2019.5.3

TEXT プルーストの「その時」―2

    前回、『現実とは感覚と回想との関係のことであり、作家は文章のなかでこれらをつなぎ合わせるために見出すもの』として、『失われた時を求めて』から引用してプルーストの作家の在り方を取り上げた。作品を仕上げていく段階で、ある感覚についてプルースト独特の感性を表現した箇所がある。

『ときには作品の悲痛な断章がまだ下書きの状態にある段階で新たな愛情や苦痛が到来すると、それはその断章を仕上げ、豊かに膨らませる機会となる。このように役に立つ大きな悲嘆にかんしては、さほど不平を言わなくてもいい。そうした大きな悲嘆はかならずやって来るものであり、われわれをそれほど長く待たせることはないからである。とはいえ悲嘆はそう長つづきしないから、その悲嘆を大急ぎで利用しなければならない。人の心はすぐに慰められるものであるからだ。逆にその苦痛が慰められないほどに強いときは、心臓が充分に強靭でない人は死んでしまうからだ。というのも肉体にとって健康にいいのは、幸福だけだからである。しかし精神の力を強化してくれるのは悲嘆である。そもそも悲嘆は、そのたびにある法則を発見させてはくれなくとも、そのたびに習慣や懐疑や軽薄や無関心という雑草をひき抜いてわれわれを真実へとひき戻し、ものごとを真剣に考えるよう強いるから、やはり必要不可欠なものなのだ』。(第13巻 岩波文庫 吉川一義訳)

「どうせ悲しいことは起こるのだから、もとより幸福など求めない」というような類のいわばシニックで悲観的な思考ではなく、『悲嘆はかならずやって来る』ものであり、作品、すなわち仕事や実生活においてそれを利用しなければならない、しかも『悲嘆は長つづきしない』し『すぐに慰められてしまうから』として、「悲嘆」というものを現実の必然的事象として受け止める。それはプルースト自身が人生経験のなかで体得し、さらに過去の様々な現象から分析し、思考したいわば「科学」であり、それを作家としていかに活かすのかということを思考したリアリストとしての顔が最も表出した一節ではないかと思う。この膨大なテキストを仕上げていく段階で、様々な悲しいことに遭遇するたびに執筆を中断したり止めてしまっては、それは少なくとも職業としての作家としては不適格であり、逆にその悲しみを作品の質に転化させてこそ、しかもすぐにそれを行ってこそ作家なのであり、プルーストはそれをこの小説で証明してみせたということになる。 このように悲しみに目を背けず、それを積極的に受け入れるということを、小説のなかで明確に書かれた小説を他に挙げると、例えばドストエフスキーの『罪と罰』やフォークナーの『野生の棕櫚』があげられる。ラスコーリニコフはこれから起こりうる悲しみを受け入れ、自首し、シベリアへ流刑される。しかしそこでは大きな病気をして、受け入れた罰以上の悲しみを負うことになる可能性から身体的に回復し、精神的にはソーニャと和解し、そして自我とも和解することになる。『野生の棕櫚』においては、ウィルボーンが「悲しみと無のあいだにあって、悲しみを選ぶ」とし、逃げることも自死することも拒み罪を償う。いずれも物語としては悲惨で暗いものだが、ドストエフスキーもフォークナーも主人公の行動や言葉を通して、物語の結論として悲しみを積極的に受け入れることを描いているため、物語の悲惨さや暗さというものがその結論のための経過であるという認識に至らしめる。そして読む者を励ます力強さを獲得する。『失われた時を求めて』の『精神の力を強化してくれるのは悲嘆である』という言葉は、ドストエフスキーやフォークナーと同じように、力強い言葉として我々に訴えかける。

昨年の地震の後のテキストで、フォークナーの日本の若者への言葉を引用した。『人間は強靭であり、何ものも本当に何ものも、戦争の悲しみも、失望も絶望も、何ものも人間が生き続けるほど長くは続かないだろう。・・・すがるべき杖を探すための努力ではなく、希望と人間の強靭さと忍耐力を信じることによって自分の足で真っ直ぐに立つ努力をするならば、人間はあらゆる苦悩を乗り越えられるだろう』。私たちが経験した悲しみは、個人差はあれ、やがて薄れて、そしてまたあらたな悲しみや困難に遭遇する。しかしそれら悲しみは長く続かないが、だからといってそれら悲しみをなかったこととするのではなく、そのときそのときその悲しみをしっかりと受け入れることで精神の力を強化していくという気持ちを持つことができれば、『失われた時を求めて』は人生のなかで大事な出会いといっても言い過ぎではないだろう。

2019.4.29

TEXT プルーストの「その時」―1

小説の中でも、長編を読むという行為は読書の最大の楽しみの一つともいえる。例えば文庫本で4巻以上もあるような大きな小説というと、トルストイの『戦争と平和』、ミッチェルの『風と共に去りぬ』、スタインベックの『エデンの東』など他にも上げたらきりがないが、これらの小説は長いにも関わらず非常に読みやすいという点でも共通していて、それが長く読まれている理由の一つでもあるようにも思われる。しかしとりわけ群を抜いて長い作品がプルーストの『失われた時を求めて』ではないだろうか。この有名な作品は、有名であるにもかかわらず、全部を読み切った人は一体どれだけいるのだろうかと考えてしまう。私もこのあまりに大きさゆえ、もう30年ほど前になるが、エクストレ版で読んだくらいで、それ以来全部を通して読んでいない。しかし9年ほど前に岩波文庫から全14巻の刊行が始まり、それを機会に1巻目から読み始め、1年に1冊かせいぜい2冊しか配本されないものを、もう9年にわたって読み続け、ようやくあと1冊の配本を残すのみというところまできている。かつてこれほど長い期間にわたって読み続けた小説はない。昨年暮れに配本された第13巻目は『見出された時Ⅰ』で、物語としては第1巻目からもう20年ほど経過した状態で、主人公「私」を巡る出来事の長々しい描写を経て、「私」の文学論が展開される。「私」の文学論は「プルースの」文学論に置き換えることが出来る。しかしそれは文学論というより、彼の思想、哲学といっていいものであり、胸に響くエクリチュールが展開する。

『一時間はただの一時間ではなく、さまざまな香りや音や計画や気候などで満たされた壺である。われわれが現実と呼んでいるものは、われわれを同時にとり巻いているこうした感覚と回想とのある関係のことであり、-この関係は単なる映画的ヴィジョンでは抹消されてしまうから、映画的ヴィジョンは真実だけを捉えようとしてなおのこと真実から遠ざかる-、この関係こそ、作家が感覚と回想というふたつの異なる項目を自分の文章のなかで永遠につなぎ合わせるために見出すべき唯一のものなのだ』。(第13巻 岩波文庫 吉川一義訳)

  プルーストは、「現実とは感覚と回想との関係のことであり、作家は文章のなかでこれらをつなぎ合わせるために見出すもの」として、作家の在り方を説いていて、『失われた時を求めて』とはまさにこの思想を体現した、いわば「媒体」のような存在である。私が9年にわたって読み続けられたのも、おそらく時代も場所も、風俗や文化も、時代背景や日常も大きく異なるものに対しても、自分の日常に沿って、自己の環境や境遇との照合と対比のなかで、いわばもう一つの日常として物語が傍らを静かに歩いていたからではないかと思う。単に面白いストーリー展開や結末を期待していたのでは挫折してしまうだろう。またまとまった期間に、たとえば1か月集中的に読もうと思っても、やはり頓挫してしまう、おそらくそういう小説であろう。先述した『風と共に去りぬ』、『エデンの東』などは、物語として壮大で、感動を呼ぶ小説だが、その一方で一度読んだきりで、また読みたいと思うのにかなりの時間を要する。しかし何度も繰り返し読んだ小説というのは、やはりストーリーテリングだけではない。例えば長編のなかでもジョイスの『ユリシーズ』は読むたびに新たな発見がある。しかし『失われた時を求めて』は、その最後までたどり着くのに相当な時間がかかるため、読後また読み返したいとすぐに思っても、なかなか難しいのが現実なのだろう。

先ほどの抜粋した文から発展し、「私」が文学論を展開している。『・・・しかし真実がはじまるのは、作家が異なるふたつの対象をとりあげ、科学の世界における因果律という唯一の関係に相当する芸術の世界における関係としてこの両者の関係をうち立て、この両者を美しい文体という必然的連環のなかに閉じこめるときだけである。(中略)・・・自然自体がそもそも芸術のはじまりではあるまいか?・・・自然は、ある事物の美しさを、しばしばずいぶん後になってから、べつの事物のなかでのみ、ようやく私に教えてくれたからである。』

  プルーストは感覚と回想の関係を説き、そしてそれだけは文体としての芸術に到達していないと考える。ここでは「真実」という語で必然的連環のなかで、異なる2つの対象を捉え、『両者をひとつのメタファーのなかに結びつけて両者に共通するエッセンスをとり出すとき』真実がはじまるとする。

この長大な書物が100年も読み続けられた最大の理由は、この『見出された時』における、「私」に語らせたプルーストの文学論の存在ではないだろうか。私がこれまで読んだ小説のなかでも、このように物語のなかで、しかも最後に登場人物が作家や小説について論ずるという構造は記憶がない。なにか長い眠りの夢から突然現実に引き戻されたような不思議な感覚である。そしてこの感覚がもう一度最初に戻って、読み直したいという欲求につながっていく。「見出された時」にいたる経過は、決して失われた時ではなく、プルーストが求めた真実のとらえ方、エクリチュールの在り方を現前化させる長い長い舞台であるように思える。

2019.4.14

TEXT アントニオーニの質感

以前のテキストでG.ヘルンヴァインを取り上げた。経験と体験を巡る内容の回で、森有正の思想を受けて「特に貴重な経験」として、ヘルンヴァイン展がその後の人生において固定化された「体験」となったことを書いた。その「体験」は私が30歳になる直前のことだったが、さらにその10年前の大学1年の頃の経験が固定化された「体験」となって、それが現在までつながっている対象がミケランジェロ.アントニオーニである。アントニオーニは20世紀の半ばイタリアで活躍した映画監督で、フェリーニと並ぶネオリアリスモの巨匠である。私の「出会い」は、先述したように大学に入学してまもなくのことで、彼の映画は、それまで高校時代から好きで見ていたいわゆるハリウッド映画とは全く異質なものだった。当時テレビで深夜に放映されたアントニオーニの『太陽はひとりぼっち(原題L’eclisse』)をたまたまビデオに録画していたものを観た。その時の印象は、まず単純に面白くないという感覚しかなかった。しかしその後繰り返し観ていくうちに、次第に惹き込まれるようになった。そしてその後アントニオーニの他の作品のみならず、フェリーニやゴダール、ベルイマンなどヨーロッパの映画をよく観るようになった。これらの経験は先の回に書いたヤン・シュヴァンクマイエルやP.ボカノウスキー、セルゲイ・パラジャーノフといった商業映画とは一線を画す作品に触れるようにつながっていったが、いわばその嚆矢が私にとってアントニオーニだったといえる。アントニオーニの映画の中のシーンや画面の構成、空気や役者の表情などから発せられる、いわば像の質感などは、私のその後の仕事や日常の中で常につきまとうというか、自分を支配している覆いのような存在になっている。その覆いのようなものを最初に具体的に表現した例としては、大学院修士設計で、いわば漠然とした空間における「質感」のようなものを、そのアントニオーニから影響を受けた感覚を契機として、全体と部分の考察を基本とした様々な思想、理論の助けを借りながら論と設計を展開した。(それは本HPのWORKで「Representation1」として掲載している)。建築という仕事を基本とした日常の中で出くわす、主に視覚的体験としてアントニオーニの映像が根底にある。

具体的なシーンとして挙げると、『情事』(L’avventura 1960年)では、小島で行方不明となった女性の恋人とモニカ・ヴィッティ扮する友人との関係を象徴するような、建造物の石の壁面が画面の半分を占める二人の背景。『夜』(La notte 1961年)では、特に後半、早朝のゴルフ場で二人が歩くシーン。時間の感覚を失った空と芝が広がる中に樹木が点在するなかを並んで歩き、芝に座りこむ二人。ジャンヌ・モローの美しく暗い表情と、夫への愛が冷めたことを口にする妻としての悲しみがそのまま風景と同化する。そして先述した『太陽はひとりぼっち』では冒頭の男女の別れ話のシーン。何度も話し合った後、早朝の男の部屋から出ていくモニカ・ヴィッティが、住宅地の脇の草むらを抜け、自宅マンションへ入って窓から揺れる樹葉を見つめるシーン。証券取引所で、ある証券マンが亡くなったというアナウンスのあと1分間の黙とうを捧げる中、太い円柱を挟んで立つヴィッティとドロンのシーン。そしてなんといっても最後の数分間の映像。二人が待ち合わせ、歩き、話しが繰り広げられた場所の、二人の不在のシークエンス。『赤い砂漠』(Il deserto rosso 1964年)はアントニオーニ初のカラー作品であるが、特にこの作品は、工場とその排気ガス、港の霧など前作までの都会的な情景とは異なる陰鬱な様相が全編通して作品を覆っている。

今取り上げたシーンは私のその後の生活の中で、ふとした瞬間に訪れる。大学時代の室蘭の風景・・・いつも吹いている風、道路脇に箒で掃かれた跡のような雪、新日鉄工場群と鉛色の空。あるいは札幌での、時間や季節の感覚を失う、何でもない街の風景。仕事で偶然通りかかる団地の画一的な形と小さな公園。あるいは具体的場面でなくても、例えば安部公房の作品で描かれる身近な街の普遍性など。これらの感覚は単に視覚的な経験が「体験」として積み重ねられ、現在に至るまでの自分の心象風景として固定化したもとのとなっている。タイトルに挙げた「質感」とは、マテリアル、すなわちものの物質性というか、具体的な手触りの感覚を、いわば空間をキャンバスにみたてたような手触り感覚を「質感」として捉えたものだ。それは学生時代に出会った「アントニオーニ」から得られた逃れられない感覚となっている。

2019.3.21

TEXT 「不正操作」とファウスト-2

  「ファウスト」を主題とした作品を書いた作家はゲーテの他、ドイツの劇作家グラッペとイギリスの劇作家マーロウがいる。ヤン・シュヴァンクマイエルは「ファウスト」の撮影日誌のなかで、先の回にあげた「不正操作」という言葉を書いている。撮影後のある日帰宅途中で自分の「ファウスト」が、実際に何についてのものなのかをじっくり考えたという。つまりそれは「不正操作」について他ならない。マーロウの「ファウスト」を下敷きとしたシュヴァンクマイエルの作品はゲーテとグラッベのそれと何が違うのか。ゲーテとグラッベのそれは『反乱を起こす「巨人(ティタン)」であり、知識の万能さをめぐるロマン主義的な考え方』であることに対し、マーロウの方は『神への反抗と瀆神にたいする罰が問題になっている』としている(『』内は日誌文中から引用)。しかしシュヴァンクマイエルの「ファウスト」に対しては、マーロウのそれを下敷きにしているとはいえ、一方で現代における現実的で乾いた思想で解釈している。作品そのものが語り回答していることを、彼はあえて言葉にしているといった感じだ。それはファウストという伝説とそれを担わされた「人物」、そして「ファウスト」を題材とした映像の創造においては演じる役者と役柄の関係、台詞とリハーサル、現実ではなく芝居であること、それらは「ファウスト」という伝説の表象の在り方のシュヴァンクマイエルという一創造者の手法と表現という解釈、つまり伝説のファウストの役柄を与えられた悲劇的な対象、それは芝居の役者という意味ではなく、ゲーテ、グラッベ、マーロウが「操作」した架空の「人物」、それがシュヴァンクマイエルの「ファウスト」では、それに加えて台詞を暗記させられた「役者」、「舞台」という「操作」という更なる表象の舞台としての「ファウスト」の解釈を、彼独自の言葉(翻訳を通してではあるが)で日誌に綴っている。そしてこの「操作」を一貫して「不正」として捉えていることが興味深い。
彼は日誌の中で語る。『不正操作の対象となって悲劇的な立場(役柄)におかれ、そこで死ぬまで忠実に演じていく「偶然の」人間なのだ。これはまさにある明確なパラドクスだ。ひとは不正操作されてファウスト(反逆者ファウスト)の悲劇的な立場におかれ、この不正操作にたいしては反抗さえしない。これは現代のアクチュアルな問題だと思う』。日誌以外でもインタビューのなかでも、やはりこの「不正操作」について触れている。『撮影の最中、私にとって強迫観念となっているテーマ、すなわち不正操作というテーマを作品のなかにもちこみたいという強い衝動を感じていました。不正操作は全体主義体制の原理にはとどまりません』。『逆説的なことに、ファウストは、知らず知らずのうちに不正操作の犠牲になっているのです』。
『現代のアクチュアルな問題』。シュヴァンクマイエルはこの「不正操作」の解釈を単に自作の創造行為にのみあてはめているのではなく、現代が抱える様々な矛盾や権力・暴力にまで拡大して、引き上げて捉えているだろうことは容易に想像できる。

2019.2.17

TEXT 「不正操作」とファウスト-1

ヤン・シュヴァンクマイエルの作品を初めて観たのは、もう30年近く前になると思う。札幌でアートフィルムかショートフィルムばかり集めた作品の上映だったと記憶する。その時シュヴァンクマイエルのみでなく、他にブラザーズ・クェイの作品も印象に残っている。ヤン・シュヴァンクマイエルはチェコの映像作家で、クレイのコマドリを始めとして人形のコマドリ、アニメと実写を組み合わせた映像を多く生み出している。私が初めて接してから数年後にシアター・キノ(当時まだ数席しかない超小型の映画館)で上映された『悦楽共犯者』(1996年)を観た時の強烈な印象はいまだに忘れていない。初めて観た作品は『男のゲーム』(1988年)だが、クレイで作られた人の顔がインモラルな方法でゆがめられ、破壊される。グロテスクだがユーモアも内包されている一方、構成が一定の法則に沿っていて、よく練られた創造物であることが伝わってくる。一方『悦楽共犯者』は、クレイの表現よりは実写のコマドリが多く、内容は男の「悦楽」のために工夫された、いわば他人には「無害」だが個人的な「装置」の創出の自由さが表現されている。ここで繰り広げられる「サド」と「マゾ」の交錯は、現代を生きる私たちの隠された「悦楽」表象に転化される。そしてブラックでグロテスクでありながら、ユーモアとタブーを同時に「湿った」画面に貼り付けられ、他では出くわすことのない圧倒的なオリジナリティを見せつけられる。
公開の場で観たのはこの二つの作品だけで、他はDVDで多くが入手でき、私もほとんどの作品を観ることができた。なかでも『ファウスト』は他とは若干趣向が異なるように感じる。多くの他の作品は「内的」あるいは「スタジオ的」印象だが、『ファウスト』だけはもう少し「開かれた」感じがある。この作品に絡めて、ゲーテの作品で良く知られるドイツの『ファウスト博士』の伝説、そしてシュヴァンクマイエルのこの作品におけるいくつかの言説、撮影日誌などから彼がキーワードとして頻繁に登場する「不正操作」という語を作品としての『ファウスト』を軸にしながら考えてみたい。・・・(続)

2019.1.2

TEXT レクチュール1題

筒井康隆の現在新刊として入手できない長編や短編集をまとめた〈筒井康隆コレクション(全7)〉を購入して、そのまま手を付けず1年以上経ってしまい、この連休を利用して第1巻を読んだ。第1巻には全部で4作収録されおり、どれも初期のもので、SF作品だ。そのうち『48億の妄想』は筒井康隆らしいユーモアと知が詰まったもので、しかも内容が面白いだけでなく、半世紀後の今現在書かれたものではないかという錯覚に陥る。編者である日下三蔵による解説を抜粋すると、『『48億の妄想』の世界では、テレビがすべての価値観を左右している。有名人には無線式のテレビカメラ「カメラ・アイ」が張り付いていて常に演技を要求されるし、一般人でもひとたびテレビに出演することになれば、タレントとして大げさな振る舞いをするのが当然という社会だ。この作品の世界と我々が暮らす現代社会との類似に驚くしかない。都会では町中いたるところに監視カメラがあるのが普通である。何か事件があれば一般人が携帯電話で動画を撮影し、それがインターネットにアップされて拡散する。昨日まで無名であった人が、マスコミに取り上げられると、有名人の仲間入りだ』、というように、読んだ者誰もが現代の作品である感覚に陥る。

具体的に興味深い文を2つ取り上げる。

 

『どうしてなのかしら?私、今の社会って、お芝居みたいな気がしてしかたがないの。いつからそんな気がしはじめたのか、自分じゃぜんぜん、わからないのよ。本当の社会生活ってものが、別のどこか遠いところにあって、現実の社会生活は、本当の社会生活をカリカチュアライズしたものに過ぎないという気がするの。人間的なものがなくて、皮相で、嘘みたいに思えるの。あなたはそんな気がしない?一度も、そう感じたことない?』

 

『大昔は、旅をするのは死地に赴くことだった。そしてそこから不穏な思想を、自分たちの安定した社会に持ち帰り、それによってその社会を進歩させた。だが今では、戦争に行くのさえ観光気分なのだ。観光旅行社クーポン券さえ買えば、エキゾチックな局地戦の光景が簡単に楽しめるはずだとさえ思っているのだ。現代では旅行者はいない、あるのは観光客だけだ・・・と、折口は思った』

 

半世紀も前の記述だ。一つ目の『あなたはそんな気がしない?一度も、そう感じたことない?』という言葉は、自分に問いかけられているようだ。SF作品とはいえ、いや優れたSFだからこそ、突飛で唐突、非現実というものを超えて、ある時代を共有した人たちの枠組みを外すことなく、共通言語で過去と現在を結びつける。

 

2019.1.1

TEXT ハードボイルドと言葉

この年末年始にまとめて本を読んだ。前回TEXTの続きではないが、長く入手できなかった本で昨年復刊されたものでロス・マクドナルドの『動く標的』という作品がある。ロス・マクドナルドといえば、登場する探偵リュー・アーチャーが有名で、この探偵が初登場する作品がこの『動く標的』である。学生時代からこの作家が好きで、特に『さむけ』、『ウィーチャリー家の女』はイギリスのミステリーとは違った魅力とリアリティがある。他の作品も翻訳されているものはほとんど読んだが、この『動く標的』だけはやはり絶版状態が長かったということもあり、この記念すべき作品だけ読んでいないという不幸な状態が続いていた。読んでみて、やはり先に挙げた二作品よりは面白味は薄いが、それでもあらためて気づかされたことがあった。それは登場人物、この場合とくに探偵であるリュー・アーチャーから発せられる言葉である。具体的に取り上げはしないが、その確信に満ちた言葉、あるいは自身を含めた人間の弱さに対する慰めと勇気づける言葉、それらはハードボイルドというジャンルに括られた先入観の枠を取り外し、時代と国を超えた普遍性を読者に訴えかける。ハードボイルド、つまり“かたゆでたまご”、“カタブツ”のような人物から思いもかけない、人の心を揺さぶる言葉を発することがある、ということを再認識する。以前別のTEXTで書いたが、漱石の『明暗』で、『露西亜の小説、ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってる筈だ。如何に人間が下賤であろうとも、又如何に無教養であろうとも、時としてその人の口から、涙がこぼれる程有難い、そうして少しも取り繕わない、至純至精の感情が、泉のように流れ出して来る事を誰でも知ってる筈だ。君はあれを虚偽と思うか』(原文ママ)と書いている。リュー・アーチャーは架空の人物であるから、リューの言葉はそのまま作者であるロス・マクドナルド本人の言葉である。マクドナルドは『カタブツ』でもましてや『下賤』でもないが、設定した人物に語らせることで、私たちは漱石が作品で語らせたようなことを認識させてくれる。

この『動く標的』のロス・マクドナルド以外の作品、とりわけハードボイルドやミステリーでも、このように作中の人物が語る言葉に胸をうつという経験が少なくない。

例えば、これは作中人物の言葉ではないが、文の書き出しが美しいものに、ウィリアム・アイリッシュの『幻の女』は有名だ。

『夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった』。(ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』早川書房刊、稲葉明雄訳)

またこれも有名だが、様々な場面で使われるフレーズで『人間はたくましくなければ生きてゆけない。しかし優しくなければ生きる資格がない』といった言葉は、レイモンド・チャンドラーの『プレイバック』の中の一節で、実際にはもっと軽い、男女の関係の中で発せられる言葉で、女が探偵に『あなたのようにしっかりした男がどうしてそんなにやさしくなれるの?』という問いかけに、探偵が以下のように答える。

『しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない』。(レイモンド・チャンドラー『プレイバック』早川書房刊、清水俊二訳)

その他こうした言葉に加え、ユーモアも含み、更にハードボイルドの探偵のイメージから少し離れた人物にロバート・パーカーのスペンサーがいる。作品『初秋』では依頼者の息子を自立させるためにボクシングや大工仕事など、不器用でおせっかいともいえる行動をとる。ミステリーやサスペンスといったジャンルを超えた、一種の教養小説にもなっているというのが今でも色褪せない作品の魅力となっている。

私たちは基本的に言葉を通して日常を生きている。言葉で人を動かし、説得し、説明し、納得させる。そして相手の言葉を聞き、時に反論し、同調し、話を前に進める。時に意外な人物から意外な言葉を聞くこともある。大半は固定観念から、その人物から得られる情報を自ら枠内に押し込め、それ以外の言葉を聞こうとしない。しかし本当に思いもかけない言葉に出くわしたとき、それをきちんと受け止めるこということを忘れてはならないと、自分に言い聞かせる。

 

2018.12.31

TEXT レクチュール2題

映画作品に原作がある場合、私の場合映画を観た後にその原作を読むか、観る前に読んだか、あるいは読まずに今に至るかのいずれかである。若いころに観た映画で、例えば『ジャッカルの日』はその後すぐにフレデリック・フォーサイスの原作を読んだ。しかし同じ作者で『オデッサ・ファイル』は本が絶版になっていて、古書で入手はできたであろうが、そこまでする気はなかったため、原作を読まずにいた。また他にはベルナルド・ベルトリッチ監督の『シェルタリング・スカイ』はその前の『ラストエンペラー』で、坂本龍一が音楽を担当したということもあり、関心はあったが、結局映画自体は観ていない。原作を読んでみようとも思わなかった。他に列挙すると、ヴィム・ヴェンダースの『アメリカの友人』はP.ハイスミスの同題の原作、ヒッチコックの『レベッカ』、『鳥』はデュ・モーリアの同題の原作があり、他にも多数あるが、この3作品については映画観賞後に読んだ。原作は今でも割と簡単に書店で手に入る。しかし最初に挙げた『オデッサ・ファイル』と『シェルタリング・スカイ』は今でも絶版状態で、新品で入手が出来ない。そこで仕方なく図書館で借りた。図書館で本を借りるのは学生の時以来、30年ぶりである。それで、この年末を利用して読んだ。

 

かつて読みたいときにそれが絶版状態で、復刊を待った本を挙げると、ドストエフスキーの『未成年』があり、岩波文庫でも新潮文庫でも長い間手に入らなく、ようやく新潮文庫で復刊されたのが10年くらい前だろうか。ようやくそれを手にすることができた。ドストエフスキーの五大長編のなかの一つであるにもかかわらず、絶版状態が長かったのは意外だが、私はこの10年で何度か読み返している。他にラヴレーの『ガルガンチュアとパンタグリエル』の岩波文庫版(翻訳が渡辺一夫)、また『千一夜物語』の岩波文庫版、この2つも復刊まで時間がかかり、復刊前にともにちくま文庫版で購入し、読んだ。(『ガルガンチュアとパンタグリエル』ちくま文庫版は宮下志朗訳である)

 

『シェルタリング・スカイ』はアメリカの作家ポウル・ボウルズによるもので、1949年に発表されている。この小説を読みたいと思ったきっかけは、今年(2018年)発表された坂本龍一の『async』に、ボウルズ自身による朗読がコラージュされた曲(『fullmoon』)があったことがあげられる。ボウルズは日本ではあまりなじみがない作家であるように思うが、読後もう一度読みたくなるような作家である。作品の内容は簡単にいうとアメリカ人がアフリカに旅立ち、そこで苦難に満ちた生活を送るというものだが、アフリカの自然の描写と文明人の文明の世界では通用しない不安定さが、地味ながら丁寧に描かれている。具体的な言葉に作者の主張が表れている。作中、主人公の男が妻に向かって言う。

『君は決して人類なんかじゃない。君はただ、君自身の貧乏ったらしい、どうしようもなく孤立した自我にすぎないよ。(中略)おれは、そんな幼稚な手段でおれ自身の存在を正当化する必要を認めない。おれが呼吸しているという事実が、おれの正当さの証拠なんだ。人類がそれを正当さの証拠とみとめないなら、おれをどうなりと好きにするがいい。おれは、自分がここにいる権利を証明するために、存在への旅券(パスポート)を持ち歩くつもりはない。おれはここにいる!おれは世界のなかにいる!だが、おれの世界は、人類の世界なんてものじゃない。自分の眼で見る通りの世界なのだ』。と(新潮文庫版 大久保康雄訳)。

抽象的な、概念上の「人類」という言葉に対して、男は実感としての人の存在を説く。それは文明を離れ、それが通用しない世界で獲得した一つのヒューマニズムともいえる。

蛇足だが、大江健三郎の『個人的な体験』という作品で、主人公(バード)の愛人が、二人で企てたアフリカ行きを阻まれたことを嘆くシーンがあり、それに対し主人公が、『それはぼく自身のためだ。ぼくが逃げまわりつづける男であることを止めるためだ』と言って、自身にふりかかった不幸から逃げないことを宣言する。アフリカ行きが未知の世界への憧れというよりは、やはり逃避という要素も大きかったということを悟ったのではないか。

『一口にしていえば、砂漠の強烈な圧力の下で、アメリカ的人間を内部から支えている文明人としての自信とか自意識といったものが、いかに崩壊してゆくか、その過程を追求した作品である』と、『シェルタリング・スカイ』の翻訳の大久保康雄があとがきで書いている。

 

『オデッサ・ファイル』は『ジャッカルの日』と同様、事実をもとにフィクションとノンフィクションが渾然一体となった作品で、フォーサイスの力量が十分に発揮された作品である。『ジャッカルの日』はド・ゴール暗殺計画をベースに“ジャッカル”が着々と準備を進めるという割とシンプルな構成であり、また映画では主役のエドワード・フォックスの魅力が存分に発揮され、非情な殺し屋を演じるイギリス紳士に完全にはまっていたのに対し、『オデッサ・ファイル』は映画自体は、全体的に地味な印象を受ける。しかし登場人物、ミラー役やロシュマン役の俳優は味わいがあり、リアリティを引き上げる。しかし映画と原作では、理由はわからないがラストで異なっている。映画ではロシュマンがミラーに撃たれ死亡するが、原作ではロシュマンは亡命している。オデッサというのはSS隊員の組織のこといい、SSとはヒトラーのもとハインリヒ・ヒムラーによって支配されていた軍隊の中の軍隊で、ナチス第三帝国で特別の任務を担っていた、いわば親衛隊である。(ちなみにこのヒムラーに関する優れた作品として、今世紀に入って発表されたローラン・ビネによる『HHhH』という小説がある)。『オデッサ・ファイル』も『ジャッカルの日』同様、どこまで真実でどこまでがフィクションかわからないが、フォーサイス特有のストーリーテリングと一級のエンターテイメントとして仕上がっている。

今年はノーベル文学賞が見送られたということで、実はこれまでほとんど受賞そのものには関心がなかったし、ましてやボブ・ディランが受賞するとなると、もはや文学賞の意味などないのではないかとも考えてしまうし、さらに村上春樹にしても特別ほしい賞の対象ではないのではないかとも思ってしまう。しかし過去には受賞で初めて知った作家も多く、知ってよかったと思う作家もいる。ドリス・レッシングがその一人で、作品は多様だが翻訳が限られていて、これからの翻訳を望んでいる。とくに『アルゴ座のカノープス』シリーズと『暴力の子供たち』シリーズである。『暴力の子供たち』シリーズは原書で何冊かは読んだが、やはり翻訳でないとなかなか理解に限界がある。

過去には現代作家の作品を読んで、読まなきゃよかった、と思ったものが数多くあり、以後あまり現代作家の作品を追うことはなくなったが、それでもトマス・ピンチョンの最新作や、コーマック・マッカーシーなど佳作が多い作家など興味ある作家はいるので、それらの翻訳を待つこともこれからの楽しみの一つでもある。

 

 

2018.12.30

TEXT「フォークナーとの対話」 2018年末

今年九月の地震以降、TEXT「A Passion Play」 –暴力と舞台装置- も、書く気が失せてしまっている。が、いずれ再開したいと思っている。

以前のTEXTで「フォークナーとの対話」という題で何篇か書いたが、改めてフォークナーの作品に触れると、様々な言葉に勇気づけられる。『日本の若者たちへ』と題された1955年のエッセーを藤平育子の訳で以下に抜粋する。

 

『人間は強靭であり、何ものも本当に何ものも、戦争の悲しみも、失望も絶望も、何ものも人間が生き続けるほど長くは続かないだろう、と。また、もし努力をするならば、つまり、人間と希望とを信じる努力を惜しまないならば、すなわち、すがるべき杖を探すための努力ではなく、希望と人間の強靭さと忍耐力を信じることによって自分の足で真っ直ぐに立つ努力をするならば、人間はあらゆる苦悩を乗り越えられるだろう、と』。

 

これは戦後十年経った日本の若者たちの感情を理解し、フォークナーが、自国の、それより古い戦争の後の、十年後の若者の感情に訴えたに違いない誰かが、励ましたであろう言葉を、引用するようなかたちで書かれたものだ。

我々が九月に体験したこれまで見たこともないような光景など、これらは非日常であるから、我々が生き続ける間、ずっと続くわけではなく、多くの人はやがて忘れてしまう。しかし我々は、今も苦しんでいる人たちのことを思わなくては、そして各自が出来ることを、そして役目を果たす努力を怠らないようにしなくては、人は真に助け合うことを放棄してしまうのではないかという恐れを感じてしまう。戦争のような大きな出来事でなくても、頻発する自然災害に見舞われる現代の我々を慰藉し、鼓舞する言葉として改めてフォークナーの言葉が身に染みる。

2018.7.8

TEXT 「A Passion Play」 – 暴力と舞台装置 – 11

6.「中性、透明、不在」

文学論というとなにか仰々しい感じで、研究者でもない人間がそれに触れるのは危険かもしれないが、より身近に引き寄せいろいろ考えるところはある。文学論で思い浮かべるものに、バフーチンの文学理論があるが、ここでは引き続きブランショの『終わりなき対話(Ⅲ)』で取り上げられた、主に文学論について、あるいはそこからインスピレーションを受けて、書いてみたい。しかし同書の特に第三巻目は、私にとっては何となく断片的でわかりにくいという印象で、どこまで理解しているかは自信がない。
ランボーから始まるこの編はキーワードとして「中性的」「断片的」があげられる。「中性的」という言葉から「中点」、すなわち「零度」を連想し、そこからバルトの『零度のエクリチュール』を連想するが、これとはまったく異なる論理である。ブランショは同書で以下のように書いている。

『排除と抹消を続けよう。中性的なものは言語活動によって言語活動にやって来る。とはいえ、中性的なものは単に文法上の性というわけではないーあるいは類や範疇としてみるならば、それは私たちを何か他なるもの、自らのしるしを負ったaliquid(ラテン語で「何か」を表す不定代名詞の中性)へと導く。第一の例として、自分が言うことに介入しない者は中性的だと言っておこう。同様にして、言葉(パロール)がそれを発する者や自分自身のことを考慮せずに発せられるとき、その言葉は中性的だとみなされうるだろう。その言葉はまるで、語りながら語っていないかのようで、言われるべきことのうちでは言われないえないことを語るがままにしているかのようである。だとすると、中性的なものは私たちを、曖昧で無垢ではない位置が帯びているような透明性へと見事に送り返すことになるだろう。そこには透明性の不透明性、あるいは、不透明性よりも不透明な何ものかがあるのだろう。というのも、不透明性を抑えつけるものも、あの透明性の根底、不在という名目のもとで透明性を狙い、透明性を存在させるあの根底を抑えつけることはできないからだ』。

ブランショは文学やフィクションといった限定した領域における思考ではなく、言語活動一般にわたって言葉の「透明性」を『曖昧で無垢ではない位置が帯びる』ものに私たちを引き戻すと考え、さらに「不透明性」を抑えつけるものも「不在」という名目で「透明性」を狙う、とし、すなわち「透明性」という概念を決して肯定的な概念で捉えていない。一方バルトは『零度のエクリチュール』のなかで、明確に肯定的に「透明」、そして「中性」を捉えている。バルトは、『文語から解き放たれようというこれと同じ努力にはまた、今ひとつ別の解決法がある。それは、言語の痕跡をもった秩序への一切の隷属から解き放たれた白いエクリチュールを創造することである』(R.バルト著『零度のエクリチュール』みすず書房刊より)と、文学における言語の問題に触れ、さらに『零度のエクリチュールとは、要するに直接法的、あるいはそういった方がよければ法に関係のないエクリチュールのなのである。(中略)あたらしい中性のエクリチュールは、それらの叫びや裁きのいずれにも加担せずに、それらのただなかに位置している。それはまさしく、そういったものの不在でできている。しかし、その不在はトータルで、いかなる避難所も何も秘密もふくまない。(中略)むしろそれは無垢のエクリチュールなのである。ここでは、生きた言語からも、いわゆる文語からも距った、一種の基礎的言語に依拠して文学をこえることが問題なのだ』と、「零度のエクリチュール」を定義している。
そして『こうした「透明」な言葉は、カミュの『異邦人』によって創始された』とし、『それはほとんど文体の理想的な不在といっていい不在の文体を成就した』と結ぶ。つまりバルトにとって『異邦人』は「叫び」や「裁き」から解き放たれた、不在の、透明で中性的な、という意味で理想的と考えている。あくまで文体として理想的ということではない。さらにカミュという作家自体を言っているわけでもない。しかし『異邦人』が本当にバルトの言う通り、「創始」だとすると、カミュの他の作品はどうなのか、『ペスト』も「零度のエクリチュール」なのだろうか。翻訳を通してしか読むことが出来ない私にとって、どちらもバルトの言うところの「零度」のニュアンスは感じ取れる。『ペスト』はパニック映画やノンフィクションを背景とした劇場的フィクションの様相のかけらはないし、ジャーナリステッィクでもない。扱われている題材からしても『ペスト』の方が「零度」を感じることができるように思う。しかし、この問題を結論づけるには思考が足りず、他の問題に移り、再びここに戻ってきたい。そこで先に挙げたブランショが『不透明性を抑えつけるものも、あの透明性の根底、不在という名目のもとで透明性を狙い、透明性を存在させるあの根底を抑えつけることはできない』とした指摘に対し、それを独特の感性で表現した作家、作品としてイタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』を例に、「不在」と「在」のエクリチュールを考えてみたい。
・・・12へ続く