

前回のテキストとあわせて、7月号、8月号で取り上げられた現存する建築は今もなお我々を魅了する。それはなぜなのだろうか。前回ルイス・マンフォードの講演『芸術と技術』を取り上げたが、あらためて一部を抜粋する。

『芸術作品は、単に目をひくものか単に衝撃を与えるだけのものなら、ひとの注意を長くとどめておくことはできず、いわば魅惑的でなければならない。そして、派手になりすぎないやり方で、意味をもつものでなければならない。しかもその意味は、意味内容をはっきり言いあらわす数字や記号のように、あまりあからさまでかつ一定内容に限定しすぎてはならず、むしろ反対に少しばかりあいまいで、少しばかり謎めいて、観客や聴衆がどのような反応を示すか不確定な余地をのこしておかなければならない。観客や聴衆がその創造行為に共に与ることができるように』。