2014.10.28

TEXT 「ディテールと身体表象」-2

 死後も「生き続ける」建築家はそう多くはない。ましてや百年経ても尚建設途中のものなどあまり知らない。
「アントニオ・ガウディ」という名から連想するイメージは人によって様々である。建築デザインに携わる者の中でも「受け入れられない」「大嫌いだ」などと言う者も少なくない。
 私は大学時代、入江正之先生の研究室でスペイン近代建築を学んだ。19世紀末のモデルニスモの時代の多くの建築家たちは、スペイン、カタロニアという土着性と鉄・ガラス・コンクリートに代表される新素材・技術との融合を模索し、世界にも発信しようと努力した。ガウディも例外ではないが、ガウディはとりわけ世界的にも、そのデザインの(悪く言えば)奇抜さが際立ち、曲解され、それがまだ現在でも尾を引いていないともいえない。

 私が十年くらい前か、バルセロナを訪れた際に受けた印象はまず、ガウディの建築は何の違和感もなく街並みになじんでいるということである。それは、例えばパリにおけるポンピドゥー・センターとは「なじむ」という意味が異なる。ガウディの建築はバルセロナ、カタロニアそのものであり、地中からあるべき姿として掘り起こされたもののような感覚である。ガウディと同時代の建築家ルイス・ドメーネック設計の『サン・パヴロ病院』の夢のようなデザインを背に、ガウディ通りに歩を進めると、次第に視線が上に上がってくる。『サグラダ・ファミリア大聖堂』が迫ってくるのだ。それは都市計画のなかで重要な位置を占め、人々が自由に立ち入ることができる身近で神聖な場所となっている。
 私が抱くガウディの建築に対する感覚、「地中からあるべき姿として掘り起こされたもの」はどこから芽生えるのか。それは一つに、ガウディは「発見者」である、という認識である。

 以下に入江正之先生の著書『ガウディの言葉』(彰国社刊)から、ガウディの「発見者」としての解釈と創造に対するガウディの言葉を引用する。

 ガウディは地中海人の形態認識と視覚の卓越性について繰り返し語っている。「地中海においてはさまざまな事物の具象のヴィジョンが課せられる。このヴィジョンの中に真の芸術がやすらっている。私たちの造形力は感情と論理の均衡である」。曲線はカタロニアの「大地が偶然に作り出す形態」であったように、地中海人は節度ある光を通して、「具象のヴィジョン」を課せられるのである。ガウディが創造について、「創造は人間を通して絶え間なく働きかける。しかし、人間は創造しない。発見する」と述べているが、これらの言葉の中に共通する理解は、この「発見」に深くかかわっている。ガウディが創出する作品の外形を限定する曲線や源泉を、単純な模倣という意味において外的な対象としての自然の諸形象に結びつけることは他愛のないことである。彼は「創造」するのではなく、ましてや模倣するのではなく、「発見」するのである。この形態を、不可視のフォルムに根付けられた具象のヴィジョンを「発見する」ために、苦痛の感覚に裏付けられた感受性についての言葉のようなガウディ自身の創作の姿勢を貫く言葉が重く横たわっていると考えなくてはならない。
 ガウディの作品を形どる曲線や曲面について、ガウディの建築図面やオリジナル・スケッチから、またガウディの創造の言葉や創作の姿勢を貫く靴の感覚の言及からその源泉をたどってきた訳であるが、ガウディの外側の目に見える形態は力強く訴えかけるが、それらの奥にある目に見えない不可視のフォルムにこそ着目しなければならない。(入江正之編著『ガウディの言葉』彰国社刊より)

 私たちは建築のデザインを、創造する行為と思いがちであるし、あるいは創造もまた「模倣」からくるものであるということも考えることが多い。しかしデザイン過程において、「発見」という意識を持つことはあまりない。少なくとも私にはそのような境地に立てない。建築は、そこに存在することで、その土地の空間性を変える働きがある。私がガウディに抱く「地中からあるべき姿として掘り起こされたもの」という感覚を、設計過程の思考の傍らに常におきたいと考えている。

2014.5.31

TEXT 「ディテールと身体表象」-1

 それが自己の内面にしっかりと備わっているはずだと錯覚し、そしてそれが活かされないものに不満を抱く。「それ」とは「ディテール」である。建築生成の過程で、ディテールが占める重要性は多くの専門家は認識ている。しかし現実の実務ではそれが全く発揮されていないことに常に力不足を感じる。
 
 私は大学時代を80年代後半に過ごしたが、その時代背景としては様々な分野でそれまでのモダニズムの概念から発展したポストモダン、あるいはデ・コンストラクションの概念が登場してきた時代でもあった。それらの概念は建築界においては思想の世界から遅れて、表現的な、あるいは表面的、表層的に、いわば手法として都合のいいメソッドとして使われた感がある。世界を席巻した刺激的なプロジェクトや作品、それらを模倣したものが多く出回った時代でもあった。
 そんな時代背景のなかで、当時私が在籍した研究室の先生に大きな影響を受けた。そしてその先生の「教え」は、その後の私の建築設計の基本的な考え方の一つになっている。その先生は日本を代表する建築家の一人で、ガウディ研究の第一人者でもある入江正之先生である。そして先生の師が巨匠池原義郎先生である。私は池原先生に直接お目にかかる機会はなかったが、池原先生の思想は入江先生を経由して学ぶことができたと考えている。それは、「思想的」というより私の感覚では「身体的」といって言いものであり、その「身体的」という感覚の基となっているものは、私を含めた学生に対する先生の接し方、あるいは先生の設計態度といっていいものだ。当時を振り返ると、先生の日常は、まず研究室の学生の誰よりも早く出勤し、誰よりも遅く帰宅する、しかも実践としての「設計」と研究・理論としての「論文」を両立させ、双方を互いに刺激し合いながら高めていく、そんなハードで地道な日常であった。そのようなハードな日常の中で、私たち学生は、先生から直接言葉で指導を受けるとともに、先生がまさにドラフトに向かう姿勢のオーラや息遣いが、研究室という一つの空間内で「身体感覚」として私たちの内部に浸み込んでくる。
 先生のそのような設計態度は、それまで池原先生のもとで学ばれた設計態度そのものであろうことは推測できる。先生のバイタリティは、怠け癖がついた私を含めた学生たちを鼓舞し、建築に向かう姿勢を「身体経験」として教えてくれた。
 いまも先生の作品が発表されるたびにその変わらぬ設計概念とぶれない態度の一貫性に改めて頭が下がる。
 
その入江先生から、私が学生時代に学んだ一番大きなものは、ディテールの考え方である。先生のディテールの思想は、先生の師である池原義郎先生の言葉からも読みとることができる。

 以下に少し長めの文章を引用する。(彰国社刊『池原義郎のディテール』 巻頭の池原先生自身の言葉『ディテールは全体の形へ包摂されて見えないもの』より)

(ガウディの作品を訪れ、その時受けた池原先生の印象)
「建築を組み立てる概念、仕組、方法そのものへの追究には天才ともいえる能力をもちながら、そのものを表面に主張するのではなく、人の心に温かく呼応するために、建築がもつものへの“願い”の中に要素を総合化し、内部の生活を包み込む柔らかさに温もりのようなものをもたせるために表皮に形とディテールを必然させるのを見ることができた。私が形やディテールを思うとき、このベリュスガルドで受けた印象が脳裏から離れない。
 私は、建築設計において、ディテールは全体の形の内側に潜在化され、現寸で処理しなければならないものと考えている。建築の形は直接に見ることができ、視覚によって直接理解することができる。そして、その形はディテールに内在している。ディテールは、形の単なる部分ではない。形は視覚により見ることができるが、ディテールは、視覚の中で直接に認知されない、形の内に秘められたものである。
 たとえば、直線は幾何学の概念では、2点を最短距離で結ぶものであり、2点間はただ一つしか存在しない。しかし、造形感覚の世界では、2点間を結ぶ直線はただ一つではない。2点間を結ぶ直線には、硬い直線、柔らかい直線、ゆるい直線というように多数ある。視覚的には、直線と認知されるものの中で、柔らかい直線とは、幾何学的には、かすかに曲がる曲線である。曲率が視覚では認知されないほどの小さい曲線である。しかし、これは、感覚的視覚の中の形では直線であって、柔らかさがひそんでいる直線である。この視覚では見えない微小な撓みは、私のディテールの基本的な概念を説明するものである。和風建築において、柱の面の取り方、“ちり”の扱いなどに、設計者は細心の神経を使うが、そのものは、全体の形・空間の中に内在していて、そのものの存在は、視覚的にはほとんど捉えられないものである。しかし“面” “ちり”は、建築の空間や全体の形の感性と精神を視覚化する役割を演じる。』

 以上の文章には池原先生と入江先生のディテールに対する思想がはっきりと明示されている。特に「直線は幾何学の概念では、2点を最短距離で結ぶものであり、2点間はただ一つしか存在しない。しかし、造形感覚の世界では、2点間を結ぶ直線はただ一つではない。2点間を結ぶ直線には、硬い直線、柔らかい直線、ゆるい直線というように多数ある。」という部分は、実際に建築設計に携わる人間でないと、実感として理解することはできないだろう。しかもここ20数年におけるCADによる設計・作図では、直線は「2点間の最短距離」であり、たとえゆるい曲率だとしても、最終的は閉じることになる円環の一部である。先生の「ゆるい曲線」とは閉じない曲率である。その感覚は、私はドラフトに向かう「姿勢」から生まれるものだと考えている。いわば身体表現によって生み出されるもの、一種のスポーツのような態度に近いのではないかと考えている。飛躍しすぎかもしれないし、また時代遅れともいわれかねないが、私自身はいまでもそう考える。ではそれがCADによる表現で不可能なのかというと、そうとは言えないが、CADに変換する以前の段階でやはりそういった身体表現が必然であると考えている。池原先生の上述の文で和風建築の“ちり” “面”が取り上げられているが、私たち日本人にとって、「理屈は分からないが何となく美しい」と感じることができる「和」のデザインは、そこに秘められたディテールにあることを私たち設計に携わる者は忘れてはいけないと考える。

2014.5.1

TEXT 「木」の硬軟

 この数十年で建築材料として無垢の木を使うことが次第に少なくなった。木造の構造材は、昔はその部位 ―例えば土台、柱、梁など- で使用する樹種が異なっていたが、いまは同じものを使っていることが多いだけでなく、本木ではあっても集成材が使われることが多いし、輸入材も増えているのが現状である。それはたとえ林業の盛んなまちでも例外ではない。
 いまここで書くことは、木の使われ方の推移についてではなく、建築ではあまり耳慣れないある樹種についてである。「白檀(びゃくだん)」という木がある。私が所有する木材辞典から引用すると、『樹名:ビャクダン 分類:ビャクダン科 ・・・硬さ状況:超硬質 腐食耐久性:良 原木は輸入禁止 白檀はインドの葬儀には欠かせない香木です。インドビャクダンは少し黄色を帯びた灰白色をしていて使いこむと黒ずんできます。インドネシアに入ると木も太くなり、木目が荒く黄色が強くなってきます。自生地の東端はティモール島です。日本では囲炉裏框に使い、茶室の炉には最高の框材とされます。仏像彫刻も有名。』などと記述されているように、硬さと香りが特徴である。木造の家なのに木の匂いがしないのは、いまでは普通であるが、和室をつくる機会があったときなどは何か懐かしい匂いがする。それは畳のい草からくるものがほとんどだが、床の間で本木を使うとその香りも加わる。例えば床柱として「紫檀(シタン)」などは最高級品だが、これも白檀の仲間である。黒檀や花梨などとともに「唐木」というくくりをされることもあり、美しい色や艶の特徴を活かした家具や楽器が作られる。仏像でも白檀が使われるが、それは香りとともに腐食耐久性が良いことからであることは明白である(硬質であるため、彫刻は難儀するらしい)。原産地がインド~インドネシアのアジアであるということから仏教国で仏像にこの木が使われることは納得できる。またアジア原産ということから、中国の古典と、そして現代文学の世界でもそれぞれ白檀について書かれたものをみとめることができる。

 ひとつは誰もが知っている『西遊記』、そしてもうひとつは莫言の『白檀の刑』である。
『西遊記』では、悟空と八戒の会話で白檀の硬さについて他の木と比較する形で記述されている。

「おぬしはガキの時分から山のなかで人を食っていたから、木材に二種類あることぐらいは知ってるだろ?」「知らねえな。どんな木材だ?」「ひとつは楊木(やなぎ)、ひとつは檀木(びゃくだん)だ。やなぎは、その性質はなはだ柔軟である。よって名匠がそれで聖像を彫り如来を刻む。それに金箔を貼ったり白く塗ったり、玉(ぎょく)を嵌(は)めたり模様を描いたりすれば、万人が香をたいて礼拝し、はかり知れぬ幸福を手に入れている。いっぽうびゃくだんは、その性質はなはだ剛硬である。よって製油所がそれで油しぼり用のくさびをつくる。そして鉄のたがでしめつけられたりするんだが、それもこれも、この木が剛強なるがゆえに、こんな苦しみを受けるのであるよ」「兄貴、いい話じゃないか。なんでもっと早く教えてくれなかったんだい?そうすりゃ、やつらにぶたれなくてすんだのにな」 (『西遊記』岩波文庫版より)

 以上は八戒が山からおりる際、二人の女の妖怪に会い、八戒が彼女らに「妖怪」と声をかけたことに女怪たちが怒り、八戒が頭を鉄秤棒で殴られたことを、悟空に話した時の二人の会話である。ここでは彫像についてはむしろ柳の方の記述であるが、人間性の硬軟を柳と白檀の硬さの比較でたとえているのがこの会話の眼目であることが興味深い。
 また現代文学では、やはり現代の中国の作家 莫言の『白檀の刑』という作品があるが、内容は「刑」ということから分かるように、処刑が中心として清朝末期の中国を舞台に書かれたものだ。刑そのものについては本書を読むと分かるのでここでは記述は避けるが、かなり残酷なものである。硬い木が使われる理由がここでは納得できると思う。直接刑とは関係ない箇所で、以下に白檀のことが書かれている文節を引用する。

『母屋に入ると、北京から運ばせた竜の彫り物のある金糸模様の白檀の太師(タイシー)椅子[肘掛けつきの直立型椅子]に端座している舅が、目を閉じて躰を休めているのが目に入りました。両手で白檀の数珠を握り、口ではぶつぶつ言っていますが、お経を唱えているのやら、誰ぞを罵ってござるのやら。』(莫言 『白檀の刑』 中央公論新社刊 吉田富夫訳より)

この一節では椅子や数珠に白檀が使われていることが書かれていて、中国では昔から馴染み深い木の材料だったのではないかと推測できる。
 いずれにしても木は建築だけではなく様々なものに使われる。木は生き物であり、硬軟だけでも人間性にたとえることもある。身近に本木が少なくなる中、改めて木の魅力をみつめてみたい。 

2014.4.29

ニュース 「WORK – Representation 10,11」

2014年の2月と3月にそれぞれ竣工した札幌近郊の住宅「T邸」と「恵庭高齢者住宅」の2件の竣工写真をWORK-Representation 10,11として掲載しましたのでお知らせします。

2014.2.8

ニュース 2014/02/08

 昨年秋に着工した札幌近郊の市内の住宅が先日完了し、今月中に引渡しとなりました。冬季の工事ということもあり、雪と寒さで職人は苦労しましたが、おかげさまで高い品質のものになりました。オーナー様の高いセンスに応え、外観、内観とも白と黒を基調としたデザイン、コンパクトなプランでありながら広さを感じる構成と収納率の高さなど、随所に工夫とディテールが施されています。近々写真を掲載します。 オーナー様には大変感謝するとともに今後の生活を豊かなものになるよう祈っております。ありがとうございました。

2014.1.7

TEXT  新しい都市像

ここに都市に関する二つの主張がある。一つは都市の概念について、もう一つは都市計画の主体についてである。
前者の都市の概念についてのポイントは二つある。
一つは『各個人の居住とか、工場の生産とか、そういう各単位の積み重ねの総和が、たまたま異常に厖大になったというような、いわば帰納的な都市』、もう一つは『新しい都市概念からの演繹的都市』である。そしてこの二つの都市の概念をどのように弁証法的に捉えるかが重要だと説いている。
一方、後者の都市計画の主体について。
『建築家の責任はどこにあるか。実際の形あるものを作り上げること、国民の生活の最終の形態を作り上げることにある。建築というのはどうみたって生産財でもないし流通財でもない。消費以外の何ものでもない。だから最終的には市民の側に立つべきである。しかし実際には市民側から都市に対する発言はほとんどなされていない。市民はバラバラになって皮膚感覚というか、本当に刹那的な感覚によって動かされている。現在の都市計画を進めていっている一番大きなモメントは何と言っても経済界の要請だ。実際には建築家の責任は市民の、国民の生活をよくしていってやらなければならないということだ。しかしそういったって現実的な力がない。そこで市民の間に都市への夢を盛り上げることを願いながらやむを得ず建築家たちがいろいろなイメージを描き出しているというのが現状だ』。

上述いずれも1961年1月1日の日付で『新しい都市像を求めて』と題された座談会(新潮社刊『安部公房全集〈15〉』より)で発言されたもので、出席者は安部公房、川添登、菊竹清訓、田辺員人、丹下健三の五人。都市の概念については安部公房、もう一つの都市計画の主体については川添登のものである。
安部公房の「都市概念」は、都市の生成を始まりと終わり、部分と全体の演繹と帰納の関係で捉えている。都市の「理想」と「現実」の二面性を挙げている。身近な例に引きよせて考えると、いま我々が属するこの都市は、都市計画区域内で定められた用途の制限がある。住宅地、商業地、工業地、さらにそれら各々を細分化した中で細かく制限がされているが、「それらは現状がそうだから、住宅がたくさんあるから住宅地に」といった発想、ではなくたてまえは都市の将来像から決めた区画における制限である。実際はその制限内でも様々な用途が混在するわけで、例えば住宅地にも店舗や事務所も存在する。商業地にも一軒家の建築は可能だ。前述した「理想と現実」という意味は、「将来の理想はこうだが、いま現実はこうである」といった感覚でいつまでたっても描いた理想に到達しないということを含む。これは上述の座談会の時代から半世紀以上経てもいえることである。どの時代も都市の中にいてなにかしっくりこない、違和感を覚える。安部公房はこの感覚をおそらく肌で感じていたのではないだろうか。彼の独特のアングルと視点で撮影した写真作品がそれを語っているように思える。
一方川添登の主張は建築家の立場の根本を思惟するに値する重要な指摘だ。彼は都市計画のモメントが経済界からの要請であることと、建築家がすべき仕事、役割を指摘しつつも限界とジレンマを示唆している。都市に点在する建物、小さな住宅一軒一軒にも顔があり、その都市のファサードを形成する。建築家はそういった視点で都市に対する責任をもち仕事にあたることが大切であることはいうまでもないだろう。

2013.12.3

TEXT 「建築は対象関係論である」-5

『僕は今日大きな願望を抱いた。書くことによって僕の不安な状態を完全に僕の外へ引き出し、それが深みから生まれ来るように、紙の深みに書き込みたい、あるいは、書かれたものを丸ごと僕の中に取り込めるように、それを書き記したい、という願望を』(カフカ 1911年12月8日、日記)

M.ブランショによるカフカ論集『カフカからカフカへ』(書肆心水刊)が最近発行され、それに伴い改めて『カフカ全集』(新潮社版)を通読した。この全集はM.ブロート編集版で、ブロートに対するこれまでの文献上の批判の多さ以上に貢献が大きい。彼がカフカとの約束を破らなければ文学史の大きな損失となっていたことだろう。彼の行為自体(編纂と出版)がひとつの創作行為といえるのではないだろうか。M.ブロートは、集英社版『世界文学大事典』によると『ユダヤ系のドイツ語作家。プラハに生まれ育ち、この街の文学的雰囲気にひたりながら分筆活動にいそしみ、文明批評的な小説や論文を数々ものしたが、亜流的な凡庸さが印象を希薄にしているのは否みがたい。ただ生涯の友人だったカフカのために終始献身的に尽力し、その死後、遺志に逆らってまで残された彼の作品を編纂刊行したことによって、たとえ編纂方法に文献批判上の難点があるにせよ、20世紀文学に無比の貢献を果たし得た。(川村二郎)』と簡単に記されているが、彼はカフカの友人である以前に作家であり、カフカとの共著として『『リヒァルトとザームエル』の第一章に寄せて』(『カフカ全集』〈1〉という作品も残している。

ブロートはカフカをいわば第一ヴァイオリンとした第二ヴァイオリンと考えられないか。第一と第二は主に対する従の関係ではなく、同位あるいは第二こそ「全体」にとって重要な役割を果たすということもいえる。他の例でいうとマルクス-エンゲルス、フロイト-ユング、ドゥルーズ-ガタリの関係があてはまる。特にガタリは大抵ドゥルーズとセットでとりあげられることが多いが、『アンチ・オイディプス』は、二人の評伝や草稿などを読むと機械論など主要なキーワードの多くはガタリによるものが多い(『ドゥルーズとガタリ 交差的評伝』河出書房新社刊、『アンチ・オイディプス草稿』みすず書房刊より)。二者の関係は主従関係を越えたものと考える。これらの例と同じようにカフカ-ブロートの関係を捉えることもできると考える。しかしドゥルーズ-ガタリは共に生前も死後も生き続けたが、ブロートは生前に生き、カフカは死後再生した。つまりブロートの行為がなければカフカはブロートと同じくらいのプロフィールの記述で済まされただけで、死後「生き」続けことはなかったのではないだろうか。
一般的に二者の関係ではどちらかを主でどちらかを従としたがる傾向があるように思われる。また二者間ではなく、三者あるいは多数間では、それがピラミッドを形成する。モノが生れ世に現れるまでの過程では、モノが複雑であればあるほど中心となる関係がいくつも存在するが、大事なことは各々の小関係の中で能力を互いに最高に発揮し、更に他の関係との止揚をはかることであることは言うまでもないだろう。そこで初めて「生きたモノ」となるはずだ。
「本HPテキスト-2」でカフカの言葉(日記)を取り上げたように、カフカのエクリチュールに対する拘泥は、日曜作家か職業作家かによらず、その人物の中の生きることの一つの必然と結びついているかどうか、ということにつながるのではなか。

2013.10.31

TEXT 「フォークナーとの対話」-5

「時代は繰り返す」とか「いつの時代も変わらない」などといわれる。
フォークナーの短編に『クマツヅラの匂い』という作品がある。短篇とはいえ広がりを感じるのはそれがサートリス家の一挿話だからだろうか。『フォークナー短篇集』(新潮文庫刊、龍口直太郎訳)の解説で訳者が書いているように、「父親ジョン・サートリス大佐の復讐を息子のベイヤードがどのように考えるか」ということがこの作品の眼目だが、19世紀のアメリカ南部では当然「眼には眼を」が正義であることころをベイヤードはそうは考えなかった。父親の若い妻ドルーシラは息子にその「南部の正義」を期待していたが、ベイヤードはそれに応えることはなかった。それはフォークナー自身の考えであるのか、「耐え忍び、一見卑怯者と思われる道を選ぶのが真の勇気」(解説より抜粋)というのが新しい時代の正義と考えるのか。
ベイヤードとドルーシラの会話で、その時代の「夢」についてドルーシラが語る場面がある。

「夢なんて身近かにもってると、あんまり安全なもんじゃないわね、ベイヤードさん。あたしよく知ってるわ。あたしにも、昔は夢があったんですもの。夢なんて、毛筋の引金がついた、弾丸をこめたピストルみたいなもんね。いつまでも消えない夢だったら、そのおかげでだれかがきっと怪我をするわ。だけど、それがいい夢だったら、そりゃあ、それだけの値打があるのよ。この世の中には、夢ってものはあんまりたくさんはないけど、人間の生命の数は多いわね。そして、一人の人間の生命も、二ダースの人間の生命も・・・」

ドルーシラは夫ジョンもかつては夢があったことをベイヤードに語るが、それが結局は身を滅ぼす結果となったことから『夢なんて・・・、だれかがきっと怪我をする・・・』などと実感を込めて話す。
一方ベイヤードは、ドルーシラの話をどう受け止めたか、結局新しい時代、つまり父親の次の世代のいわば衰退した、夢のない時代に、「眼には眼を」の正義は通用しない、あるいはその「気力」がない、という態度をとることになる。
このようなベイヤードの態度は先述したように当時では「一見卑怯者」ととられがちだが、現代の視点に立つと、「南部の正義」は実は20世紀も、今世紀も世界各地で起きているのが分かる。ベイヤードの立場は「赦し」とはニュアンスが違うかもしれないが、少なくとも具体的な力の行動には出ない。だからといって言葉によって解決する術も身につけていなかったが、もしこの時代にフォークナーが現代に通じるような「交渉術」的なものを書いたとしたら、それは受け入れられなかっただろう。その時代の枠組みというものがあるからだ。しかし現代から過去に遡って、粘り強い交渉と赦しで時代を拓いた人物は多くいる。
現代は「夢なんて身近にもってると、安全ではない」時代ではない。が、「夢をもてない」ではなく「もたない」現象もあるように思う。それは今の時代に限ったことではないが、ドルーシラの言葉は、19世紀の南部の小さな町での一人の人物の会話として、フィクションとはいえ現代社会の一つの一断面を表象し、またベイヤードの態度も不幸な社会の一つの救いの道のヒントとなるような感覚を覚える。

2013.9.28

TEXT 「建築は対象関係論である」-4

建築における「脱構築」との最初の出会いは、80年代中ごろバーナード・チュミの「ラ・ヴィレット公園(コンペ案のドローイング)」であったように記憶する。彼と同時代で今では巨匠といわれるダニエル・リベスキンド、ザハ・ハディド、あるいはそれより少し前から活躍していたアイゼンマンやゲーリィなどは当時いわゆるデ・コンストラクションの建築家と呼ばれた。まだ若い学生の感性を刺激するには充分な存在であった彼らのドローイングを含め新しい表現は、それが実現可能か、あるいは実作かによらず視覚に強く訴えかけ、建築としてよりはむしろアート感覚で素直な感動を呼び起こすという点で、ある意味で分かりやすさもあったといえる。一方で彼らのテクストは難解で、それらが彼ら自身の建築の具体性とどう関係するのかしないのか当時は理解できなかった。しかしあれから10年、20年と経てあらためて彼らのテクストを読み返してみて、例えば「A+U」のチュミの特集号の文章はある程度理解できても、その後90年代に入ってから出版された『建築と断絶』(鹿島出版会刊)、あるいは同じく「A+U」のリベスキンドのユダヤ博物館の特集の巻のテクストなどはやはりそれをはっきりと理解できたというにはどれだけの知識が必要か計りしれない。リベスキンドは今世紀に入ってから出版されたドキュメントタッチというか自伝的といっていいか『ブレイキング・グラウンド』(筑摩書房刊)という書物があるが、これは論理の展開ではないせいか分かりやすい(内容は彼の一方的な立場で書かれたものであるため、本に登場する他の建築家の思想や行動については別の見方ができるだろうことは想像できる)。ともかく彼らの言説は建築の優れた表象とは切り離されて考えられなければ、テクストの難解さも建築と同じレベルで評価してしまう危険性を孕む。

ヴィトゲンシュタインの『哲学的考察』に以下のような文章がある。
何故哲学がかくも複雑で錯綜しているのか。哲学は完全に単純でなければならないはずなのに、哲学は愚かにも我々が巻き込まれた思考のもつれを解きほぐすのであるが、しかしこのためにはそのもつれと同じだけの複雑で錯綜した運動を行わねばならない。従って哲学の結果が単純であるにせよ、結果に至る方法は単純ではありえない。哲学が複雑で錯綜しているのは、その素材が複雑で錯綜しているからではなく、我々のもつれてしまった悟性が複雑で錯綜しているからである(『ヴィトゲンシュタイン全集〈2〉』より)。

この文自体が難しいということもあるかもしれないが、ヴィトゲンシュタインの主張は「建築」というかたちでも体現されている。20世紀初頭、姉の住宅の設計においてヴィトゲンシュタインは非常な関心を示し、実際に設計した建築家パウル・エンゲルマンの言葉によれば「私は、完成した家を、私のではなく彼の仕事であるとみなします」と言わせるほど深い関わりを持った。エンゲルマンはアドルフ・ロースの弟子であり、完成した家もロースの影響を感じないこともないが、その装飾を除した幾何学的で厳格な構成は、他の同時代の例でいうとテラーニの『カサ・デル・ファッショ』を思い起こさせる。かなり前に雑誌SDの連載(確か海外建築リミックスだったと思うが)で、この「ヴィトゲンシュタインの家」について、記憶違いがもしれないが「透明性」的な言葉をキーワードに評していた。これはロウの「Transparency透明性」のことではなく、あえて言えば「障害がない」とでもいうか、思考の過程で余計な障害を生じさせない操作とでも言った方が正しいだろうか。例えば、窓という建築要素はその部屋の性格によって大きさや開き勝手、あるいは位置などが決まるか、外観のバランスから決めたりすることがあるが、ヴィトゲンシュタインの家では、例えば一般の窓と外に出るいわゆるはきだし窓が基本的に同じデザインであったり、内部のドアも部屋の性格とは関係なく、壁の比率から基本の寸法が決まり、ほとんどが同じサイズになっている。それは人間工学的寸法を無視したものもあり、ドアの高さが人の背の倍くらいのものになっている。要するに雑誌SDの評では、例えば外から中へ移動する際に、ドアの形、サイズなどが同じであることから、そこに「ドア」という概念に余計な思考を介在させないこと、それがこの家では最も重要なことであったのではないか、いうことである。さらにそれはヴィトゲンシュタインの生い立ち、家族関係などの「不幸」を原因に挙げて論じていた。つまり余計な思考の介在はさらに「不幸」をもたらすというのだ。
ヴィトゲンシュタインの生い立ち等はともかく、ヴィトゲンシュタインの「哲学の複雑さ」から特に現代社会の思考過程の単純さと表象の複雑さは、最初に述べた30年近く前の「脱構築」建築とテクストを思い起こさせる。しかし建築は進化し、現代はその思考過程は「複雑」というより、より科学的で複合的になり、むしろ表現されたものはシンプルなものが目を惹くようになったように思う。しかしシンプル一方では、より多様になった現代の思考をうまく体現していないようにも思える。

※参考:『ヴィトゲンシュタインの建築』(青土社刊、B.レイトナー著、磯崎新訳)

2013.8.28

TEXT 「フォークナーとの対話」-4

『八月の光』(新潮社刊、加島祥造訳)
この物語の中心人物クリスマスは、彼が働く製材所に突然あらわれ働き出したブラウンと、中年女性のミス・バーデンの家の小屋に一緒に住むことになる。ある日の眠れないクリスマスの回想の中の情景描写。

「八月の草は股の高さほどだった。草や茎の上には、このひと月に通った馬車の埃が積っていた。道路は彼の前にのびていた。それは樹々や大地の暗さよりやや薄白かった。その一つの方向に町があった。反対方向への道路は丘をのぼってゆく。しばらくすると丘のむこうから光(ライト)が生れ、丘を浮きださせた。やがて彼は自動車の音を聞くことができた。彼は動かなかった。裸のまま尻に両手をあて、股まである埃っぽい雑草の中に立っていて、その間に自動車は丘を越えて近づいてきて前照燈(ライト)をまともに彼へ向けた。彼は自分の裸身が闇の中で、まるで現像液からフィルムの像が出てくるように白く浮きだすのを見まもった」。

 この一節に小説のタイトルの「八月」という具体的な日付と「光(ライト)」という語が登場する。この小説の主題は何か、ということが様々なテクストで論じられてきた。一般的には「クリスマス=キリスト」説が人気(訳者の解説による)のようだが、フォークナー自身は「リーナ・グローヴの物語」と答えている。しかし一方でフォークナーはクリスマスの「自分が何者か分からぬ悲劇的な運命」について語っているように、私はやはりこの物語は出自が不明で生後自分を疑い続けてきた者の不安を描いたものだと感じる。引用したクリスマスの回想の情景は、この物語全体を覆う不安定な人間心理を、光と影のコントラストになぞらえ描写され、単なるクリスマス個人の回想としてではなく、最も印象に残る情景として胸に刻み込まれる。このように文中の一節が物語全体を象徴する情景として描かれていると感じる他の作品が、『野性の棕櫚』である。

「・・・いまや部屋の中は平静をとりもどし、激しい怒りは消え去っていたからである。いまやウィルボーンには、台所のストーヴを前にした灰色の妻がたてる物音が聞こえ、またしても、笑いだしそうな、あざけるような、絶え間ない、無愛想な黒い風の音が聞こえたが、彼にはそれにまじって、棕櫚のぶつかり合う荒々しい、乾いたような音まで聞こえたような気がした。・・・」『野性の棕櫚』(冨山房刊、井上謙治訳)

 棕櫚(ヤシの木)の乾いた音が、効果的に二人の主人公の行く末を暗示している描写である。

『八月の光』では、「クリスマス」という名について、製材所の人間たちが交わす会話に興味深い一節がある。
バイロンの思考

「やつの名は何だって?」ひとりが言った。
「クリスマス」
「外国人なのか?」
「白人でクリスマスなんて名のついたの、聞いたことあるか?」と職工長は言った。
「まずそんな名前の人間は聞いたことねえなあ」と別の者が言った。
 このときはじめてバイロンは自分がこう思いついたことを覚えている・・・名前というものはただ人間を区別するための記号にすぎないはずなのだが、場合によると名前が当人の未来の行動を暗示するものとなり、いつかは『やっぱりそうだった』と人々にうなずかれるようなことにもなるんだ・・・と。実際のところ、バイロンの目に映ったかぎりでは、皆はその名前を聞くまでこの見知らぬ男に特別の目を向けたりしなかった。ところがその名を聞くやいなや、まるでその名前の響きには彼らの想像を刺激するような何かがある、といった様子をみせた・・・この男はどこへゆくにもその逃れえぬ名前で恐ろしい警告を発する人間であって、いわば花なら匂い、ガラガラ蛇ならその尾の音と同じように、その名がこの男の本体を表す、と皆は直感したようなのだ。ただし誰もその警告の意味をはっきりとつかむ能力はなかった。・・・

 前述したようにクリスマスがこの物語の中心と考える他の理由がここにある。読後いつも心に残ることは「クリスマス」という名をもつ男の風貌と悲劇的な結末である。それはリーナ・グローヴの印象より強い。フォークナー自身が言うように「自分が何者か分からぬ者の悲劇」が、バイロンの言葉で、別のかたちで表現されているように考えられる。
 私たちは皆それぞれ名前をもっている。その名がその人物にふさわしいか否かに関わらず、何かその人物そのものをあらわしているような、その人物そのものであるような感覚を抱く。文中にあるようにそれは単なる「記号」ではなく、また「シニフィアン-シニフィエの関係」などでもなく、単に「名」というもののもつ現前とした力であると思う。